【10月刊試し読み】蜜月契約~ラスベガスの恋人~

角川ルビー文庫

第1話


 きみに、ラスベガスの話をしよう。


 空ばかりがのっぺりと青い。広がるのは荒涼としたアメリカの砂漠地帯だ。ひねこびた丈の低い草が、ところどころに生えている。固い岩盤に覆われていて、手で土をすくおうとしても指一本立てられはしない。

 そんな中、ラスベガス大通りを南から飛ばしてみよう。そう、まるで線路みたいに、まっすぐに走っている道だ。左には州間高速道路インターステートハイウェイ十五号線が並走している。やがて、右手にマッカラン国際空港の滑走路が見えるころ。

 その看板は忽然と現れる。幻のように。


「WELCOME TO FABULOUS LAS VEGAS(素晴らしきラスベガスへようこそ)」


 分離帯に掲げられた看板にはそう書かれている。

 そこからストリップは始まる。ストリップと言っても女性がまことしやかに服を脱ぐあれとはなんの関係もない。細長い土地のことであり、ラスベガスにおいてはラッセルロードからサハラ・アベニューまでの七キロ弱、カジノを併設したホテルが軒を連ねる、一大繁華街のことだ。

 雑然とした街、砂漠の中のおもちゃ箱。

 ピラミッドにお城にライオン、自由の女神に噴水ショー、サーカスにエッフェル塔に巨大なエレキギター。さながら遊園地だ。

 それにしては俗物過ぎるこの街、賭けに色ごと、そしてあらゆる贅沢のすべてがここにある。

 ここはラスベガス。カジノの街。

 市観光局のスローガンはこうだ。

 ――ラスベガスで起こることは、ラスベガスにとどまる。



 カジノホテル「ブリランテ」は、ラスベガスのストリップのちょうど真ん中に位置している大型娯楽施設だ。

 クラシックな中世ヨーロッパ風を謳ったこのホテルは、赤の絨毯に白い柱を基調としたシックな造りながら、最新鋭の施設を擁している。

 正面に入ってすぐ、左手にはショッピングセンターとレストラン、そしてカジノの入り口にはビッグシックスと名づけられる、大きな車輪のような円盤がある。それが止まるたびに、ディーラーの女性が当たりの数字を読み上げる。

 一階には初心者向けのスロットマシンが並び、高いところには賞品である赤い車がディスプレイされている。

 二階はバカラとポーカー、そして三階はクラップスとブラックジャックとルーレットがメインになる。クラップスとは、楕円形のテーブルに客がサイコロを投げ、出た目で勝敗を競うゲームだ。ディーラーは三人。一人はスティックを持っていて、右回りにサイコロを投げるひと、すなわちシューターにサイコロを渡す。

 そんな喧噪のただ中にある、カジノ&リゾート「ブリランテ」三階フロアに、片桐寅安は地味な色目のスーツで立っていた。寅安は目立たないよう、小型のインカムを装着している。それは監視チームと各ディーラーに繋がっていた。

 年齢二十六歳。身長は百七十五センチ。体重六十五キロ。髪は黒、目も黒。

 日本ではごく普通の体格だと思っていたが、ここ、ラスベガスに来るとひとまわり華奢になった気がする。身長、厚みともに圧倒的に負けている。

 寅安は指示を出す。

「十二番テーブル。次のシューターは帽子の男だが、泥酔しているのでよけて赤毛の女性に。サイコロをちょっと離し気味にセットして」

 了解、の代わりに、ディーラーはうなずくとサイコロを少し離れた場所にセットした。クラップスのテーブルに手をつくことは禁止されている。赤毛の女性は、よいしょとばかりに身を乗り出す。そのために、彼女の胸のあいたドレスからは豊満な谷間が、タイトなドレスからはヒップの線があらわに、突き出されるかっこうになる。本人は気がついていないようだが、クラップスのテーブルにいた男性全部が、彼女に釘付けになった。

