08.

 通りの端で身を寄せ合って、少女たちはちいさな紙包みをほどくことに夢中になっていた。そうっと差し出される、両手を揃えてつくられたくぼみの真上でモニクが薄紙の重なりを傾ける。すると、よく磨かれた白蝶貝のうすい釦がささやかな物音をたてながらリュンヌのてのひらに次々ころがり落ちる。降り積もった釦にはそれぞれ異なる模様がさまざま彫りこまれていて、そのどれもが端を欠けさせていたり、彫られた線に流し込まれた染料が過度に滲んでいたりする。けれども少女たちはその不揃いさやいびつさをまるで気にすることなく、やわらかな虹色の光沢が遅い午後の日射しにすこしだけ妖しく揺らぐ様子にただ目を輝かせた。

「今日は多いわね。ついてるわ」

 折りたたまれていた薄紙を広げながらモニクが声を弾ませる。手芸店メルスリーの老店主はふたりの存在を覚えてくれていて、正規の値では売り物にならない傷物や半端な物を溜め置いては少女たちが訪れるたびに廉価で譲ってくれていた。爪を使って器用に等分に裂いた薄紙の一方を、モニクがリュンヌに渡す。共に互いの好みは熟知していて、ほんのわずかな色の加減や彫られている図案をたしかめてはひとつまたひとつと楽しげに分け合っていく。あらかたを選び終えようかという頃合いになって、モニクが手を止めないままリュンヌに訊ねた。

「この後はどうする? まだお茶を飲んでくくらいの時間はあるかな。もしおなかがすいてるなら何か食べてから帰ろうか」

 リュンヌは顔をあげてあたりに目を向けた。数本のゆるやかな坂道の終点が溜まっている、ちょっとした窪地のような場所だった。周囲の建物に差す影の印象が、太陽が西に傾きはじめつつあることを告げている。お腹には、お昼時に歩きながらつまんだたっぷりの焼き菓子がまだ残っているように感じられたが、気の置けない友人とのせっかくのひとときをここで終えてしまうのも惜しいと思ってしまう。

 追って顔をあげたモニクが、返事を求めるようにリュンヌと目を合わせた。が、彼女はふと友人の背後に何事かを見留めたらしく、そちらに視線を流したかと思うと表情に険を滲ませた。どうしたの、とリュンヌが訊ねるよりも早くに、モニクは自らの手のうえの薄紙を折って伏せ始める。

「とりあえず歩こっか」

 彼女は柄にない神妙さでそう言って、自らの取り分の包みを腕に引っかけていたポシェットにぐいと仕舞い込んだ。それから、取り残されたままでいるリュンヌの指先に手を重ねて、自分に倣うよう促す動きをする。リュンヌはつい気になって、首だけをめぐらせて後方に目をやった。

 ちょうど、真後ろだった。荒れ放題の古い建物の戸口で数人の男たちが言葉を交わしていた。そこを後にする者達と、見送る者達といった風情だったが、いずれも顔を伏せがちに、声も潜ませていて、どこか暗澹あんたんとした空気を発していた。廃屋と見紛う建家の存在がまた、彼らの不穏さを後押ししている。しかしよくよく見澄ましてみると、通りに面した窓の内側には青や茶色の遮光瓶が所狭しと並んでいるので、ひょっとするとそこは目立つ看板を出していないだけの薬局か何かであるのかもしれない。

 背後の光景にすっかり気を取られていたリュンヌの手をふいにモニクがきつく握り締めた。意識を引き戻されて、リュンヌは幾分のんびりと、向き直ろうとする。その刹那、けたたましい呼び子の音が天高くまでを貫いた。

 あたりの空気が一気に張りつめる。驚きに竦みあがったリュンヌの体をモニクがつよく引いた。よろめきながら友人に縋りついた少女の瞳には、薬局前にたむろしていた男たちが慌ただしく駆け出す様が映っていた。鋭い号令の声が四方から飛び交う。荒々しい足音が男らを追って押し寄せる。逃げ散ろうとする者たちの行く手を黒衣の憲兵隊員が阻み、瞬く間に狭い一角で幾つもの衝突が始まった。

 高圧的な恫喝と、喚かれる罵り言葉の応酬。中には扉の内側に逃げ込んだ者もいたようで、力ずくで戸板をこじ開けようとする乱暴な物音や掛け声もある。少女たち同様、通りすがりにこの突然の捕り物に出くわした人々も身を震わせて道端に避け、飛び交う怒声に固唾を飲んでいた。階上の鎧戸をほそくひらいた隙間から、不安げに外の様子を窺っている者たちも多い。

「だいぶ前から悪い噂のあったとこよ。あたしたちには関係ないから大丈夫」

 すっかり血の気を失っているリュンヌにモニクが耳打ちした。ふたりのすぐ近くにも憲兵隊員の緊迫した往き来があるが、モニクは気丈な顔をして、怯えるリュンヌの肩をなだめるようにやさしく撫でさすった。壁際でかたく身を寄せ合う少女らの前でやがてひとりの憲兵隊員が足を止める。些か驚いた様子の声がモニクの名を呼んだ。

