おまえの目玉は祝祭の月
猫田芳仁
おまえの目玉は祝祭の月
「俺は降りるぞ」
そのひとことで、脳裏が沸騰した。
秋には子供が産まれるだの前からこんな稼業はうんざりしていただのと言っていたような気もするが、子供ができようがたんこぶができようが知ったことではない。こいつは裏切ろうとしている。それで充分だった。
気がつくと床にフェリーチェが転がっていて、わたしはフライパンを持って泣いていた。
おそらく奇襲で、フライパンという得物があったとはいえ、どうやってわたしはフェリーチェを気絶する程打ち据えることができたのだろう。体格、腕力、喧嘩の経験、など。すべて彼がわたしを凌駕する。わたしはよほど怒っていたに違いない。フライパンを床に捨てて自身をあらためた。反撃にあったとおぼしい跡が数ヶ所あったが大怪我というわけでもない。膏薬を貼っておけば問題ないだろう。
視界が悪い。涙を拭う。最後に泣いたのはいつだったか。痛いから泣いているのではない。痛覚は大分昔に捨ててしまった。「降りる」と言われたのがよほど堪えたのだろう。そういうことにしておこう。
さて、問題は彼だ。フェリーチェだ。このまま転がしておいて目を覚ましたときにひどく面倒なことになるのは火を見るよりも明らかだ。家に返してやるつもりはない。いままで一緒にやってきた仕事を公表されたらわたしは長い旅に出なければならないだろう。殺してしまうのはもっといけない。惜しい。いったいどうしたらいいものか。
なにかないかと思って部屋を見回した。立て掛けてあるのこぎりを見つけて、わたしはいいことを思い付いた。
***
4回目に見に行ったとき、フェリーチェは目を覚ましていた。わたしに気づいても想像していたよりずっと静かで、しかし狂っている様子でもなかった。
「よお」
いつもよりも明らかに冷えた声だが、わたしと話そうとする意思はあるようだ。いいことだ。
「俺の右手、どこやった」
「貰った」
フェリーチェの右手は、肩の少し先からなくなっている。さすがにのこぎりで落としたのではない。綺麗に切り離さないといけなかった。
「どこやった」
わたしはなにも言わないで、自分の右袖を左手でゆっくり引き上げてやった。フェリーチェの瞼と唇が震える。
日に焼けた、逞しい、大造りだが整った形をした、フェリーチェの、右手。わたしの肩に繋がったそれを、自身の夜光茸じみて白い痩せた手で、撫でて見せた。
まだ動かない。
しかし、感覚は少しある。
「かえ、せよ」
「返さない」
フェリーチェは声を出すだけで、向かってこようとはしない。足首に鎖をつけてあるがいまわたしが立っているところくらいなら辿り着けるだろう。腕を切り落として間がないので動けないのかもしれない。なるたけ気を遣ったがかなり出血していた。
こちらから歩み寄ると、にらみつけてはきたが特に何も言われなかった。腕に巻いた包帯をほどく。薬を塗ってまた巻く。フェリーチェはそれをじっと見ていた。懐から出した紙包みを左手に握らせて、そのままで手が届きそうなところに水の瓶を置いた。
「鎮痛剤」
素直に飲んだ。そろそろ薬の切れてくる頃だし、ひどく痛んでいるだろう。空きっ腹に飲むには強い薬なので多少腹が痛くなるかも知れないが、傷の痛みよりはましなはずだ。
「なんで殺さない」
「惜しい」
「なぜだ」
なぜだ。
助手としてのフェリーチェの腕を惜しんでいるのか。しかし彼の腕は片方しかない。以前のような働きは腕一本ではできない。動けない人間の世話をするのは面倒だとわたしはよく知っている。殺してばらして処分してしまったほうが、そのときは大変だが結局は楽なのだ。
「わからない」
踵を返す。扉を閉める。鍵をかけて確認する。フェリーチェは静かなもので、お約束の待てだの出せだのは言わなかった。
