風の涙と愛の花

久保田弥代

地獄門

 王国有数の文豪として名声を集めていた作家、レオナルド・ゴドフリートは、死期にあった。十年かけて彼を蝕んだ病魔が、五十歳そこそこの彼を、老人のように見せている。生命の力は衰え、情熱は冷め切り、もう三年ほどは、ペンを手にしたことすらない。彼は、冬枯れの樹であった。いつか春が訪れればまた緑の芽吹きを見ることもあろうが、医者は彼がこの冬を越すことはないと告げている。

 〈名声を集めていた作家〉、レオナルド・ゴドフリート。文筆家としての彼は、すでに過去の存在であった。高い文名にしてはささやかな、しかし庶民のそれではあり得ない彼の邸宅に、一人の見舞客さえ訪れないことがその証左となろう。

 伸び放題の銀髪を枕に埋め、厳めしい顔つきでベッドに横たわるレオナルドの視線がどこに向けられているのか、それを知る者もいない。

 寝室の、テラスに通じる窓から見える庭園には、冬の陽光を受けて輝く絢爛たる花園があった。伏せることが多くなったゴドフリートも、この花園の手入れにだけは、今なお金と人とを費やしている。彼は一日のほとんどを、花園を眺めて過ごす。花園と、その一隅に作られたアーチ状の花の門を。

 『地獄門』――と、彼が呼ぶ門である。

 それは十数年前にレオナルドが発表した、彼に文豪の名を与えた小説の名である。それは一人の宗教画家の物語であった。

 ――名の知られたとある宗教画家が、権威ある聖堂から依頼を受けた。あがなえぬ罪を犯した咎人とがにんが地獄に落ちる時にくぐるという、炎に包まれた『地獄門』の壁画を、という指定であった。しかし彼は、どうしてもその絵を描くことが出来ない。『地獄門』は咎人を焼き、怒りや怨み、憎しみ、すべての罪を燃やし尽くすという。彼は、己の心の中に、焼かれるべき罪を見いだせなかったのだ。それでどうして、『地獄門』の恐ろしさを描くことが出来よう。苦悩を続けるある日、彼の幼い娘が何者かにかどわかされた。彼は半狂乱で娘を捜したが、ついに取り戻すことはなかった。そのことで生まれた怒り、憎悪を糧として、彼は壁画を描き始めた。叫び、泣き、狂いながら描いた。そうして完成した壁画は、人々に地獄の恐ろしさ、苦しさを教え、しかし焼かれることでその罪が洗い落とされることを伝えた。多くの人に信仰を深めさせた壁画は傑作と賞賛されたが、画家がその名声を得ることはなかった。彼は壁画の完成直後に姿を消し、二度と帰らなかった――

 『地獄門』は、このような物語であった。

 そしてこの物語は同時に、レオナルドの物語でもあった。画家が味わった、娘を失う悲しみ、苦しみ、怒りや憎悪は、五歳になる娘を人買いに売り払った、レオナルド自身の体験から生まれたものだったのである。

 十数年前のこと。妻はもう亡く、未だ文名上がらず困窮の極みにいたレオナルドは、いよいよ辺境の人買いに娘を売らねば、明日から一人が生きていくことすら出来ないという状態にあった。娘とともに飢え死ぬか、それとも別々の人生を歩むことで目前の死を免れるか、選択肢は二つであった。レオナルドは後者を選択した。自分はこの後も大成せず死ぬかもしれないが、人買いの手にあれば、娘一人だけはせめて命は失うまいと考えてのことであった。

 人買いに連れられた娘の泣き声が、彼の創造の枷を取り払ったのだろうか。直後に書き上げた『地獄門』は、運良く出版の運びとなり、身分の上下を問わず多くの人の心を揺り動かした。それにより、レオナルドは大いなる賞賛と喝采を受けた。同時に、それが彼の実体験に基づくことから、娘を売った人でなしという非難も浴びた。

 そしてなによりも、彼が欲していた、パトロンとなる貴族たちを、『地獄門』はもたらしてくれたのだった。

 財政的な余裕を得たレオナルドは、惜しまずに金を費やし、娘クラリッサを取り戻すべく手を尽くした。だが、娘は帰ってはこなかったのである。

 その後レオナルドは、発表する作品ごとに高い評価を受け、才能と能力が本物であると証明した。それでも、彼への非難者は絶えなかった。彼の栄光の日々は同時に、他人から突き付けられる、己の罪との戦いの日々でもあったのだ。

 今、死を目前にしたレオナルドは、黙したまま何も語ろうとはしない。願わくば天国で娘との再会を――と、神に祈ることもなかった。

 彼はいかなる非難を浴びたも、赦して欲しいなどと口にはしなかった。誰に言われるまでもなく、彼は知っていたのである。己以上に『地獄門』をくぐるべき人間はいないということを。


(続)

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