10.

「まあ、ねえ、人生っていうのは意地が悪いもんで、似たような災難に立て続けに見舞われるときというのがあるものなんだよ。厄介なことにね」

 軒先に積まれたの木箱をがたごとと音をたてて店の奥へと引き入れていたゾフィは、ひとしきり作業を終えたところで手をとめると息を衝きつつそうこぼした。リュンヌは箒の長柄を両手できゅっと握りしめ、神妙な面持ちで彼女の言葉を聞いていた。

「こわい思いを何度もしたのは大変だったろうが、過ぎたことだしはやくお忘れ。とにかくあんたにおおきな怪我がなかったことが何よりなんだから。顔のすり傷はじきにきれいに消えるだろうし、足だって、無茶せずおとなしくしていればすぐに痛みもひくさ」

 リュンヌは挫いたほうの足先を試すようにゆるゆると動かしてから、ふたたび箒を動かしはじめた。落ち葉の破片や小石が掃き寄せられて乾いた音をたてる。どこかさびしげに耳をくすぐるそれらも、ゆっくりと溶けるように鮮やかさを失っていく夕景も、居慣れた場所で触れていればそこにおぼえるものはおだやかさばかりで、数日前にせき立てられたような不安など今は微塵も感じられない。リュンヌは拗ねたようにくちびるを尖らせた。

「もう、続いて欲しくないな」

 ゾフィが苦笑を浮かべ、すれ違いざまにリュンヌの肩をかるくひと叩きした。慰めるようなその手つきに促され、リュンヌは顔から不満を引っ込めるとふたたび店仕舞いにいそしみ始める。日々繰り返している作業は単調に、滞ることなく片付いてゆく。ただひとつ、常には無い気懸かりが在るといえば在ったが、リュンヌはそれを表に出すことはしなかった。ただの過ぎた心配として終わることを願っていたからだ。すべてを終えた帰り際になって、それを口にしたのはゾフィだった。

「テオは今日は何か用でもあったのかい? 店に来なかったのは珍しいね」

 ぎくりとした。弟は日頃、学校が終わるとそのままここへやって来る。夕刻までを店の片隅で本を読みふけって過ごす姿は、テオが今の年齢になるまで珍しくもないものだった。彼の友人たちも慣れたもので、彼を誘うときには店へ迎えに来る。しかしそういえば今日はその友人らの姿も見えないので、一緒になってどこかで遊んでいるのだと信じることもまだできた。と違うことなどもうたくさんだった。

「寄り道してるのかも。最近、古書店の裏に子犬が居着いたって。懐こくてすばしこくて、追いかけあってみんなで走り回ると楽しいんだって話してたから」

「おや、それはいいことだね」

 テオの一方の足は同じ年頃の多くの子どもたちと同じようには動かない。生まれつきのもので、どうにもしようがないと言う大人もいれば、火難で負った肉体或いは心の傷に因るもので、当人の努力如何によっては改善が見込まれるはずだと熱心に説く大人もあった。ゾフィは後者の代表で、リュンヌを待つあいだのテオが常に活字を追っている姿を見ては気を揉む様子もよく見られた。けれど、実のところ、彼には他にもすこしばかり不思議な性質がある。たとえば自宅で姉弟きょうだいふたりきりで過ごす時間、テオは身振り手振りをまじえてたくさんのことをリュンヌに話して聞かせてくれるのだが、一歩外へと出ると途端に、周囲を驚かせるほどの徹底さで無口を貫くのだ。そうした振る舞いにしろ、足の動きにしろ、彼の特徴的な何らかのすべてを過去のつらい体験に結びつけ、それが起因だとするのはたしかにとてもわかりやすい。けれど、もしもそれらが弟の持って生まれたたちだとしたらと考えると、リュンヌは途方に暮れた。自分にだって大なり小なり、他人の目には異質に映るところもあるはずで、しかしそうしたところは容易に変えることはできないし、時間が経とうと変わらないものは変わらない。だから、そうしたところを身近な人から否定的に受けとめられて、変わる努力をつよく求められるのは――しかもそれが、純粋に善意からだと理解ができるならばなおのこと――つらく思いはしないだろうか。

 弟にまつわるあれやこれやを思い悩みながら歩んだせいか、リュンヌは随分とはやく彼の姿を期待する古書店のあたりへ行きついた。店はすでに灯りを落として閉店の木札を掲げていた。ひっそりと静まりかえったその佇まいとは裏腹に、あたりには子どもたちの賑やかな歓声や足音がまだ響いている。声を追って店の脇の路地を覗きこむと、思ったとおり、顔なじみの男児たちが元気な子犬を中心にして息を切らしていた。所狭しと駆け回る彼らの姿をリュンヌは順に確かめる。弟はすぐに見つかるはずだと自分に言い聞かせながら、ひとり、またひとりと視線を運んだ。ほどなくして、落胆する彼女に気がつき足をとめたのは、数日前にも言葉をかわした年長の少年のひとりだった。

