親娘

 一時は良好であったレオナルドの体調は再び崩れ、また床に伏すことが多くなった。

 その時クララは、寝室で休んでいる父の枕元に飾るための花を、花園で選んでいた。

 そこへ姿を見せたのは、野卑やひた雰囲気の中年男であった。彼は、花園を踏み荒らすような足取りで、クララに近寄っていった。

「どちら様でしょうか?」

 その男を知らないクララは尋ねたが、男は答えず、半ば怯えたクララの前で胸を反り、見下したような視線を彼女にぶつけた。

「お前がクララか? ……十何年もの間姿を見せずにいて、兄が死ぬ間際に、よくぞタイミング良く現れたものだな」

「あなたは……」

「俺はレオナルドの弟、ウォルターだ。兄にとってはただ一人の肉親だった男だよ、お前がこの屋敷に来るまではな」

「叔父さま……ですか。あの、初めまして、クラリッサです」

 クララは、半ば怯えながらも礼節を守り、叔父に対する礼を尽くした。

 ウォルターの手が素早く伸び、彼女の手を取って強引に頭の上にまで持ち上げさせた。

「な、何を、なさるんですか?」

 痛みと、驚きと、僅かな恐怖の入り交じった表情で、クララはそう言った。ウォルターはクララの白く長い、まだひび割れの残る指を舐めるように眺め、言った。

「下餞な下働きの手だな、まるで」そこで言葉を区切り、クララに軽蔑の眼差しを投げつける。「ふふん。そう言えば、お前は本当に下働きだったそうだな」

 クララは先程よりも怯えの成分を増した目で、ウォルターの顔を見た。彼は、執念や怨念めいた、瞑いものを感じさせる表情を浮かべていた。

「白状するんだ、お前、使いの者と手を組んで、兄の遺産を横取りしようという魂胆だろう、薄汚い女狐、詐欺師め」

 ウォルターは瞑い言葉を吐いた。

「正直に言えば、痛い目にだけは遭わせずに済ませてやる。言え、私は遺産目当ての詐欺師ですとな。文豪レオナルドの財産を横取りするために娘になりすましたと言えっ!」

 クララは、凛とした視線に堅い意志を乗せて、ウォルターに投げつけた。それは、一瞬だがウォルターが気圧されるほどの、強い意志であった。

「わたしはクラリッサです。叔父さまがなんと仰ろうと、真実は歪められません」

 ウォルターの平手が飛び、クララの頬をしたたかに打った。白い肌が赤く染まり、形の良い唇の端から、一筋、血が流れた。

 その時、屋敷の方から叫びが上がった。

「ウォルター!」

 レオナルドが、庭に足を踏み出していた。

 伏していたレオナルドにも、弟の狼藉は見えていたのであろう。胸に手を当て、苦しそうにしながら、しかし断固たる意志を表情に閃かせながら、彼はウォルターを睨んだ。

「お父さま、いけない! お体が……」

 クララは声を上げ、ウォルターの手の戒めから逃れようと、身をくねらせた。しかし頭上の戒めは解かれず、彼女は悲痛に顔を歪ませ、「お父さま」と繰り返し声を上げた。

 レオナルドは苦しげに、弟と娘に近寄っていった。やや狼狽したウォルターは、それでもクララの手を離さなかった。花園に足を踏み入れたレオナルドに「クララを放せ」と叫ばれ、ようやくウォルターはクララを解放した。クララは弾かれたようにレオナルドに駆け寄って、そうして立っていることすら苦しいであろう彼を、横から支えた。

「ウォルター、何の用事で来た。私の娘を侮辱するためか、それとも、また借金の肩代わりでもねだりに来たか」

 レオナルドは娘に支えられながら、苦しげな息の合間にそれだけのことを言った。

「兄さん、この小娘のことを本当に信じているのじゃないだろうね。こいつは兄さんの財産が目当てに決まってる。そうでなくて、どうして今まで十何年も見つからなかった娘が、こんな時に見つかるものか」

「こんな時とは、どんな時のことだ。私が遺言を書かねばならぬ時か、いよいよ死の床にくというその時か」

「兄さん、考えたことはないのか? この娘が偽物なのだと。それとも、本物のクララへの罪滅ぼしのつもりで、偽物を可愛がってやってるというのじゃあるまいね」

「馬鹿なことを言うな、誰も疑って良いはずはない。クララだ、私の娘だ! 私が私の愚かさから十数年前に失った、そして今ようやく取り戻せた、大事な娘なのだ! この世でただ一人、私の全てを受け取る資格のある娘だ。ウォルター、いいだろう、締まりのない貴様の借金の肩代わりくらいしてやろう。ただし貴様は二度とその、薄汚れた魂をこの花園に近付けるな」

「……兄さん、俺は何もそういうつもりで言っているんじゃない」

「ではどういうつもりだ? 私が死んで娘がいなければ、自分が遺産を受け継げるとでも思っているのか? 夢を見るんじゃないぞ、ウォルター。貴様には銅貨の一枚だって遺してやるつもりはない。娘を侮辱した貴様には、借金の肩代わりが餞別だ。さあ、もう行け! 残り少ない私達親娘の時間を、一瞬でも無駄に遣わせるなっ!」

 レオナルドの、病人とは思えぬ覇気のある怒鳴り声に、ウォルターは大いに狼狽した。当惑した余りに、彼は再び、クララの腕を取ろうと手を伸ばした。

「騙されているんだぞ、この小娘に!」

 クララは一瞬、身を竦ませたが、しかしレオナルドを支えるためになのか、逃げる素振りは見せなかった。そして、ウォルターの手が彼女の細い腕に再び狼藉を働こうとした瞬間、まるで二十年も若返ったかのように俊敏に動いたレオナルドの拳が、ウォルターを地に打ち据えた。

 ウォルターは呆然と、拳を震わせながら自分を見下ろす兄を見つめた。打たれた頬は見る見るうちに赤く腫れ上がり、酷薄だった彼の印象を、子供じみたものに変えていた。

「去れ、ウォルター! 私の娘を侮辱することは私自身を侮辱することだ、いや、それ以上に赦せぬ邪悪だ!」

 病に冒された身体の、一体どこにこれほどの気迫が秘められていたのか不思議なほど、レオナルドの全身に精気がみなぎっていた。どんな道化師よりも滑稽に、慌てふためいて去るウォルターの後ろ姿を、レオナルドは冷たい眼差しで睨み続けていた。

 その首に細く白い二本の腕が巻き付けられ、病の身にも心地よい重みが、そっと彼にかかった。途端、レオナルドの険しい表情は、柔和な父のものになった。

「もし、もう一度……」

 クララが、彼の胸の中でささやいた。

「わたしが姿を消してしまったら、探して下さいますか?」

「探すとも、クラリッサ」

 レオナルドは宣言した。

「そして必ず見付け出してやるとも。お前を二度と失わない。例え神が、天使がお前を連れ去ったとしても、今度こそ必ずこの手で見付け出し、神と戦い、天使を打ち殺してでも取り戻すと――この花園に咲く花にかけて誓おう」

 父は娘を、優しく力強く、抱きしめた。


(続)

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