11.

 洋燈の火を落とそうとしていたエルネストはその手をやにわに止め、部屋の出入り口を見遣った。彼の近くに立っていたマティアスもまた、不審げに、扉の向こうの様子を探るような顔に変わった。窓の外はとっぷりと暗くなっている。隊舎の中も、昼間であれば人の気配も多く騒々しいが、この時間には夜勤の者がぽつりぽつりとそれぞれの持ち場にいるだけで空気もしんと静まり返っている。エルネストとマティアスも帰り支度を整え終え、部屋を出ようとしているところだった。彼らを瞬時に緊張させたものは、静寂を破るけたたましい物音だ。

「何の音だ?」

「さあ……何でしょうね」

 言葉を交わすよりも先にふたりは足早に部屋の出入り口へと向かっていた。大きな物音は一瞬のことで、室外に耳をそばだてても今はとらえられるものはない。部屋の外は吹き抜けを囲んだ回廊になっている。自ら扉を開いて廊下に出たエルネストは、手すりからわずかに半身を乗り出し下方をうかがい見た。人影は認められない。が、くぐもった話し声がかすかに聞き取れる。マティアスの耳にもそれは届いたらしく、エルネストが目配せをすると彼は即座に応じ、ふたりは連れ立って階下へ急いだ。

 階段を下りきり玄関前の広間についた途端、今度は唐突に犬の鳴き声が響き渡った。隊で世話をしている軍犬のものとは違う、まだあどけない吠え声だ。次いで、情けなく弱々しい、男の悲鳴。それらはさほど遠くない場所から聞こえてきた。エルネストとマティアスが周囲を見回すと、広間の隅に、そこから折れる廊下の先を覗き込んでいる後ろ姿があった。

「どうした」

「え? あっ、その……」

 振り向いた隊員は声の主を上官と認めて些か慌てた様子を見せた。勤務は既に終えているようで、肩に引っ掛けているだけの門衛用の外套がずり落ちそうになるのをまごまごと引っ張りあげながら、

「犬が……子犬がですね、入り込んでしまって。それが、駆け回って……ですね……」

 歯切れの悪い物言いをする。彼が見ていた先には控えの門衛が過ごすための小部屋や、日用品などの蓄えを乱雑に積んでいる部屋が並ぶ一角がある。エルネストは大股でそちらに近づくと、躊躇せず彼を越して廊下の奥へ目を向けた。

 薄闇の中に金髪の隊員の不審な背中があった。最奥の部屋の扉が開いていて、そこへ何かを運び込もうとしているような姿勢をしている。部屋と廊下のちょうど境目にいて、上体を少しばかり丸め、片足は部屋の中へと踏み込みながら、

「しーっ。頼むから静かにして。騒ぎになるとさすがにまずいと思うんだ」

 潜めた声で誰かに話しかけている。その足下では毛むくじゃらの子犬が後ろ足で立ち上がり、彼の脚衣に両の前足でしがみついて布地をよじ登ろうと奮闘していた。

「問題児ですよ」

 エルネストに追いついたマティアスが耳打ちした。

「ヴィクトル・ルメルシエ。彼がいると場の風紀が乱れると、首都から追い出されてきたんです。異性との交遊に関して、どうにもおおらかが過ぎるきらいがあるそうで」

 エルネストが露骨に渋い顔をすると、マティアスも大仰なため息を返した。当のヴィクトルはふたりの存在に気がつかないまま、子犬を振り払わんと懸命に片脚をじたばたさせている。

「ちょっとぉ~、君もお願いだからどっか行ってくれよぉ~」

 腑抜けた声だった。しかし、それ以前に彼が発した潜めた声音にはまだ、もっともらしげな深刻みが含まれているように感じられていた。落差は著しく、それぞれの言葉が別の対象に向けられていると推測させるには十分だった。マティアスの言った首都での評価を鑑みれば、彼が問題を起こしつつあるのだということは想像に容易い。無闇に部外者を引き入れることを禁じているこの場所に女友達を連れ込んでいるくらいのことをしていたとしてもなんら不思議はない。エルネストはうんざりしながらも、私的な感情を極力抑えて若い部下に呼びかけた。