「マレ大尉!」

 モニクが嬉しげに応じる。指先にまで張りつめていた緊張がうすらぎ、安堵はリュンヌにも伝播した。そっと視線を持ち上げる。物静かな面差しと、それを縁取る黒髪が印象的な人物だった。モニクが彼の姓名を囁いてリュンヌに教え、ジュディットと仲良しなのよ、と付け足した。

「居合わせるとは不運でしたね。このあたりは暫く騒がしくなります。帰り道は面倒でも遠回りをしたほうがいい」

「はあーい」

 視線で道筋を示されたモニクはすこぶる素直な返事をする。リュンヌもその目線を追いかけて――そして、その時になって初めて、彼の向こう隣にいるもうひとりの存在に気がついた。

 どきりと心臓が弾む。たちどころに、それまでとは違う動揺が訪れた。彼は軍帽を目深に被り、自分たちとは正反対に顔を背けていたが、リュンヌにはすぐに彼がエルネスト・オラールだとわかった。見上げる背の高さも、短く整えられた襟足も、首を斜めに走る筋の力強く浮き上がっている様も、すべてよく見覚えていた。彼は単に離れた向こうを気にかけているだけかもしれなかったが、意図的にこちらから表情を隠そうとしているようにも感じられ、そのことがリュンヌの胸をわずかに軋ませた。

 声をかけるべきか。彼女が思い悩んでいるうちに、ふいに彼が肩を怒らせ、全身に緊張の鎧を纏った。野次馬がどよめき、悲鳴があがる。あたりのすべてを脅かすような罵声がそれらを割って、ふたりの少女はびくりと身を震わせた。

 リュンヌは思わず、まだ片手に握りしめたままでいた貝の釦を取り落とした。繊細なそれらはぱらぱらと地に散らばって、弱々しくあちらこちらにころがってゆく。つい、普段であればそうするように。せめて近くに落ちた幾つかを拾い取ろうと、リュンヌは咄嗟にその場にしゃがみこみ、そしてすぐに後悔をした。恐ろしいものから目をそらせずに。 

 巨躯の男が廃材を片手に吼えていた。数人の憲兵隊員が遠巻きに男を囲んでいたが、彼らの腰は引けていた。男の足下に、彼らの仲間がひとり、倒れ伏している。膝をついたリュンヌからはその横顔がよく見える。見える、筈なのに、彼の肌の色は見えなかった。赤黒い血でべっとりと濡れていたからだ。彼がその身から流したものは石畳にも累々と広がっていて、地面と彼との境界がわからないほどだった。だらりと投げ出されている彼の腕、奇妙なかたちに捻れているそれを、巨躯の男の片脚が踏み躙っている。男は理性などとうに失っているのか、怒りに満ちた顔つきを右に左に向けては相手かまわず罵声を浴びせていた。その爛爛としたまなこが、青褪めて息を呑むばかりのリュンヌの姿を捉えると急にぴたりと止まった。それは少女の間近に立つ男の、傍目にも身分の高さが窺い知れる黒衣を認めたせいかもしれなかったが、しかしまた確固たる理由など何もありはせず、激昂し正気を失った人間の気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。ともかくも、恐怖のあまりまばたきすらまともにできずにいる弱くちいさな存在を、男はそのとき標的と定めたようだった。

 獰猛な眼光に見据えられたリュンヌはただただ凍りついていた。自分の手足の動かし方さえ、忘れてしまったか、或いは生まれたときからそんなものは知らないとでもいうようだった。次の瞬間には男はもう、廃材を振りかざしながら少女に向かって突進していた。モニクの悲鳴が聞こえる。視界はすぐに、自分めがけて凶器を振りかぶる男の姿で埋め尽くされる。それでも、絶望すら、自覚できずに。逆光が黒々と描きだす禍々しい輪郭を呆然と見あげるリュンヌの眼前で、しかしその時、影の色より艶やかな黒の外套がおおきく翻った。木材の砕ける乾いた音だけが少女の耳には届く。

 周囲にぱらぱらと木屑が降る。まるできれいな粉雪や、花びらででもあるかのように。巨躯の男が憎々しげに呻く声がそれを追う。

 暴漢とリュンヌとのあいだに立ちはだかり、彼と対峙しているのはエルネストだった。振りおろされた廃材を片腕に受け止めている。みしりみしりと鳴る木材を男は強引に押し込み続け、しかしエルネストも一歩も引かず、黒革の手袋に覆われた五指に、腕に、力を漲らせていた。エルネストがわずかに脚をにじらせた拍子に、彼の黒い軍靴の踵が地に散っている貝の釦を踏み砕く。けれども今のリュンヌは、その一瞬を目に捉えても、そのことに痛みを感じたりはしなかった。