***
元来頑丈な男だったためか、回復は人より早かった。健康的にはまだ見えないが血色は少し戻り、食事は粥に野菜屑を入れて与えている。わたしが食べさせてやると言ったが拒否された。彼は器を小さな台に置き、左手で不器用にスプーンを使っている。
彼は素直だった。
傷の確認は拒まず、わたしが渡す薬も食事も文句を言わず口に入れた。毒の混入を疑われると確信していたわたしは拍子抜けだ。身体を拭いたり着替えさせてやったりすると嫌そうだが抵抗はしない。
だが、諦めているわけではない。
彼は賢い。いまの状態でへたに抗ってわたしが世話をやめたら、悲惨な死にかたをするとわかっている。傷が治るのを待つ。治ったら、わたしの隙を待つ。隙を見つけたらわたしをどうにかして、ここから出ていく。おそらくこれで間違いはないだろう。いかにも彼が考えそうな、まっすぐな計画だ。計画ともいえないそれを健気に暖めている彼はいじらしかった。いじらしかったので、嫌がらせをすることにした。
何回目かの食事のときに、わたしはこれみよがしに懐から鍵束を取り出して、部屋の隅に投げた。フェリーチェが目を丸くする。直ぐにわたしの意図に気がついたらしく、なんでもないふうを装った。
足の鎖の長さは中途半端だ。立ち上がって歩くことはできるが、部屋の隅までは届かない。つまり、目の前にある鍵を取ることができない。
嫌でも鍵に目が行くといったようすで、粥を口に運ぶ合間にちらちらと部屋の隅を見てしまうフェリーチェはわたしをとても満足させた。ここしばらくで一番良い気分だ。
帰りには、念のため鍵を拾っていく。毎回やると効果が薄れるのも早いだろうと思い、鍵を投げるのはときどきにした。それでも徐々に諦めてゆくかとは思ったのだが、ここから出るための大きな取っ掛かりだ。フェリーチェはいつも理想的な反応を見せてくれる。
わたしは気分が悪い時に鍵を投げることにした。逃亡に執着するフェリーチェを見るといい気分になるからだ。
***
経過は順調だった。慎重に治療を進めている甲斐があって感染症も起こらなかった。一か所に閉じ込められて長いフェリーチェは少し痩せたが、想定の範囲内だ。情緒も落ち着いており、わたしに対して怒りを露わにしたことは一度とてない。不気味なほどだ。しかし、投薬を増やす必要がないのはありがたい。うっかり合わない薬で壊してしまうなんていうポカはしたくなかった。
いつも通り食事と処置を済ませて部屋を出ようとしたところ、いつもと違うことがあった。
「ダーニャ」
「……なにか」
呼び止められた。振り返ると、蜂蜜色に澄み渡った瞳がわたしを見据えている。
「あんたはおれを、どうしたい?」
問われて少し、考える。確かにそれは疑問だった。わたしは何のために、彼をここで生かし続けているのだろうか。今までもたびたび考えてきたがさっぱりわからない。ここですぐに結論が出そうにはなかった。
「おれをばらして、自分で使うなり、売り払うなりしてしまえばいいじゃないか。おれのを『正真正銘、処女の肝臓だ』とでも言って悪魔主義者に売り払ったらどうだい。どうせ素人には見分けがつかねえ。あんたのことだから抜かりはないと思うが、ちゃんと切り売りにするんだぜ。おれはこのとおり図体がでかいから、本当に女子供の肝臓と比べられたらサイズでばれる」
淡々と落ち着いた声で、さまざまに自分の使い方を提案するフェリーチェ。まあまあ長い期間一緒にやってきただけあって、彼の提案はどれも価値のあるものだった。彼は人間のどの部位をどうやって利用したら最大限の金を引っ張れるか、よく理解している。
しかしわたしは、その素晴らしい提案を何一つ実行に移す気分にはなれないのだった。金銭的に差し迫った状況にないというのも理由のかもしれなかった。だがそれ以上は「なんとなく、やりたくない」というひどく曖昧なものでしかないのだ。
