07.

 大隊長用の執務室からは眼下の広場をくまなく見渡せた。

 部屋は庁舎の最上階にある。実際には三階の高さでしかないが、建物が小高い位置にあるおかげで随分と視界は広い。覚えのある青いスカートの裾を揺らす少女の姿をエルネストはとうに見つけていた。

 片足を庇うような歩みで坂道をくだってゆく彼女の隣、肩が触れ合うほどの近さで歩調を合わせているまばゆい金色の髪もまた記憶に新しい。ふたりの後ろ姿が建物の陰に消えてゆくまでを見届けてから、エルネストは日射を濾すための薄いカーテンの端にかけていた指先をそっと離して室内に向き直った。

「申し送り事項は以上です。委細は書面に記しましたので、ご面倒でも一読を」

「面倒なものか」

 事務的に告げる口調を即座にはねつける。

「お前がいてくれて助かった。七年よく、この町に残り続けてくれたな」

 どっしりとした執務机を挟んで立っているのは副官を務める長身痩躯の部下だった。長めの黒い直毛を、うなじでひとつに括っている。名はマティアス・マレといい、エルネストとは軍部学校の入学同期で互いに気心の知れた相手だった。

「貴方のほうこそ。諸々押し通してよく戻ってきてくれました」

 白い布手袋が差し出してくる書類の束を片手に受け取り、エルネストは椅子にかけないままその表紙をめくる。書き連ねられた文字に目を走らせながら、何気ない口調で話題を変えた。

「お前の娘は頼もしいな」

 続く報告用の書面を確かめていたマティアスが不可解げに眉を顰めて動きを止めた。

「急に何を言い出すんです。いったい誰の話ですか?」

「ジュディットの養女だよ。昨日会ったんだ。彼女の子なら、お前にとってもそうだろう?」

 マティアスは話の半分にだけ納得した様子を見せてから、感情の捉えづらい暗褐色の瞳を僅かに曇らせた。

「残念ながら、俺はまだジュディットに認めてもらってはいないので」

「そうなのか?」

 机上の筆記具に伸ばしかけていた手を止め、驚いたようにエルネストが顔をあげる。「とてもそんな風には思えない口ぶりだったが――」

「彼女と何を話したんです?」

 はらりと落ちた長い前髪を鬱陶しそうに耳にかけ、それまでよりもわずかばかり早口になる。親しい者だけにしか気づけないであろうそわついた気配にエルネストは内心を綻ばせた。

「お前に叱られるようなことは話してない。再会の挨拶と世間話をしただけだ」

「そうですか。なら、いいですが。まったく、まだこちらに着いて間もないのに俺の案内も無しにいつの間に……」

 ぶつくさと私情を独り言つ声に堪えきれず笑いながらも、エルネストは文書を繰る手は止めない。次々文字を書き入れ終えると、間を置かずそれと引き換えに、新たに差し出されるものを受け取った。

「確証を掴めているところは時機を待たずに改める。今日の午後から直ちにだ。動ける者を揃えておいてくれ」

 首肯し、別室に控える部下に指示を出しに行くマティアスを見送って、エルネストはようやくどさりと椅子にからだを下ろした。窓に向けた背中にうららかな昼間の気配がじわりと沁み広がる。紙に触れる指の動きがふと鈍り、その拍子に前日の記憶が脳裏に濃く立ち昇った。

 拒絶の目。涙に濡れた。七年前からのことを思えば、初めて向けられる類のもので無し、珍しいこととも思わない。それであるのにこうしてふと胸中がわだかまるのは、己のどこかに赦されたいという甘えが潜んでいるせいではないかとエルネストは息を吐いた。振りきるように、急いた運びでふたたび筆を滑らせる。しばらく黙々と務めることに注力し、それが済むと投げ出すように荒々しく書面を机上に放った。マティアスが別室から戻ったのはちょうどその時だ。扉をあけた途端に目に入った光景に彼は驚いた顔をする。

「どうしました」

 エルネストは口をへの字に結んで彼をじっと見た。しかしマティアスは、見るからに干渉を拒むその面差しを意にも介さず、友人の顔をしてまっすぐに彼に歩み寄った。その手には新たな紙の綴りが用意されている。受け取るために無言で差し伸ばされたエルネストの手をちらりと見たうえで、マティアスはこれみよがしに書束を翻した。

「疲れているなら休憩にしたらどうです」

 マティアスは視線を横に流して促す。机の端で銀のトレイがいかにも忍耐強そうな鈍いかがやきを放っていた。その上には清潔な白いクロスがふんわりとかけられた陶器の丸皿と、揃いの茶器とが並べ置かれている。軽食がそこに運ばれてきてからは既にけっこうな時間が過ぎている。ポットの中の紅茶は、すっかりさめきってしまっているだろう。