 シューターの順番を抜かされた男がなにか言いかける。

「帽子の男性に、そろそろお引き取りを願ってください」

 指示を出すと、スーツ姿のセキュリティ二人が、帽子の男の腕をとった。

「お客様。そろそろおやすみになられたほうがいいのでは」

「なに言ってる、まだ夜は始まったばかりだ、俺は……」

「こちらにお泊まりですか。部屋までお送りしましょう」

 要は、ていよくお帰り願おうというわけだ。

「とら」

 セキュリティの一人がにやりと笑う。

「ピットマネージャーが板についてきたな」

「それはありがとう」

 言いながら、心中でひとつ、ため息をつく。

 カジノで直接客にカードを配ったり、ゲームの進行をおこなうのはディーラーの役目だ。さらに、ブリランテのクラップスだと、四台のテーブルを見張るのがフロアパーソンで、フロアパーソンのさらにひとつ上でピットと呼ばれる十六台のテーブルの島を監督するのがピットマネージャーの役割だ。

 フロアに立ち、フロアパーソンとディーラーに指示を出し、いかさまを見抜き、円滑にゲームを進め、客に楽しんでいただく。そう、誰がどう見ても、自分はカジノホテル「ブリランテ」のピットマネージャーだ。

 しかし、寅安の眉は寄る。

(なんで俺がこんなところでカジノのマネージャーをしなくてはならないんだ)

 このフロアの誰も、いや、ブリランテの社長以外は知らないことであるが、寅安は日本の国家公務員だ。

 本来だったら、今日も霞ヶ関で書類相手に奮闘していたはずだ。

 それがなんの因果かラスベガスに……。

 寅安は眉をひそめる。

 いや、違う。因果関係はきわめてはっきりしている。

 自分がここにいる理由は直属の上司である武藤が持ちかけてきた、彼の娘との縁談を断ったせいだ。

 寅安は、観光庁カジノ推進課に所属している。友人と言える存在も、これといった趣味も、ましてや恋人もいない寅安は、同期に「おまえは精密機械か」と言わしめるほどに勤勉に働いた。上司の覚えもめでたかった。しかしそれがまさか、「縁談」という形になるとは夢にも予想していなかった。

 有力な上司の娘との結婚。上級国家公務員としてこれ以上はないくらい、いい縁談だ。寅安自身、うなずいてしまいそうになったほどに。

 けれど、公言していないが、寅安は男のほうが好きだった。無理をすれば女性と性行為ができないことはないが、多大な労力を要する。毎夜強壮剤を飲みながら帰宅する、悪夢のような新婚生活しか浮かばず、ひるんだ末に、再三のすすめにもかかわらず、「私には過ぎたお話なので」と断るしかなかった。

 それを上司はどうしたものか、自分への不満と受け取ったらしい。

 ある日、彼にわざわざ会議室に呼ばれた。

『片桐くん。国営カジノ解禁を視野に入れて、本場ラスベガスを視察してきて欲しいんだ』

『わかりました』

 視察というからには一週間か、せいぜい半月だろうと即答した。

 それを見た上司は満足そうにうなずいた。

『そう言ってくれると思ったよ。期間は一年だ』

『一年……』

 思わず、鸚鵡返しになってしまう。

『そう』

『ずいぶん、長いですね』

『きみにはラスベガスの一流ホテルのカジノで、実際に働いてもらう。国家公務員だということは内緒でね』

『覆面、ということですか』

『そうだよ。日本からの研修だと知れたら、いいところしか見せないだろう? 私はありのままのカジノ運営を知りたいんだ。長丁場になるけど、優秀な片桐くんならできると思う。頼まれてくれるね?』

 そう言われては、断るわけにはいかなかった。

 寅安は半年間、カジノスクールでディールとマネージメントを叩き込まれたのち、このラスベガスに来た。社長とは話を通してあると言っていたが、まずはディーラーとしてテストを受けて採用、次にはフロアパーソン、そしてさらにその上のピットマネージャーに。異例の出世といえたが、約束の一年間は過ぎようとしている。あと一ヶ月と少しで自分はここを辞して日本に帰る。そこに自分の居場所はあるのだろうか。

 上司が、味方でない者は敵という方針を持っているとしたら、ラスベガス出張はていのいい厄介払いだったことになる。もしかして、自分が毎月提出している「ラスベガスカジノの運営について」の報告書など、読んでさえいないのかもしれない。帰国したら、速攻、地方部署に転勤になるという可能性も捨てきれない。

