わるい狼、よい狼/méchant loup/gentil loup
06.
町の中心に位置する広場は、なだらかな傾斜を抱きながら円くひらかれている。放射状に整然と敷き詰められた敷石は端正な印象を湛え、外周に等間隔に据えられている背の高い街路灯は飾り気のない直線的なかたちをして、凛とした影をそこに添えていた。人気のない時刻であれば、ともすると寒々しく、うら寂しさばかりが強調されそうな造りをしている場所だが、その外縁にはぐるりと階段状の段差が巡り、陽射しのあたたかな時間には老若男女を問わず思い思いに憩う人々の姿が見られる。長いことひとつところで立ち話に耽る中年女性たちや、手をつなぎ、一歩ごとに足を止めるほどの歩みでゆっくりと過ぎてゆく老夫婦。段差に腰掛けている若い女の隣には、同じ年ごろの男が仰向けに寝そべっていて、女の腿に頭を載せてくつろいでいる。女は時折ふかく俯いて、落ちる長い髪の毛の先で男の顔をくすぐりながら睦言を囁きかけているような具合だった。
活発な子供たちが段差に飛び乗っては笑いころげ、飛び降りては歓声をあげることを繰り返している。はしゃいでいる彼らを見守る母親の腕に抱かれた赤ん坊は、うららかな空気を浴びてあくびをこぼす。彼らの背後で郵便配達夫が自転車を停め、壁面を吊り花籠で飾っている建物の扉をくぐっていった。そこはちいさなホテルで、道路にまでテーブルを出している。宿泊客らしい男が新聞を片手にコーヒーを啜っているその近くには屋台も出ていて、小麦粉やバターがほんのりと焦げたときのいい匂いをあたりに振り撒いている。
広場の頂点に位置する建物に背を向けて外縁の段差に腰掛けていたリュンヌは、周辺ののどかな光景をのんびりと眺めていたが、焼き菓子の出店を熱心に覗きこんでいる友人の後ろ姿に視線が行きつくとそこで目をとめた。前日とは打って変わって、長い巻き毛は手の込んだ編み込みをほどこされて品よくまとめ上げられている。整髪油を使って艶を出し、きっちりと撫でつけられた髪の流れは、陽光を反射しながらせせらぐ初夏の川面のようだ。くるぶしを隠す丈のとろりとした生地のドレスは淡藤色で、その色も、胸のしたで絞られたかたちも大人びてはいるが、ひとたび振り向けばそれを纏う当人ののびやかさはいつもと何ら変わらない。ちいさな紙袋に、そのかたちが歪になるほどいっぱいの焼き菓子を詰めてもらって、モニクはそれをリュンヌに向かって掲げて見せながらおおきく手を振った。
「おまけしてもらった!」
得意げな声を響かせながら駆け戻ってくると、モニクは袋のくちを座るリュンヌに向けて差し出した。懐かしい香ばしさがふわりと鼻をくすぐる。袋のなかには、赤ん坊のこぶしほどの膨らみに、ちいさく砕かれた氷の粒のような砂糖のかたまりがまぶされている焼き菓子が詰まっている。いまにも溢れてしまいそうな天辺のひとつをリュンヌが摘まみ取ると、モニクもその次のひとつに指を伸ばし、あーんとおおきなひとくちを頬張って顔をほころばせた。
「いけない、またジュディットにお行儀がわるいって叱られちゃう」
にんまりと頬をゆるめたまま、モニクは取ってつけたように言ってリュンヌの隣に腰をおろした。ん、と姿勢をただし、つんと澄ました顔をつくって、ちいさくすぼめた唇でふたくちめにかじりつく。が、それからすぐに「食べた気がしなあい」と空を仰いでおどけ、リュンヌを笑わせた。
そよ風がふたりの少女のあいだを吹き抜けてゆく。リュンヌの頬の傷は、点々と散るちいさなかさぶたになっていて、全体にうっすらと赤みは残っているものの前日ほどの痛々しさはなくなっていた。試すように、くじいた足先を宙に浮かせてゆっくりとまわしてみる。つよい痛みが走るようなことはなく、リュンヌはほっと息をついた。
「無理しちゃ絶対だめよ」
まあるく膨らませた頬をもごもごと動かしながら、念を押すようにモニクが言う。
「今日たのまれてるおつかいは、
指に残った砂糖の粒を、悪戯げに目をきらめかせてぺろりとひと舐めしてからモニクは立ちあがった。昼食どきが近づいているせいか、広場には行き交う人の数が増えつつある。ぞろぞろと連れ立って歩いているのは圧倒的に、軍服姿の憲兵隊員が多い。背後を振り返り、複雑な表情をみせるリュンヌの手をモニクがぐいと引いた。
「気にしなくてへいきよ」
ふたりが見遣る先には、田舎町の昼日中ののどかな営みとはどうにも馴染まない、重々しい印象の建物があった。しかくく切り出された薄灰色の石で外壁を覆われ、敷地の周りは、天に向かって先端を鋭く尖らせた黒い鉄柵で囲われている。広場に面した門扉はひときわ高くそびえ、一本一本の支柱も太く頑丈そうだ。黒々とした鋳鉄の色をいっそう濃く感じさせる、排他的な表情のつよいその門の両側には、軍帽を目深に被った衛兵が胸を張って立っている。そここそが、この町に置かれた憲兵隊の庁舎だった。