 襲いかかった男はぎりぎりと歯を鳴らし憤怒の形相を浮かべていた。廃材はふたりの闘士のあいだでたわみ、やがて騒々しい音を立ててまっぷたつに折れ砕けた。巨躯の男は癇癪を起こしたように、何事かを喚きながら木片を地に叩きつけ、エルネストに素手で殴りかかる。エルネストは落ち着き払ってそれをかわした後で、木片を握ったままの拳を水平に振り抜き男の横っ面を力一杯張った。

 男は口から血を噴きながらよろめき、数歩後じさった。モニクがすばやくリュンヌに駆け寄り、引きずるようにして彼女を立たせる。リュンヌもその時には懸命に恐怖を振り払い、もつれる足を必死に運んだ。争う男たちから距離を取ろうとしながらも、リュンヌは彼らの顛末を気にかけて何度も振り返った。エルネストは木片を放り、外套と軍帽を脱ぎ棄てながら男との距離を詰めていた。闇雲に殴りかかる男の拳を胴に受けても、エルネストは歯を食いしばるだけで一歩たりとも退かず、男の腫れあがった頬をふたたび殴って応じていた。

 ふたりはやがて、互いに相手の襟もとを掴んで暫し睨み合った。乱れ落ちた前髪の下でエルネストの双眸は怒りに燃え盛っていた。両者の均衡がわずかに傾いだ隙を彼は見逃さず、相手の頸をぐいと引き寄せるや否や下肢を蹴りつけ、たまらずぐらついた巨体をひと息に地に引き倒す。うつ伏せた男の腰にエルネストは容赦せず膝を打ち込んだ。相手が噎せて呻くのもかまわずに、彼はそのまま背に跨がり、片腕を頚にまわして締め上げた。男の顔はみるまに鉛色を帯び、呼吸の音が浅くきれぎれになってゆく。

「糞が……。燃やせよ……」

 譫言のように男が吐き捨てた。

「七年前と同じように、燃やせばいいだろうが。お前らにとっては俺らなんざ、薄汚い鼠一匹と変わらねえだろ……なら、またやったらどうだよ。昔みたいに店に火をつけて、何もかも全部燃してしまいに、すりゃあいいだろうよ……!」

 エルネストはしかし、酷薄な目で男を見下ろしたまま言い放った。

「燃やしてなどやるものか。ひとつ残らず証拠を押さえてやるからな。隠し倉庫をつくって、届け出のない取引きを長年やっているだろう」

 男の目が血走る。言葉にならない絶叫を放ち、渾身の力で両脚をばたつかせてエルネストの腕を振り解こうと暴れる。エルネストはさも鬱陶しそうに目をほそめると、もう一方の腕も持ち出し、相手の喉元をさらに強固に締めあげた。

「やかましいぞ。暫く静かにしていろ」

 ぞっとするほど冷酷な声が告げる。男は目を剥き、口の端から血混じりの泡を垂らしながら巨体を痙攣させ始めた。直にだらりとその四肢が投げ出されると、それまで硬直していた若い憲兵隊員たちが我に返ったように動き出し、慌ただしく上官のもとに駆け寄った。人集りの中心で、エルネストは気怠げにゆらりと立ちあがる。

 騒動の行方を息を詰めて見守っていた見物人たちからも安堵の声が漏れ、あたりの空気はふたたびゆるく流れ出した。一部始終を見届けてようやく、リュンヌも顔をそむけて、くたりとモニクにもたれかかる。

「だいじょぶよ」

 友人はやさしくリュンヌを受けとめた。

「あのひとたちは“お仕事”をしてるだけ。あのひとたちがこわいひとなわけじゃ、ないのよ」

 リュンヌは肯定の意を込めて、頷くかわりに伏せた睫毛をかすかに震わせた。ちゃんとわかっている、そのつもりだった。つい前日に心を預けかけた相手の、その時とはまるで違う姿に、今はただ驚いているだけだ。いつまでたっても落ちつく気配のない自分の心臓に、リュンヌは繰り返し言い聞かせた。

「怪我はありませんか?」

 少女たちを案じて声をかけたマティアスが、離れた場所へふたりを誘導した。モニクに寄りかかってよろよろと歩みをすすめるリュンヌの耳には、自分のすぐ隣で交わされている会話すら、靄に包まれたどこか遠くで鳴っている鐘楼の音のようにぼんやりと聞こえていた。モニクが纏うドレスの生地の、なめらかな表面に額をそうっとすり寄せると、わずかばかりでも熱がひいていくように感じられる。大丈夫かを問われるたびに、リュンヌはため息を抑えて根気よく幾度も頷いた。

 その日、その場から立ち去る前に、リュンヌはいちどだけ後ろを振り返った。エルネストは変わらず人集りの中に在り、方々から怪我の具合を確かめられながらもやすむことなく、年若い部下たちにあれこれと指示を出している様子だった。彼はひとときたりともこちらを振り向くことはなく、周囲との言葉が途切れた短い時間にはおおきく息を衝いて、独りじっと俯いていた。リュンヌはやがてどうしようもない疲労感に襲われ、彼の姿を目で追いつづけることをあきらめた。そうしてついに終いまで、彼の表情を窺い知ることはできないまま、友人に支えられながら静かにそこから離れたのだった。

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