 冗談ではない。

 特に日本の国政に興味があったわけではないが、考え得る限りの最高の安定を求めて、必死に勉強をして、ようやく就いた職業なのだ。

 ふっと寅安は息をつく。それを頭上に隠された監視カメラから見ていたボスに注意される。

『とら、もうちょっとで休憩時間だ。それまで気を抜くなよ』

「イエス、ボス」

 ボスは寅安が日本の公務員であることは知らない。取り決めで、給料はいったん振り込まれるが、全額ブリランテに返還されている。あくまで、寅安が受け取っているのは日本の口座の公務員としての給料だ。

 金、金、金。

 当たり前の話だが、みんな、金が目当てでここに来ている。楽しむためと言いつつも、それは金を得る楽しみであり、ここでは金がすべてだ。

 潤沢に金が回っているこのブリランテにいると、堅い職業の両親のもと、まっとうな教育を受けたと自負している自分でさえ、金銭感覚が麻痺してきそうだった。

 なにげにテーブル上に出されている茶色のチップ、通称「チョコレート」はこれ一枚で五千ドルだ。一ヶ月、ゆうに暮らせる金と交換できるこのチップが、子供のおもちゃのようにやりとりされている。

 それゆえに、常に気を張っておかなくてはならない。

 カードを暗記する、すり替える、指に特殊な粉を塗りコンタクトレンズでカードを見る。すべてこの一年の間に遭遇したケースだ。

『とら!』

 ボスに無線を通して声をかけられて姿勢を正す。

『とら、交代時間だ』

 言われて腕の時計を見る。次のピットマネージャーが、すでにスタンバイしていた。寅安はインカムのスイッチを切ると、クラップスのテーブルから離れる。

 同僚のサリーが近寄ってきた。麦色の短めの髪に黒いパンツスーツを着ている。

「お疲れ、とら」

「お疲れさま、サリー」

「ああもう、ピットマネージャーになんてならなければよかったわ。気疲れするばっかり」

「これからステップアップしていけばいい」

「そうだけど。今日みたいに高額の心付けが出たって、私の目の前を通り過ぎるだけだもの」

 カジノにおいて客がくれる心付けは、当日出勤したディーラーが全員で分けることになっている。ピットマネージャーは基本給はディーラーよりもいいが、心付けとは関係ないために実際はディーラーよりもかなり手取りは低くなる。

「そんな気前のいい客がいたのか?」

「それがねえ、その心付けをくれたの、誰だと思う?」

「ハリウッド俳優かな?」

 これはあながち冗談でもない。寅安自身、何度か映画のスクリーンで知った顔をカジノで見かけてきた。

「惜しいわ。なんと、アレクシス・ゲラールよ」

「誰だっけ。どこかで聞いた気がするんだけど」

「もう、なんで知らないのよ? ゲラール舞踏団の座長にして演出家。ブリランテが熱いオファーを出してようやく招聘に成功したっていつかのミーティングで言ってたじゃない」