「おい。ルメルシエ」

 ヴィクトルは跳びあがるほどの勢いで全身をびくつかせた。まとわりついていた子犬がその拍子に床にころがり、仰向けのままぽかんとした顔を天井に向けた。弾かれたように振り向いたヴィクトルの目線がエルネストのそれとかち合う。すると彼はあからさまに怯んで慌てふためき、部屋の中へ逃げ込もうとする動きを見せた。反射的にそれを追おうとしたエルネストは、次の瞬間、ぎょっとして動きを止めた。こちらに呼びかけるような、ほそいうめき声がしたのだ。それは咽喉の奥から絞り出しているふうで、言葉のかたちは全く成していなかったが、込められた感情はありありと伝わってきた。怒りだとか非難だとか不満だとか、そうした類のものだ。若い部下が自分から隠し果そうとしているものは、人、それも女性だとエルネストは確信した。よくよく目を凝らすとヴィクトルの脛のあたりで、編み上げの靴に包まれたちいさな足先が見え隠れしている。抱え上げられているのだ、荷物のように。理解した途端、不快感がエルネストを衝き動かした。

「お前は、何をしてる」

 早足で詰め寄り、肩を掴んで力任せにこちらを向かせた。ヴィクトルはからだの均衡を崩し、「わあっ」と幼稚な大声をあげるとそのまま大きく仰け反った。彼のからだの前面が露わになる。ヴィクトルの腕の中からこちらを仰ぎ見る瞳を捉えてエルネストは息を呑んだ。

 彼女はつらそうに眉根を寄せて、今にもあふれんばかりの涙を湛えていた。顔の半分をヴィクトルの手によって覆われている。鼻から口まで、声も出せないほどに隠されて、苦しげに歪む目許からは呼吸もままならないであろうことがひとめで見て取れた。

 心臓を握り潰されたかのような痛みが胸を襲った。見知ったばかりの少女の、見覚えのあるまなざしだった。叶う限りもうさせたくはないと願った表情を、こんなにもはやく自分の手が及ぶところで再び目にする覚悟はエルネストにはできていなかった。逡巡する。ヴィクトルの肩を掴んだ指に知らず知らずちからが入る。

「…………リュンヌ、」

 思いを定めることはできないまま、堪らず名を呼んだ。少女の反応を期待してはいなかった。けれども彼女は、涙に濡れた瞳をほんの一瞬も軍服の男からそらすことはせず、応えるようにいちどだけ――ただいちどだけ、ゆっくりと、目をまばたかせた。

 全身に血が巡る感覚をエルネストは覚えた。同時に、痛みを訴える苦悶の声がヴィクトルからあがる。リュンヌのからだがゆるんだ腕をすり抜けて崩れ落ちかけ、エルネストは咄嗟に、捉えていたヴィクトルのからだを放り棄てるように押しやって彼女に向かい腕を差し出した。よわよわしく伸ばされた指先がエルネストの袖に取りすがる。狭い暗がりに転げ込んだヴィクトルが建具や椅子にぶつかって騒々しい物音をたてたが、エルネストはそれを黙過して少女を支えることに傾注した。腕を引かれる重みに合わせてゆっくりと背を曲げる。呼吸を解放されたリュンヌはひとしきりむせ込みながら、エルネストの腕に支えられてやがてゆるやかに膝をついた。

 繰り返し肩で大きく息をして、少女は徐々に落ち着きを取り戻しているかのようにみえた。しかし、軍服の布地を遠慮がちに掴んでいる指の先がいつまでも小刻みにふるえていることをエルネストは見過ごしていなかった。極力身じろがぬよう、音をたてぬよう、声を漏らさぬようにエルネストは腐心し、そうしながら、彼女をおびやかさないためには次にどうするのが最善かを考えていたのだが、そのうちにヴィクトルがのそのそと部屋から這い出てきた。