「テオのことさがしてる?」

 リュンヌがちからなく頷くと少年は、やっぱりね、という顔をして、彼女の肩を越した向こうを指で差した。それだけで、不穏な予感の半分は当たったように感じられる。背後の道は方角的に、町の中心へと続いていた。

「こないだの、変なお兄さんが来たんだ。ヌヌースに飛びつかれて地面に寝そべってた人。テオ、あの人といっしょに行っちゃった。あっちの方」

「本が、たーっくさんあるんだって!」

 立ち話をしているふたりに気づいた年少の子どもたちが三々五々に駆け寄ってきてはリュンヌに対して主張を始めた。

「テオはね、今日は古書店のじいさんからあたらしい本をもらってね、そこにすわって読んでたよ」

「そしたらあのいーっぱいしゃべる人が来てね。テオにずーっといろんなこと話しかけてた」

「テオはいつもの調子で、うんもううんも首ふってるだけだったんだ。けど、そのうちあの人といっしょに歩き出してた。本がたくさんあるところ知ってるよって、お姉ちゃんも知ってるとこだからだいじょうぶだよって言ってたんだって」

 そうやって皆が我先にと聞かせてくれるので、おおよその経緯はすぐにわかった。思い浮かべるだけでもくたびれてしまう、あのぺらぺらとよく喋る軽薄な青年を訪ねる必要があることも。

「テオを迎えに行くよね。ヌヌースも連れてく?」

 憂鬱げな表情を隠せないリュンヌを案じてか、年長の少年が問いかけた。彼の言葉に呼応して、ふたりのあいだの足下から、自信にあふれた吠え声がたからかに響く。子どもたちと駆け回っていた毛むくじゃらの子犬が、顔を覆うたっぷりとした毛の隙間からやる気に満ちたまなざしを輝かせてリュンヌを見上げていた。

「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫」

 たのもしくもかわいらしい態度を前にして、いくらか気持ちが晴れた。しゃがみ込み、ほめてやるようにヌヌースの背を撫でながら、少年にも笑顔で応じる。彼はほっとした表情を浮かべるとくるりと踵を返して駆け出し、まだそこらで遊び回っている子どもたちの群れに紛れていった。

 一方ヌヌースは、リュンヌの周りを元気に飛んだり跳ねたりしながら結局最後まで忠実に彼女を追ってきた。憲兵隊の隊舎で、少女と子犬という如何ともその場所にそぐわない訪問者を迎えた門衛は少々面食らった様子だったが、彼はまず、立ちはだかる大の男にも怯まず四肢をどーんと踏ん張って堂々たる構えを見せていたヌヌースを懇切丁寧に説き伏せ、その場から立ち去らせることに成功した。おまえはここへは入れないよと告げられたヌヌースは、さして気にした風でもなく、敷地に沿って巡らされた鉄柵の匂いなどを嗅ぎながらあっさりと夜暗に紛れていった。

 門衛は次に、少女の頭のてっぺんから足の先までをしげしげと眺め、彼女が告げた名前を呆れたように復唱した。

「ルメルシエねえ。取り次いでやってもいいが……」

 彼の口ぶりはリュンヌに同情的だった。

「あんたみたいな娘は、奴はやめておいたほうがいいと思うがねえ」

 そういう用件ではないので、と咄嗟に返したくなった言葉をリュンヌはぐっと飲み込んだ。面倒な詮索をされずに通してもらえるならば、誤解をして哀れんでくれるほうがよほど都合がよいと思ったからだった。実際に門衛は、返事をせずにじっと俯いている少女を見てやれやれとばかりに息をつき、規則に則った手続きのいっさいを省いて彼女を中に通してくれた。そのうえ交代にかこつけて建物の中にまで付き添って、面会のための小部屋への案内まで買って出た。途中、男女の仲のことわりについてくどくどと説かれはしたが、リュンヌはそれにも口答えせず、おとなしく黙りこくって聞いていた。それというのも、前を歩く門衛をはじめとして、すれ違う者、離れた場所に見え隠れする者、全員の姿が数日前に目の当たりにした乱闘の記憶を生々しく思い出させるのだ。みるみる気持ちが萎縮して、喋るどころではなくなっていた。迷いなくこの場所まで来るには来たが、好きこのんで訪れたい場所ではなかった。逃げ出せる用件ならばすぐにでも逃げ出していたことだろう。

 けれどもこういう時、遠くから聞こえてくる声がリュンヌにはあった。母の、父の、祖父母の、懐かしくやさしい声。下の子たちを見ていておいてねと頼まれて、言われたとおりに世話をしていると、「リュンヌはいい子だ」「いいお姉ちゃんだ」と褒めそやしてくれた。「リュンヌがいるから安心して働ける」「いつもありがとうね」そんな風に言ってもらえることが、子供心に誇らしかった。

 しっかりしなければ。自分は今、弟の保護者としてここにいるのだ。

 一刻もはやく弟を家に――いつもの日々に連れ帰る、今の自分はその役割だけを考えているべきだとリュンヌは顔をあげた。

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