「そういえばそんなことがあったな」

 ゲラールの名前が出たときには、女性スタッフが大騒ぎしていたっけ。

「噂だけど、ものすごい額を積んだらしいわよ。三ヶ月、二十回の公演に一千万ドルですって。実際の彼は写真よりもすてきねえ。緑の目が宝石みたいだった」

 サリーがあまりにうっとりしているので、「きみは結婚しているだろう」と突っ込みを入れてしまう。

「いいの。結婚していても、すてきなものはすてきなの。……あ」

 カジノホストのヴィンセントが帰りの客を誘導しているところだった。進路を邪魔しないように二人は足を止める。

 ヴィンセントの声が聞こえてくる。

「もう、奥様。素晴らしい賭けっぷりでしたよ。特に最後の追加ヒットなんて、ヴィンセント、うっとりです」

 まるまるとしたブラックの彼は、いつも白いスーツを着用している。今もしきりに揉み手をしている様はコミカルで、コメディアンのように見える。

 だが、ヴィンセントがいざとなればクロヒョウのように身軽ですばしこいのをブリランテ従業員は熟知していた。

「ヴィンセントって元CIAなのよね?」

 サリーが小声でささやいてきた。寅安は返す。

「俺はさる国の特殊部隊にいたって聞いたけどな」

 じっさい寅安は、負けた腹いせにディーラーに向かってピストルを構えた客を、ヴィンセントがあっという間にのしたのを見ている。

「なんにせよ、ただものじゃないことだけは確かね」

「ああ」

「いつもは面倒見がよくて陽気な太っちょ《チャビィ》なのに」

 上客、通称「鯨」たちはフロア奥の、高額の賭けをしてくれるハイローラーのみが入れるVIPルームで遊ぶ。そのドアの向こうに入ったことは、寅安にはない。

 最低掛け金は一万ドルだとか、このカジノの七割はVIPルームで賭けられた金だとか、とあるスポーツ選手が五分で三十万ドル負けたとか、そんな噂を聞いているだけだ。

 そんな上客について、最大限もてなし、カジノで遊んでいただくのがカジノホストであるヴィンセントの仕事だ。

 予約がいっぱいの人気レストランにだって割り込むし、ソールドアウトのショーだって最前列を用意する。ゴルフクラブにお供をし、ないと言われる幻の酒も用意する。

『ノーと言わない』

 それがカジノホストのモットーだ。

「カジノホストってストレス溜まりそう。あたしには無理」

「俺も同感だ」

「ヴィンセントって……――すごいわよね」

「それにも同感」

 聞こえたのだろうか、フロアから出ていく際に、ヴィンセントはこちらを見て軽くウィンクをした。


 観葉植物の隙間に目立たないように設置されている従業員用のドアに向かう。ドアの横には、指紋を押すためのパネルがある。そこに人差し指を押しつけようとした寅安は、廊下のソファに腰掛けている男に気がついた。

 隣のサリーが息を止めたのがわかった。

 年齢は三十にいくかいかないか。金髪が緩くウェーブしている。着ているものはカジュアルだったが、色味を抑えつつも高級感を醸し出していた。スラックスの折り目がきれいにつき、時計は小ぶりだったが傷ひとつなく、靴はたったいま買ってきたかのように輝いていた。

 彼は両手を組んでそこに額を当てていた。苦いものを口にふくんだかの表情。祈っているようにも見える。

 ずいぶんときれいな顔をしているな、と寅安は思った。ひどく落ち込んでいるように見えた。なにがあったのだろう。ここはラスベガスだ。十中八九、いや、九十九パーセントの割合で金のことだろう。熱くなってしまって予想外に金を使ってしまったか、借りた金を使い込んでしまったか、帰りのチケット代を突っ込んでしまったか。まあ、そんなところだ。

 けれど、彼の横顔の苦悩、発する憂いは、寅安にとって深すぎた。声をかけずにはいられないほどに。

「お客様、ご気分が悪いのでしたら、至急、係の者を呼んで参りますが」

 彼が弾かれたようにこちらを見た。

 その瞳。

 目の色は緑だったが、均一ではなく、中央にいくにしたがって金色に近づいていく。木漏れ日のような目の色だった。

「ああ。そんなふうに見えたかな?」

 彼はかすかに微笑んで見せた。

「少し、考えごとをしていただけだよ」

「でしたらよろしいのですが」

 ブリランテには二十四時間、医師と看護師が待機していて、提携している病院に運び込むことができる。いつ病人が出ても対応できる。さらには、いざとなったときには、そっと外に出してしまえる。カジノホテルは決して死人は出さない。

「気分は、悪くない」

 彼は、英語を発音するのが初めてというように、たどたどしく言った。だが「ちょっと、いろいろあって」、そう続けたときには、なめらかさを取り戻していた

「そうだな、もし、いただけるなら水が欲しい」

 そう、彼は言った。

 飲み物なら、カジノでは無料で提供される。カクテルウェイトレスが丈の短い制服を着てトレイを掲げ、そこらじゅうを歩き回っているから、もらえばいい。そう言うと、彼は答えた。

「さっき心付けに細かいのを出してしまって、一ドルを持っていないんだ。パープルしかない」

 パープル、紫色のチップは五百ドルだ。決して安いものではない。ということは、目の前のこの男は、カジノにとって上客ということになる。

「大丈夫だよ、気にしなくていい」

「カジノをお楽しみください」

「そうだね。そのために早めに来たんだから」

 早めに? どういうことだろうと思いながら、スタッフオンリーのドアから出る。そこは明快に「裏側」だった。カジノが舞台だとしたら、舞台裏だ。赤い絨毯も白い柱もない。あるのは灰色の壁と、無骨なエレベーターだけだ。