「あいたたたたたた……」

 リュンヌははっと顔をあげ、エルネストのからだの陰に急いで回りこんだ。

「あーーーっ、野ねずみちゃん、行かないで……」

 遠ざかるリュンヌの脚に向かって、ヴィクトルが手を伸ばして追いすがる。エルネストは思わずふたりの間に割って入り、リュンヌを背中の後ろに庇うと床板を蹴破りそうな勢いでヴィクトルの鼻先を黒い軍靴で踏みつけた。ヴィクトルはさすがにふるえあがり、観念した様子でぺしゃんとその場に突っ伏す。

「ううう、ええっと、騒ぎを起こしたことは反省してます、心から……本当に本当にすみません。これは、ですね、そう……よくある痴話喧嘩なんです。ふたりで出掛ける約束のことでちょっとした行き違いがあって、ですね、それで……」

 しどろもどろに語られる言葉をエルネストが険しい顔で聞いていると、後ろからぐいと袖を引かれた。

「ちがいます。聞かないで」

 エルネストが振り向くと、その険のある表情にたじろいでリュンヌはびくりとからだを縮こめた。が、怖じ気を振り払うようにいちどぎゅうっと目を瞑り、またたくと、伸びあがって彼との距離を詰め懸命に訴えかけた。

「でたらめなんです。約束の話なんてしてないの。その人、わたしの話をなんにも聞いてくれなくて……その人とふたりでなんて、わたし何処にも行きたくないのに」

「えーっ、そんなあ」

 足下からあがる抗議の声には一瞥もくれず、エルネストはリュンヌの視線をじっと受け止めながら彼女の声を最後まで聞いた。それから、人心地をつけるようにゆっくりと息を吐きだすと、自分の腕から彼女をそっと剥がして遠ざけ、マティアスを目で呼び寄せた。

「うぐ、う、ぐぐく、くる、し……くる、しい、です……!」

 うつ伏せに伸びていたヴィクトルの襟首のあたりをエルネストが掴み、悪童を扱うように腕一本で吊り上げる。苦しい苦しいと大騒ぎする問題児にエルネストは耳を貸さずそのままずるずると引き摺って運び、落ち合ったマティアスにぐいと押し付けた。

 リュンヌは廊下の壁に背をつけて寄りかかり、目をまるくしてその様子を見ていた。混乱の名残りでまだ心臓はつよく叩かれるように脈打っていたが、エルネストの存在を認めた瞬間から気分は不思議と落ち着きはじめていた。彼の姿を目にうつす、ただそれだけのことが自分にもたらすものが、度重ねるにつれて変化していることをリュンヌはそのとき自覚した。

「連れて行け。目一杯、折檻してやれ」

 エルネストの声でリュンヌははっと意識を引き戻される。

「たすけてえ、子やぎちゃん……」

 慌ててヴィクトルの姿をさがす。悲痛な叫びは当然のようにその場の誰にも顧みられず、マティアスが呆れた顔をしながら彼の腕を引いてどこかへ連れて行こうとしていた。

「待ってください、そのひと、連れて行かないで……待って」

 思い出したようにふたたび取り乱すリュンヌに驚いて、エルネストがすかさず歩み寄った。

「どうした」

「あの、お、おとうと、が……」

 顔を見あげると、やはり気圧されて、言葉がつかえた。ためらいがちにうごめきはするものの音を生まない唇を見て、エルネストは表情を曇らせる。半歩、それから一歩、エルネストは少女の正面からからだをずらした。彼から目をそらさずにいたリュンヌはわずかばかり遠ざかった男の顔を不思議そうに見つづけていたが、エルネストのほうはふいと視線を外す。すこしの時間が経ったあとでリュンヌは自分が自然と声を取り戻したことに気がついた。

「おとうと、わたしの、弟が……どこにもいなくて……それで、そのひとがいっしょにいたって、子どもたちが……話していて……」

 エルネストがを振り返る。彼はリュンヌに向けてきらきらとした期待に満ちたまなざしを熱心に送っていたが、上官と目が合うや否や白々しく天井を仰いだ。エルネストは彼に対してつくづく嫌気がさしたふうであったが、ひと呼吸置いて少女に向き直ると、

