堕天使

 春とて、夜は冷たく冴えていた。

 レオナルドの邸宅の、頑丈な造りの赤い屋根の上。そこに人影があった。

 ひさしに立ち、役に立たないガーゴイルの頭に片足を乗せた人影は――黒天鵞絨びろうどのような翼を、その背ではばたかせた。

 堕天使。

 闇と同じ色の翼が、その証である。

 ――地獄よりの使徒。人を惑わし絶望を与え、その魂を地獄へと連れ去る。忌まわしき神への叛徒――預言者達はそう伝える。

 堕天使は、闇に包まれた庭園を見下ろした。禍々しい意匠の施された黒の長衣が、生ぬるい夜風に揺られている。

 その貌は、姿は、人の背を凍らさんばかりに美しい。

 黒い翼を畳む優雅とさえ見えるその仕草はしかし中途で止まり、堕天使は頭を巡らせ、羽から透かし見るように背後を見やった。

 そこにはいつの間にか、暗黒をくり抜いたような白い燐光を放つ、美しき翼を持った人影がたたずんでいた。

 汚れなき絹のような翼を持った仄白い人影――天から舞い降りた、天使であった。

「お前か」堕天使が、忌々しげに顔をしかめながら呼びかけた。

「またあなたは、人の心を、悲しみと絶望で埋め尽くそうとしているのですね」

 悲しげな、天使の声。

 天使のかおは、堕天使の美貌とまったく同じ――瓜二つであった。慈愛と憎悪、相容れぬ表情だけが、人ならぬ両者を違えている。

「邪魔をする気か? ……いや、それは無理なのだったな。天の神は、天使がみだりに人界に干渉することを嫌うはず」

 堕天使は、なんの感動もなくそう言った。その言葉に、天使は寂しげに俯く。

「……そうです。私に出来るのは、こうして半身たるあなたにお願いすることだけ」

「気安く半身などと呼ぶな!」

 身をひるがえし、堕天使は叫んだ。その全身で、心底からの嫌悪が煮えたぎっていた。

 堕天使は天使の――己と同じ貌に、指を突き付けた。

「何が神だ、何が天使だ! お前達は己の魂の暗闇を瞑い世界に投げ捨て、己の清浄を保とうとした。捨てられた暗闇はどうなった? 私を見ろ! 私こそはお前が捨てた魂の暗闇だ。どぶのような海に投げ捨てられた腐った葡萄酒だ! お前は自分が清廉だと思っているのか? そうではないぞ、神でさえそうではない。一瞬とて忘れるな、我らはお前達の子をたぶらかし、裏切り、魂の器を絶望の酒で満たす。それこそが我らの美酒だからだ。これを罪と呼ぶのなら、それは誰の罪だ? 私の罪か、それとも私を生み落としたお前の罪かっ!」

 天使は美しい貌を沈痛に歪めた。堕天使の言葉を否定も肯定もせず、受け入れていた。

 その貌のまま、天使は言った。

「レオナルド・ゴドフリートは、充分、人の世の苦しみを味わいました。彼の悲しみの涙は涸れ果てたのです。この上、暗黒の国に落ちて、あなた方にさらなる責め苦を受けるのは、彼の罪を越えた、過ぎた罰です」

 堕天使はせせら笑った。自棄的とも取れる、どこかが乾いた笑い声だった。

「お前達は常日頃、人間に何を教えているというのだ? 親が子を捨て、己の売名に用いることを、お前達は預言者に奨励したか? そうではあるまい、ならばレオナルドは、護るべき子を己のために犠牲にしたヘロデの子孫。背信者のけがれた魂が地獄に堕ちるのは、まさしく神の定め給うた摂理ではないか」

「いけません。人の苦しみはその人だけのもの、罪とは罰されるもの。彼はこの十数年を苦しみぬき、充分な罰を受けたのです。あなたのような堕天使や、私のような天使であっても、みだりにその傷に、苦しみに、手を触れてはなりません」

「確かに奴は罰を受けたろう。だがお前が、神が赦しても、奴が捨てた子の恨みはどうなる? 親に見放された子の怨みは、どうやったら晴れるのだ? ……私が久遠にお前を呪うように、捨てられた子も久遠に奴を呪うのだ。罰は、永遠に満ちぬのだ」

「愛とは赦しなのです。真実の愛を持った親の娘もまた、真実の愛をもって罪を赦すのです」

「痛みを負わぬ者の傲慢とはこのことだな。戯れ言で、詭弁だ。死したる魂がたとえそう言ったとしても、生きていた頃の恨みは、思い出さないだけで消えてなどいないのだ」

「あなたには涙がないのですか? 彼の心に潜む底知れぬ悲しみと悔恨が、あなたには見えないのですか? ……愛を知りなさい、私の悲しい半身。彼の悲しみと悔恨を生む、神の慈悲にも似た、深い愛を知りなさい」

「涙などない。涙を生む愛も知らぬ。……堕天使が涙を流せば、その涙に溶けて死ぬ運命さだめ、だが我ら堕天使の記憶のどこを探しても、そうして命を落としたものなど一人もいない。堕天使の涙こそ既に涸れ果てたのだ、お前達に捨てられた瞬間からな。……羽ばたきのたびに思い出せよ、お前の白く美しい羽が舞うたびに、同じ形の、しかし黒い羽根が、どこかで風を吹かせているのだとな」

「可哀相な、私の半身。……しかしあなたは、やがて知るでしょう」

「知る?」堕天使は明らかな嘲笑を浮かべ、呟いた。「私が今さら何を知るというのだ?」

「愛を」天使は断じた。「父なる神さえ動かし得ぬ、人の、心を……」

 天使の言葉が風に吹き消されると、悲しげな天使の姿は朧に霞み、消えていった。

 堕天使は、表情を強張らせたまま黒い翼を広げ、眼下の花園に視線を注いだ。

 途端、表情が戸惑いに揺らいだ。


(続)

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