 サリーが肘で小突いてきた。

「なんだ?」

「アレクシス」

「え?」

「さっきの、アレクシス・ゲラールだった」

 彼女の頬が赤くなっている。いつも剛胆で、カジノで酔っ払いにからかわれても冷笑で返す彼女が、まるで乙女のようだ。

「すごい。めっちゃ、近かった」

「そうなのか。やっぱり芸能人だったんだな。どうりでハンサムだった」

「もう、あの輝く緑の目を前にして、どうしてそんなに冷静でいられるのよ!」

「きみの担当テーブルでプレイしたんだろう?」

「仕事のときは別。ああもう、心臓がばくばくしてる」

 彼女は胸を押さえている。

「サリー。もし倒れたらAEDと心臓マッサージはまかせてくれ」

「とらってば、わくわくしたりどきどきしたりってないの? あなたってラスベガスに来てからいつも仏頂面ね」

「もとからこういう顔なんだ。接客業のディーラーに向いていなかったのは認める」

「早々にマネージャーになってよかったわね」

「俺もそう思う」

「そういえば、今朝、ブリランテのプライベートジェットが飛んだらしいわ。きっとアレクシスを迎えに行ったのね」

 ラスベガスでは、ジェット機はハイヤー扱いだ。

 アレクシスが「早めに来た」と言っていたのは公演の前の意味かと納得する。著名な芸人が出演時にカジノで遊ぶのはよくあることだ。

「そりゃすごい」

 サリーとエレベーターに乗る。隣には白シャツ、黒のパンツスーツ、通称ペンギンスタイルのディーラーがいて、もう片方には短いスカートを穿いたカクテルウェイトレスたちがおしゃべりしている。

 地下一階でエレベーターを降りる。

 従業員用ロッカーや食堂、ミーティングルームは地下一階に集中している。廊下には、これから予定されているブリランテの興行のポスターが貼られていた。

 二年間で日本円に換算して五十億円以上という破格のギャラが話題になっていた歌姫、軽妙な話術とイリュージョンで有名な魔術師、ブロードウェーミュージカルの客演のポスターと並んで、「ゲラール舞踏団」のものがあった。さきほどソファにいた男の顔に覚えがあると思ったのは、このポスターを見ていたからだったのか。

 ポスターの前で、寅安は足を止めた。サリーも彼の隣に並ぶ。

「ダンサー、ジャン・ルイ。演出、アレクシス・ゲラール……――」

 寅安はメインスタッフを読み上げる。

 真ん中にはさっき見た木漏れ日みたいな目をした男が両手を広げていた。その周囲には数字が書かれ、犬や悪魔や女王や釣られた男が描かれている。演目は「アルカナの恋人」となっていた。

「あ。興味出てきた?」

「別に、そういうわけでは」

「アルカナってなんだかわかる?」

 寅安は慎重に答える。

「聞いたことがあるような気はする」

「アルカナって『秘密』を意味するラテン語なのよ。それがタロットカードの神秘性と結びついて、主な二十二枚のカードを大アルカナ、ほかの五十六枚のカードを小アルカナって呼ぶの」

「詳しいな」

「ダウンタウンの占いの館のマーリンが言ってたわ」

「そんなところに通ってたのか」

「これでもいろいろと悩むことがあるのよ。で、この大アルカナは一枚一枚、強い意味を持つわ。カードの数字の順番に演目が行われるみたいね。新作だからまだ内容はわからないけど、きっとファンタスティックなんだろうなあ。夢の世界だわ」

 この舞踏団はどんな踊りを見せてくれるのだろう。興味がわいてきたが、ポスターの下には虚しく「ソールドアウト」のシールが貼られてあった。

 サリーがぽつんと言った。

「できたら、アレクシスが現役のときに呼んで欲しかったけどね」

「現役?」

「アレクシス自身がダンサーだったのよ。ロサンゼルスの小さな劇場からスタートして、大劇場に出演するようになったんだって。私、彼の踊りをよく見に行ったわ。ロサンゼルスだったらここから近いじゃない」