「……わかった。待っていなさい」

 そう言ってリュンヌの傍を離れた。

 リュンヌは言われたとおりにおとなしく、黒衣の男たち三人が額を合わせている姿を見守っていたが、ふいに視界が滲んで慌てて手の甲で目許をぬぐった。張り詰めていたものをゆるめるにはまだはやいと理解してはいながらも、くたびれきった気持ちとからだは限界に近づいている。どうにも誤魔化せず、その場にへたり込んだ。

 子犬がぽてぽてと歩み寄ってきて、投げ出されたリュンヌの指先に、湿った鼻先をぴとりと触れさせた。心配そうな鳴き声とまなざしを向けてくるので、首のあたりに指を差し込んで毛を梳くように撫でてやると、ぴたんぴたんと音をたてて尻尾が床を叩いた。ささやかな響きが疲弊した心を慰める。ぼんやりと耳を傾けていると、堅牢な靴底が床を打つ音が近づいてきた。子犬の尻尾が生むものとはまるで違う、つよい音。それでも以前ほどには苦手にも否定的にも感じたりはしない。見あげるつもりでそちらに顔を向けると、エルネストは片膝をついてリュンヌと視線の高さを合わせていた。

「……立てるか?」

 迷いのある声色だった。

「立って、自分の足で歩けるだろうか。君の弟の居場所はわかった。マティアスが見つけてきてくれる。俺の友人は優秀なんだ、君は心配せずに待っていればいい。だが、ここで、というわけには……」

 気にする余裕を取り戻してみると、たしかにその場は奥まっているとはいえ通路のただ中で、いつまでも座り込んでいるわけにはいかないだろう場所だった。体力気力の話であれば、このまま今すぐ子犬を抱えて眠りにつきたいくらいだったが、リュンヌは壁に手をつき、寄りかかりながらからだを持ち上げた。深呼吸をいちどして、立膝をついたままでいるエルネストの顔を見る。彼の隣では子犬が、四肢をきちんと揃えて胸をはり、利口そうに“おすわり”の姿勢をしていて、励まされた。

「……立て、ました」

 いくらかは確りとした口ぶりで答えることができたと、少なくともリュンヌ自身はそう思った。エルネストは眉間に一瞬懐疑的な陰を過らせたが、すぐにそれを払って頷き、立ち上がった。リュンヌの隣で行く先に目をやり、しばし思案顔になる。玄関前の広間からは、騒ぎを聞きつけて集まってきたと思しき者たちのざわめきが流れてきていた。

「……案内しよう」

 エルネストがリュンヌの前に掌を差し出した。リュンヌは驚いてエルネストの顔を見あげたが、彼は体ごと広間のほうを向いていて、少女に目を向けようとはしなかった。リュンヌはしばらく悩んだ末に、彼の掌におずおずと自分の右手をのせた。そんなふうに誰かに導かれようとするのは初めての経験だった。ぎこちない運びの少女の手を、エルネストはむやみに握ることもつよく引くこともせずに、たいせつなものを捧げ持つようにして彼女に付き従った。

 薄暗がりの廊下をまもなく抜けるというとき、リュンヌの歩みが鈍った。広間から漏れ伝わる気配がいよいよ濃くなり、怖じ気づいたせいだった。隠れたがる気持ちの発露のように、指先が縮こまる。するとエルネストの手が控えめに――けれどたしかに護るように、励ますように、少女の手を包み支えた。

 エルネストとリュンヌが連れ立って姿を見せると、広間の周縁に点在して様子を窺っていた野次馬たちが一斉に好奇の目を向けた。階上の回廊から身を乗り出してまで眺める者もあり、リュンヌは居たたまれずにふかく俯いて顔を隠した。エルネストがリュンヌの前に歩み出て、みずからの体で衆目から彼女を庇う。「見世物ではないぞ」と声を張り、「居るべき場所へ戻れ」間を置かず、そう叱責すると、彼らはようやく三々五々に散っていった。

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花冠を君に 望灯子 @motoko

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