「腹がすいてるわけじゃない」

 エルネストは億劫そうに立ち上がり、渋々といった様子でそちらに近づいた。布端を指で摘まんで、わずかばかり持ち上げる。が、彼は結局そこで手を止め口をひらいた。

「ジュディットから、耳にすることがあるかもしれない。だから話すが――」

 言い訳めいた前置きも、友人は黙って聞いていた。しかしエルネストは彼と視線は交わさない。何らか見るものがあるわけでもない自らの手元に、気難しげな表情をじっと落としつづけている。

「女の子に怪我をさせた。俺の不注意で驚かせて、転ばせたんだ。さっき話した昨日の――ジュディットに挨拶をしに行った帰りのことだ。年頃の子の、頬に血が滲んで……」

 息を継ぐ。布きれに触れていた手を引いて顔をあげると、正面にはちょうど、離れた向こうの壁に掛かった鏡があった。映し取られた己と目が合う。勢い、挑むような視線で前方を見据えた。

「詫びて、手助けしたかった。だが拒まれた。あげく、子どものように泣かせてしまって、」

 一瞬、唇を噛み、彼はようやく友に目を向ける。

「嫌いだったんだ、俺たち憲兵隊のことが。それだけだ。この町ではよくあることだろう?」

「なるほど、確かに。よくあることですね」

 にべもなく同意をされ、エルネストは苦々しい顔をした。

「なあ、俺は過ちの責任を果たすつもりでここに戻ってきた。だが、果たすと言って俺が何かを為したところで彼女の過去は変わらない。彼女が失ったものは戻らない」

 抱き上げたからだの驚くほどのたよりなさが今ふたたび鮮やかに思い出された。七年前、あの華奢な手足が今よりさらにちいさく、世界からただ守られているべき存在だった年頃に彼女はどれだけの恐怖を体験したのか、そしてその後、どれだけの想いを抱えて生きてきたのか。想像することは難くなかった。今やこの町ではそれは、ありふれている人生のひとつに過ぎないのだから。

「……そんなにかわいい女の子でしたか? 彼女に気に入られたかったと?」

 不意に、揶揄するような言葉を投げつけられてエルネストは目をまるくした。マティアスは平然とかまえ、じいっと探るような目つきをエルネストに向けている。

「な……馬鹿かお前、急に何を言い出してるんだ。俺はそういう話をしてるんじゃない!」

「おや、そうでしたか。私はてっきりそういう話かと」

「違う!」

 むきになったようにエルネストは声を荒げたが、すぐに我に返った様子で、決まり悪げに友人から顔を背けた。

「……違う。ただ、こちらへの感情など関係なしに、助けるべき相手、助けたくなる相手ってのは、いるだろう」

「それはまあ、そうでしょうね。で、貴方が助ける“べき”相手というのは?」

 不出来な学生を正答に導く教師のような物言いをされ、エルネストは悔しげにマティアスを睨みつけた。問い掛けに応えるよりも先に、足早に椅子に戻ると、勢いよく腰をおろす。力任せに預けられた大柄な体躯を受け止めて、家具は軋んだ音をたてた。負けじとエルネストは、摯実な声を低く響かせた。

「見失うものか。この町で暮らす人々だ」

 返答に迷いはなかった。マティアスは満足気に頷き、持っていた書類の束を改めてエルネストの眼前に突きつけた。

「たいへん結構。わかっているならさっさと仕事をしてください。感傷に浸って弱気になっている暇など我々には無いはずです」

 差し出された書束を毟るように奪い取る上官の態度に、マティアスは笑みを浮かべた。

「鬱憤は午後に晴らせばちょうどいい。頼りになる者ばかりが揃います。片を付けるのにさほどの時間は要さないでしょう」

「……なら晩飯はお前と揃って竜胆亭だ」

 手早く署名を書き入れると、エルネストはそれをマティアスに突き返しながら挑戦的に目を眇めた。マティアスは一瞬ぴくりとこめかみを震わせてから、いいでしょう、と泰然と応じた。

「できるものならどうぞそうしてください。貴方に決裁をもらうために留め置いていた案件があちらの山です。どうにも前任者が頼りにならなかったもので、火急の件以外は除けておいたんですよ。が、火急でないとはいっても今日まで決裁を待たせているんです、早いに越したことはありません。どうぞ我らが大隊長殿、今日中にすべての御確認を願います」

 不遜に上げた顎を使って、マティアスは執務机の端に積み上げられた紙挟みの山を指し示した。エルネストはその嵩高を確かめて、呆気にとられた顔をする。彼が五指をおおきく広げたとしても一度では掴みきれそうにない程の書類の塊が、そこにはあった。

「……覚えてろよ、マティアス。絶対にお前の隣から、お前の非道ぶりをジュディットに訴えてやる」

 エルネストは呻く。

「ですから、できるものならどうぞと言ったでしょう。ほら、現場に出向く時間もすぐに来るのですから、のんびりお喋りを楽しんでる暇なんてありませんよ」

 余裕綽々としたマティアスの言葉をはねのけるような勢いで、エルネストは山のてっぺんの書類を手荒く掴みあげた。

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