「ああ、そうだな」

 飛行機で一時間。日本にいたときには、遠く感じた距離だが、こちらに住んでいると電車で二十分ぐらいの感覚になる。

「広い舞台が、彼が踊ると小さく見えたわ。一飛びで端から端に移ったみたいだった。太腿の筋肉断裂で踊れなくなったって聞いたときには、悲しかったなあ」

「筋肉断裂」

 言葉だけでも痛そうだ。それがダンサーにとって致命傷であろうことは容易に想像がつく。

「それで、演出に回ったんだな」

「そう。あれから三年になるんだからアレクシスは今年、二十九になるのかー。早いものね」


 ホテル裏手にある従業員用の駐車場に出るとサリーと別れ、自分の白い日本車の運転席に乗り込んだ。米国仕様なので、左ハンドルだ。

 寅安は、カジノのソファでひとり座っていた、アレクシスのことを思った。踊れなくなったのち、演出家として名をなして。それを、彼はどう考えているのだろう。

 寅安自身は、彼のように大きな望みを抱いたことはない。それを努力の末にかなえ、奪われたものの気持ちなど、わかるはずもない。ただ、さきほどの彼の苦悩している横顔が、水が欲しいのだと訴えた声が、どうにも寅安をざわつかせる。

 ボストンバッグの中に、水はある。五百ミリリットルのミネラルウォーターのペットボトルだ。

「……」

 おいおい。

 寅安は自分をあざ笑う。

 今日初めて会った、なんの関係もない男だぞ。確かに有名人かもしれない。だが、それだけだ。

 せっかくここまで、自分は無難に仕事を成し遂げている。あと少しでラスベガスとはおさらばだ。

 余計なことをするべきではない。

 そう考えて、アクセルを踏んで発進しようとした。そこをちょうど、サリーの車が塞ぐ形となった。彼女はばかでかいアメリカ車に乗っている。軽く挨拶して出て行った。寅安は出鼻をくじかれたかっこうになる。

「しょうがない」

 エンジンを切った。ボストンバッグから水のペットボトルを取り出し、今来た道を逆に行く。エレベーターを上がり、カジノ内に通じるドアをあけた。もう彼はそこにいないかもしれない。だったらそれでいい。

 そう思ったのに、彼は寅安が見かけたとき同様、静かに手を組み額を当ててうつむいていた。

「あの。ミスター・ゲラール」

 声を掛けると彼はこちらを振り向く。寅安に驚いたようだった。

「きみ……」

「これを」

 差し出しながら、早く受け取るか、または断るか、決めてくれと願う。天井の監視カメラには自分のこの奇妙な振る舞いが映ってしまっている。ボスや監視係に、この行為を注視されるのは好ましくない。

「どうぞ」

 彼は、ようよう手を差し出した。

 寅安はほっとして、彼に水のペットボトルを渡す。

「それ、あけていないですから安心して飲んでください」

「え?」

 彼の戸惑い顔に説明しようとしてやめた。カジノの暗い部分を語るべきではない。

 この夏、プールで見知らぬ男に飲み物に弛緩薬を入れられた女性客が泳いでいる間に溺れかけるという事故が起きた。一緒にいた女友達が早く気がついて助けを求めたため大事だいじにいたらないで済んだのだ。

 ここはラスベガスだ。

 たとえ賭けで負けて自殺した人間が出たとしてもこっそりと裏口から出してしまう。なにごともなかったように営業を続ける。カジノとは常に明るく正しくいつも楽しい。そういう場所なのだ。

 アレクシスは自分を見ていた。

 彼の目を見ていると、雨がやんだばかりの暖かな湿気のある森の中にいる気がする。木の間から太陽が見える。そんな色だ。

 ここらは砂漠気候で、年間降雨量は東京の十五分の一。常に乾燥していて、そんな森とは久しく縁がないというのに。

「ありがとう。きみは私のために、この水をわざわざ取りに行ってくれたんだ。優しい人だね」

 優しい? そんなことはない。気まぐれ、偶然だ。

「気にしないでください。たまたま鞄の中にあったから持ってきただけです。失礼します」

 そう言い置いて、その場をあとにした。

 馬鹿みたいだと自分のことを思った。

 一文の得にもならないことをしてしまった。それどころか、監視カメラに見られている。このカジノホテルで起こったことを隠すことは不可能だ。ありとあらゆるところにカメラがある。

 今日、家に帰り着く頃には、寅安がアレクシス・ゲラールに水を渡したことは知れ渡っていることだろう。違反ではないが、推奨もされない。


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※この続きは是非、10/1発売ルビー文庫『蜜月契約~ラスベガスの恋人~』(著/ナツ之えだまめ)にてご覧ください!

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