09.

 モニクとの岐路を過ぎるとリュンヌの足どりは徐々に、とぼとぼとしたものに変わっていった。うす暗さを帯びてゆく夕景のなか、ひと気のない不慣れな場所をひとりきりで歩んでいる心ぼそさのせいもある。けれどそれよりも、脳裏からなかなか消えようとしてくれない血と暴力の鮮烈な印象の影響が彼女にとっては大きかった。忘れようと努めることならば、ここまでの歩みと同じ数だけしているつもりでいる。それでもふとした瞬間に、もう終わったはずの出来事に対する緊張が前触れなく蘇る。心臓はたしかに痛みをおぼえて縮こまり、そのたびリュンヌはいちいち立ち止まっては時間をかけて長く息を吐いた。その呼気とともに、自分の内にしつこく留まりつづけようとしている悪い記憶が外に溶け出てゆくことを願いながら。

 ため息をすべて押し出したあとに、それでも胸に残るものはといえば、の後ろ姿と横顔だった。あのとき不思議と、彼と彼の纏う黒い色に恐ろしさは感じず、その雄々しさをうつくしいもののように思いこそした。そして去り際に目に映した、最後までこちらに向けられることのなかった横顔には幾ばくかの淋しさを。

 リュンヌはひととき逡巡したのち、それらを胸の奥底にそっと仕舞った。おぼえたばかりの印象がただしいものであるのかそうでないのかを判別するには、静かなこころで時間をかけるべきではないかと考えたからだった。すくなくとも今このときはそのための時間として適していないと思えたし、焦って下した判断がもしも間違っていたならきっと後悔をする――そんな予感が不思議とあった。

 家路をいそごうと、顔をあげて足をはやめる。石の敷かれていない小道の両側を埋めている建物がこちらに向けているのは、錆びついた蝶番に土埃を積もらせた勝手口や鎧戸を閉めきった小窓ばかりで生活の気配をまるで持っていない。それらすら点在するのみで、あたりはいかにも裏通り然としていてもの寂しかった。土が剥き出しの地面はおそらく一日を通して湿っているのだろう、そこを踏む靴音すらやがて陰鬱に聞こえてきて、リュンヌはいっそ小走りに駆け出そうとした。その同時。ふいに後ろから肩に手を置かれ、彼女は驚きのあまり全身を跳ねさせた。

「待って」

 かけられた言葉が耳にとどく余裕もなかった。リュンヌは反射的に振りほどくように身をよじった。しかし相手のちからは思いのほかつよく、少女のからだは掴まれた肩を起点に半身くるりと回るにとどまる。

「やっぱり、君だった」

 嬉しげな笑顔がためらいなく近づけられる。夕闇に霞みもせず色濃く存在を主張する美貌を見れば、昼の記憶がすぐさま蘇った。モニクとやり合っていた彼だ。仲間からはヴィクトルと呼ばれていた。

 リュンヌはのけぞるように身を退いて、縮まった距離と同じ分だけ相手から離れようとした。するとヴィクトルはリュンヌの腰にするりと腕をまわして流れるように彼女を抱き寄せた。肩に置かれていた手はなめらかに腕をすべり降り、たどりついた先の少女の指をダンスにいざないでもするかのように捧げ持つ。すべての触れ方は優雅で自然ではあるが過度になれなれしく、ほのかに芽吹いた不快感と困惑をリュンヌは持て余した。

「こんなにはやくに再会できるなんて嬉しいな、砂糖菓子の妖精さん。ぼく、この裏通りの陰気っぷりにはいい加減うんざりしてたんだ。けど今からは君の愛らしさが明けの明星のようにぼくらの行く先を照らしてくれるから何も不満がなくなったよ。ねえ、可愛い妖精さん、ぼくらどこまでいっしょに行けるかな。君は家に帰る途中?」

 くどくどしい甘ったるさは昼に遭遇したとき以上だった。こういう物言いや態度が時と場合によっては女性をとても喜ばせるものであることはリュンヌにだってわかっているが、相手が相手であるし、今このときに密な距離からそうしたものを過剰に注がれたところで自分にとっては益々好ましくないものにしかなり得ない。語られる言葉の殆どを、リュンヌはただ聞き流すことでやり過ごそうとしたが、彼がこの先の道行きを勝手に共にしようとしていることだけはきちんと聞き咎めた。