「ああいうの、こわく見えるけど、お酒が入ればあれもただの酔っぱらいにしかならないのよ」
微動だにせず前方を睨み据えている衛兵にちらりと視線を投げてから、モニクはリュンヌの耳元に顔を寄せて囁きかけた。
「お店を手伝うようになってよくわかったの。子供のころに聞かされたみたいにこわいことなんて、そんなにないわ、あのひとたち。酔っぱらったって、威張るやつなんかより、楽しく騒いだり歌ったりするひとのほうが多いしね」
「……そうなの?」
疑わしげな顔しか見せないリュンヌに、モニクは「そうよ」と自信たっぷりに即答する。手を繋いで歩き出しながら、彼女は滔々と話り続ける。
「まあ、中にはいやらしいじじいもいるけれど。それでも、気のいいひとのほうが多いわよ。酔って機嫌をよくして、お皿を運んでるだけのあたしにもチップをたくさんはずんでくれたりね。そうよ、今日のこのおやつだって、
半分ほどに嵩の減った紙袋を、モニクは自慢げに高く持ち上げて揺らしてみせた。その、途端。不意にふたりの視界に影が差して、ひょいと伸びてきた何者かの手によって紙袋が取り上げられた。
「ちょっとお!」
モニクはすぐさま唇を尖らせて、相手に向かい息巻く。遅れてそちらを見たリュンヌは、びくりと身を竦ませて慌ててモニクに身を寄せた。先ほどからしばしば見かける、数人の憲兵隊員のかたまりのひとつがふたりを囲んで足を止めていた。
「返してよ、あたしのよ!」
「シュケットか。懐かしいな。子供のころはよく食べた」
紙袋を取り上げた青年が、中を覗き込んで言った。声には笑みが含まれている。連れ合っていた男たちも彼を中心に、その焼き菓子にまつわる思い出を二言三言こぼした。リュンヌが視界に入れているのは彼らの脚ばかりだったが、その態度は昨日見知ったばかりのエルネストと比べるとずっとくだけているように感じられる。彼らはエルネストよりも若く、立場が低い者たちなのかもしれない。
「これが子うさぎちゃんたちの昼食なのかな? 可愛いね、お菓子でお腹が膨れる?」
ぞっとするほど甘ったるい物言いが投げかけられる。モニクがすぐさまつよい調子で食って掛かった。
「ばっかじゃないの?! そんなわけないでしょ!」
リュンヌは何かをできるはずもなく、ただ内心ではらはらするばかりでいた。
「竜胆亭の子か。勇ましいな」
「あまり怒ると美人が台無しだぞ」
「返してやれよ、ヴィクトル」
周りの男たちが面白がって囃す。モニクは彼らのことを一瞥してから、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて自分よりも背の高い青年が顔の高さに持ち上げていた菓子袋をついに自力で奪い返した。
「残念。ぼくはただ、砂糖人形みたいに愛らしい君たちの秘密を知りたかっただけなんだけどな。たとえば、このシュケットよりもよっぽど甘そうなそのほっぺたに口づけたら、小麦粉とバターと砂糖の味がするのかな、とか」
「し、な、い。するわけないでしょ、なに言ってんの? ねえちょっと、お兄さま方、笑って見てないでこのべらべらよく舌が回るうるさいのをはやくどっかに連れてってくださらない?」
ひややかな声。繰り広げられる、痴話喧嘩めいたやり取りを可笑しそうに眺めていた憲兵隊員たちはどっと沸いて、モニクと対峙していた仲間の肩を慰めるようにぽんと叩いた。
「相手が悪かったな。諦めろ。さっさと飯屋に行こうぜ」
「ヴィクトルが振られるなんて、明日は嵐になるんじゃないか?」
男たちはからからと笑いながら、あっさりと引き下がった。彼らの去り際、リュンヌはようやく顔をあげて、友人とやり合っていた青年の姿かたちを目に映した。金髪に碧眼。親友と同じ色彩は、髪も瞳も彼女と比べるとやや濃く、よりきらびやかで華々しかった。すこしの空気の動きにすらふわふわとそよぐ、やわらかな癖を持つ短髪で飾られた横顔は常人離れして整っている。言うなれば、御伽噺の理想の王子様像そのものだ。けれども、自らの美貌に対する自信に満ちた態度やいちいち気障ったらしい口ぶりは、リュンヌには刺激がつよ過ぎた。ほんのすれ違いほどの短い邂逅にもぐったりとくたびれた彼女が胸中で嘆息していると、前触れなく振り返った彼、ヴィクトルと、ばちりと目が合った。
「また会えるといいね、砂糖菓子の妖精さんたち」
隣を歩く同僚に小突かれながらも、ヴィクトルは悪びれずに片目を瞑り、あまつさえひらひらと手まで振ってくる。狼狽えて不自然に背中を向けたリュンヌに代わって、モニクがいーっと彼に歯を見せた。
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