わたしは次々提案をするフェリーチェを遮り、今すぐどうこうする気はないと伝える。彼はきょとんとした顔で、またなぜかと尋ねるのだが、わたしには答えるすべがない。わたしを見つめる、彼の凪いだ瞳を見つめかえしているうちに、何か恐ろしいものを思い出しそうになる。わたしは突き動かされるように彼の左手を取り、話を聞いてほしいと頼んでいた。
彼は、了承した。
***
「――わたしの生まれは知っているね」
フェリーチェがゆっくりと頷く。いつだったか、話したことがあった。わたしたちがまだ、無邪気な共犯者であった頃に。
「あの町の冬は本当に長くて、寒くて、毎日のようにひどく吹雪いた。子供の頃は毎年、このまま世界が滅んでしまうのではと思ったよ」
兄弟姉妹と肩を寄せ合い、震えていた自分はもううまく思い出せない。吹雪で世界は滅ばないと気づいたのはいくつの時だったか。案外、今のわたしもどこかでそれを信じでいるのかもしれない。
「だけれど、祝祭の日には絶対に晴れるんだ。雲一つないどこまでも真っ青な空で、真夏より眩しく太陽が輝いていて、積もった雪に反射して――嘘みたいにきれいなんだよ。あちこちで楽器を鳴らして、大鍋で作ったシチューが供されて、大人は酒を飲んで騒ぐ。子供には菓子が配られる。今思えば質素な菓子だったけれど、冬場は満足に食料が入ってこない町だからね。ごちそうだったよ」
なぜこんな話をしているのか、自分でもよくわからなかった。フェリーチェも怪訝な顔をしているが、口も挟まず、おとなしく聞いている。
「だけれど――それは日中だけだ。まだ日が高いうちからそそくさと後片付けをして、皆家に帰り固く扉を閉ざして、夕暮れ時には誰もいなくなる。次の朝が来て日が昇るまで、誰も外に出ようとはしないんだ。
――祝祭の月を見ると気がふれるからね」
わたしはそこでいったん言葉を切り、フェリーチェの眼をじっと見た。彼がようやく口を開く。
「見たのか」
「見た」
あれはいくつのときの祝祭だろうか。2番めの姉がまだ家にいたから、わたしはそれほど大きくなかったはずだ。夜中になっても眠れなかったわたしは、ふらふらとベッドを抜け出した。同じベッドに寝ていた弟は気づいたようだったが、小用だとでも思ったか、わたしに声をかけることはしなかった。
わたしは、裸足のまま外に出た。たちまち冷たさで灼けるように足が痛んだが、不思議と気にならなかった。昼間と同じように雲一つない、吸い込まれそうに真っ暗な空。その真ん中で、煌々と輝く蜂蜜色の満月。
あんなに美しいものを見て、気がふれないほうがどうかしている。
それからどうしたのかは全く記憶にない。家の前の足跡は、夜が明ける前に始まった吹雪が覆い隠してくれたので誰に知られることもなかった。
そこまで思い出して、わたしはようやく、ほかでもないフェリーチェにこの話をした理由に気が付いた。
「フェリーチェ」
「なに」
「わたしを見て」
困惑に眉を寄せて、言われたとおりにわたしを見るフェリーチェ。それに非常な満足を覚えるわたしがいる。ひょっとしたら、最初からこうだったのではないか。彼の眼にわたしはずっと、あの祝祭の月を重ねていたのではあるまいか。気づいてしまったからにはもう、わたしには彼を殺すことができない。瓶詰の満月など興ざめするばかりだ。ああいう素敵なものは、鑑賞者の意思に支配されることなく気紛れに輝いていなければならない。他人から見たらちゃちな眼球であっても、私にとってはあの神聖な満月に等しいのだから。
「もっと見て」
蜂蜜色の瞳がわたしに向く。
「そのうち散歩に行こうか」
思いもしない言葉が勝手に口をつく。はっとするわたしとフェリーチェを置き去りに、「わたし」は言葉を重ねた。
「月の綺麗な夜がいいな」
おまえの目玉は祝祭の月 猫田芳仁 @CatYoshihito
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