「あの、」

 リュンヌにしてはためらわず、おおきな声を出して語調をつよめる。

「わたし、ひとりで帰るので。離してもらえ、ますか」

 言い終えたところでヴィクトルがにこりと微笑みをふかめたので、不安に駆られつつあったリュンヌはわずかばかりほっとした。聞きいれてもらえたと思ったのだ。けれどもヴィクトルは、リュンヌの腰にまわしていた腕をほどくことはしたものの、指先を握る片手には却ってちからを込めてその腕を天に引き上げた。

「ひゃ?!」

 思わず間の抜けた悲鳴が漏れる。踵が地面から離れ、宙に浮きそうになるからだをつま先立ってなんとか支える。よろめく少女を、未だ繋がれたままのヴィクトルの手が器用に導いて、まるで舞踏の一節のようにその場でくるりと回転させた。腕はふたたび腰にまわされる。背中にいくらかの重みがかかり、青年が後ろから身をすり寄せたことをリュンヌは知る。

「遠慮はだめだよ、野うさぎちゃん。君のようなかよわげな子にこんな暗い道をひとりで行かせるなんてぼくにはできないな。ほら、髪にまだ昼間のおひさまの香りが残ってる。嗅ぎつけたわるい狼が寄ってきたりでもしたら大変だよ」

 あなたのことだわ、と非難したくなる気持ちが膨らみはしたものの、リュンヌの口からそれが言葉として生まれることはなかった。ヴィクトルのうっとりとした吐息がうなじの膚に触れ、我慢ならない怖気おぞけが背すじをはしったからだ。嫌悪感が全身に満ちる。爆ぜたのは、苛立ちだった。昨日から、望んでいないことばかりが起きる。黒い軍装も、それを纏う彼らも、暴力的な騒ぎも、戯れのような口説き文句も。どれも自分から関わりたいと思ったことなどただのいちどもないというのに、みな向こうから勝手にやって来てはリュンヌの気持ちを波立たせる。

 反論したところで、胸やけしそうになるだけの空疎な文言の羅列が、自分の発した言葉の何倍にもなって返ってくるだけだろうとしか思えなかった。なのでリュンヌは無言で、腰のあたりに巻かれている腕を振りほどこうとめいっぱいの力で押した。けれども、当たり前のことかもしれないが、青年の腕はびくともしない。無分別で享楽的な遊び人に見えても、彼も憲兵隊の一員ではあるのだ。エルネストほど堂々とした体格ではないとはいえ、上背もあるし、それなりに鍛えてもいるのだろう。どれだけ嫌おうと、望むまいと、どうしたって敵わないのだ。

 頑なに彼らを否定し続けてきた過去の自分が何度も同じ思いをしたように、自らの非力を否が応でも知らされて惨めな気持ちになる。しかし、そうして鬱屈を溜めてゆこうとするリュンヌのこころをふと過ぎる清風のようにさりげなく慰めたのは記憶のなかのエルネストの態度だった。彼がどれだけ自分を慮りながらその力を行使してくれていたか。それを今ならばとても素直に認め、受け容れることができる。たった一日まえの自分にはできなかったことだ。目の覚める思いがした。

 そうなると、腹立たしく思えてくるのはその気づきがこの軽薄な若者によってもたらされたという事実だった。リュンヌはふたたびヴィクトルの腕に両手を置くと、思いきり、くすぶる不満のすべてをそこに乗せた。相手は変わらずびくともしないが、代わりにリュンヌの上半身がつんのめるように前に出て、足が浮く。

「わっ、危ないよ。お転婆だね、子猫ちゃん」

 驚いた風もあったが所詮は呑気な声だった。リュンヌは耳を貸さず、やみくもに脚をばたつかせた。ヴィクトルはさすがに目をまるくして焦った様子を見せ、ついには少女を抱える腕のちからをゆるめる。そうこうしているうちにリュンヌの靴の踵がなけなしのひと蹴りとして彼の向こう脛にしたたかに当たった。

「いてっ!」

 情けない悲鳴が響くと同時にリュンヌのからだは解放された。ころげるように彼女は駆け出す。挫いたばかりの足首がすぐに痛みだしたが、こらえて、こらえて、人の気配を求めてひたすらに急いだ。ねえ待ってよ、と甘えるように追いすがる声が背中に届く。かまうことなど当然しないが靴音はどんどん近くなる。息があがり、足の痛みもいや増すが、ふと気がつくと長く一本道だった路地裏の両側に何処かへと伸びるほそい脇道が点々と現れはじめていた。選ばなければとリュンヌは色めき立つ。でも、どの道を。その先に賑わいが待っている道すじを見つけなければ徒労がつづくばかりだ。決断できないリュンヌの耳にかすかな犬の鳴き声がとどく。それはまだとおく、みずからの荒い息遣いに邪魔をされるほど頼りないが、弾むように地を蹴る足音とともにこちらに近づいてきているように感じられる。さらに、子らのものと思える甲高い歓声。それらが組んず解れつしているように、混じり合って聞こえる。リュンヌは呼吸を整えながら、ひとつの脇道の前で足をとめた。

「まっ……、……まっ、て」

 ぜえはあと、リュンヌ以上に苦しげに喘ぐ音を交えた声がほどなくして追いつく。背後から手首をつかまれかけて、リュンヌは慌ててそれを払いのけた。けれどもふたたび駆け出すほどの体力はなく、よろめくように相手と数歩の距離を取るにとどまる。

「足が、はやいね、やっぱり、野うさぎちゃん……かな……」

 喋らなければいいのに、とリュンヌが呆れるほどにぜいぜいと息を乱しながらもヴィクトルは口を閉ざさない。しかしさすがに麗しい微笑は消えていて、彼は傍らの壁に手をついて自重を支えながら、乱れた髪が顔面に纏わりつくのもそのままに、肩をおおきく上下させてなりふりかまわず息を継いでいる。

「名まえを、おしえて、欲しい、だけだよ、逃げない……で、」

 ヴィクトルは懲りない一歩をおおきく踏み出した。リュンヌは身をかたくする。そこへ。丸々とした黒い毛むくじゃらのかたまりが、元気いっぱいの吠え声を響かせながら勢いよく側道から飛び出してきた。横っ面に飛びつかれ、青年は驚きのあまりその場にしりもちをつく。

「わーーーーっ」

 子犬だった。子犬は嬉々として尻尾を振りちぎりながら彼をよじのぼり、勢いに圧されたヴィクトルはついに道ばたに仰向けに押し倒された。子犬は男のからだの上で、将来さぞや立派に育つだろうふとい四肢をちからづよく踏ん張り、ふすふすと鼻息をたてながら彼の顔中にせわしなく親愛の情を示し始める。ヴィクトルはわなわなと全身を震わせ、除けたいけれども触ることができないのか、両手をむなしく空にさまよわせている。

「う、う、うわあああ、ちょ、やめて、君ちょっとたすけて、ぼく犬は、犬は苦手なんだ……!」

 リュンヌは毒気を抜かれて立ち尽くした。ヴィクトルのおののきぶりはとても演技には見えない。およそリュンヌにもまだ容易に抱きあげられそうなほどのころころとした幼犬だ、彼から引き剥がすことをたすけると言うならば造作もなくできるだろう。けれどもそうする義理は自分に無いとも思ってしまう。手を差し伸べることを躊躇うリュンヌの前にやがて、わあわあきゃあきゃあと歓声をあげながら駆ける子どもたちが姿を表した。

「あれー? テオのねーちゃん?」

「ここで何してんの? テオのねーちゃん」

「“ヌヌース”がこっちに来なかった? テオのねーちゃん」

 連呼され、リュンヌは目をまるくした。皆よく顔を知っている、弟の遊び仲間の少年たちだった。そこに弟の姿がないことを確かめてからリュンヌは彼らを呼び集める。

「テオは? 一緒じゃないの?」

「いつもの古書店にいる。ねえ、あのひと、ヌヌースと何してんの?」

「知らない。それより、真っ暗になる前にはやく皆で帰りましょ」

 ヌヌース!おいで!と男児のひとりが口笛を吹きつけ子犬を呼ばわる。上機嫌でヴィクトルに取りつきつづけていたは応えるようにひと吠えしてから、少年たちのもとへ飛ぶように戻ってきた。リュンヌは少年たち全員の背を包むように腕をおおきくひろげながら、彼らの来た道へ足を向かわせる。しつこく追われやしないかと心配しながらヴィクトルを振り返ると、彼はよれよれとからだを起こし、疲労困憊の表情を浮かべその場にぐったりと座り込んでいた。リュンヌの視線に気がつくと彼はかろうじて顔をあげ、色男の意地を見せつけるように微笑をつくってみせる。

「バイバイ。今日は残念だったけど……またね。テオくんのおねーちゃん」

 いかにもくたびれ果てている弱々しい物言いだったが、彼の選んだ呼称はリュンヌに一抹の不安をおぼえさせるには十分だった。

「忘れて」

 努めてかたい声を出し、精一杯の険しさでリュンヌは言い捨てる。足もとで跳ねまわる子犬の存在がこころづよかった。リュンヌは二度は振りかえらず、足早にその場から立ち去った。

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