05.

「どうなさったの、新任大隊長殿。ついさっき帰ったばかりじゃないの」

 隙間から、低くまろやかな声がのんびりとした調子で返る。

「それが……この店に用事があるという女の子を連れて来ている。怪我をしていて――」

「ジュディット……!」

 エルネストの言葉を遮ったリュンヌの声に、扉はすぐに呼応した。中途半端な位置で滞っていたものがぐいとおおきくひらかれる。

「まあ――リュンヌ」

 姿を見せたのは落ちついた美貌を持つ妙齢の女性だった。化粧けはなく、つややかな濃茶色の長い髪をうなじで無造作にひと括りにして、農夫が好むような素朴なシャツを纏っている。顔のまわりやくびすじには、幾束かの後れ毛がゆるくうねりながら自由気ままに伝い落ちている。

 渋い顔をして立ち尽くしているエルネストと、その腕にすっぽりおさまっているリュンヌを交互に見て彼女は目をまるくした。が、すぐにリュンヌの充血した瞳と頬の擦り傷に気がついて眉を顰めた。

「いやだ、痛そうね。いったいどうしたの」

 まさか、と問いたげな険しい目つきがエルネストを見上げる。彼は神妙な面持ちで口をひらいた。

「俺が驚かせたんだ。そのせいで彼女は転んで――」

「違うの、わたし自分で躓いて。そんなことよりジュディット、これ。ゾフィから頼まれたもの。ごめんなさい、落として駄目にしてしまったのがたくさんあって……」

 男に口を挟む隙を与えず、リュンヌは身をよじりながらジュディットに向けて籠を差し出してみせた。少女の行為の意図を理解して、エルネストはゆっくりとその場にしゃがみこむ。ようやく地に降ろされて、リュンヌは彼の腕から飛びだした。片足を引きずりながら、駆け込むようにジュディットの陰に回り込む。

「大袈裟ね、駄目ってほどじゃないわ。これくらいの傷ならいくらでも使いみちがあるわよ、大丈夫。それより……足も痛めたの?」

 ジュディットは、リュンヌの両腕から果物の積まれた籠を受け取りながら扉の外を振り返り、少女にではなくエルネストにそう訊ねた。

「そうなんだ。腫れている様子はないんだが」

 ジュディットに促されて彼は店内に入る。リュンヌは戸惑った様子で、エルネストが足を進めたのと同じ距離だけそそくさとあとじさった。

「連れて帰って医師に診せようと思ったんだが……」

「連れ帰るって、あの子を? 貴方たちのところへ?」

「ああ」

「嫌がったでしょ」

「ああ……まあな。それで――」

 ふたりの会話に居心地わるげな顔をして、リュンヌはそろりと音をたてずに彼らと距離をとり始めた。店の奥へ奥へとじわじわ姿を隠してゆく。だが不意に、階上の廊下がせわしなく軋む音があたりに鳴り響いて、急いた足音をたてながら階段を下る存在が彼女の名前をそこらじゅうに轟かせた。

「リュンヌが来てるのお?」

 階段の半ばで黒い鋳鉄の手すりを両手で掴み、軽業師の如く勢いで上半身をぐんと乗り出して顔を覗かせたのはビスクドールのような容貌の少女だった。つやめくしろい膚に薔薇色の頬、晴天を映す湖水色のまるい瞳にそれをふちどる白金色の濃密な茂み。蜂蜜色の長い巻き毛が奔放に、あちらこちらにくるんくるんと弾んでいる。

「リュンヌぅ!」

 呼ばわれた彼女が振り仰いで、互いの姿を認めあうことが叶うと、白皙の少女は長いスカートの裾をがばりとたくしあげた。

「ちょっと、モニク。行儀がわるいわ」

 呆れ顔のジュディットの小言などまるで意に介さず、彼女は一目散にきざはしを駆け下る。長旅から戻った主人を迎える忠犬もかくやというほどの勢いでモニクはリュンヌに取りつくと、彼女の両手をとり、ひしとつよく握り締めた。

「随分ひさしぶりに会う気がする。元気でいた?」

 熱心に身を乗り出して、彼女はきらきらとかがやく笑顔をリュンヌに寄せる。しかし頬の創痕を見留めると途端に表情を曇らせた。

「どうしたのこの怪我。ひょっとして、あそこの目つきのわるいでっかいのに蹴っ飛ばされた?」

 モニクは眉を吊り上げ、その場から横目でエルネストを睨みつけた。

「そうじゃなくて……」

「まあ、そんなところだ」

 困惑してモニクを止めようとするリュンヌの言葉を、今度はエルネストが遮った。あっさりと答えてのけた男に対して、ひどおい、とモニクが気色ばむ。ふたりを交互に見やってジュディットは大仰なため息を吐いた。ほんとうのことだ、と主張したげな顔をつくるエルネストと、かたく両手を繋ぎ合っているままの少女たちとのあいだに彼女は割って入る。

「ねえ、この子の手当てはうちでするわ。あなたは今はいったん戻って……彼女の怪我の度合いが思ったよりもひどいだとか、何か困ったことがもしもあったらそのときは私からあなたに連絡する。それでいいんじゃないかしら」

「そうね、そうよ! それがいいわ」

 状況をわかっているのかいないのか、二つ返事で賛成したのはモニクだ。そのうえ、言うが早いかリュンヌを近くの椅子に座らせて、次にはすばやく踵を返す。

「あたし、薬を取ってくるから!」

 男の返答など待ちもせずに、少女はぱたぱたと駆け出す。エルネストはその後ろ姿を見送ると、不承不承諦めたように頷くしかなかった。

「お見送りするわ」

 ジュディットは彼の横を過ぎ、先に立って店の出入り口へと向かった。扉がひらかれ、外光が室内に射し込む。エルネストは眩しげに目をほそめた。彼はしばらく無言でその場に立ち尽くし――意を決したように振り向き、扉には向かわず早足で、リュンヌに歩み寄った。少女の真向かいに、男は立て膝をつく。黒い外套の裾がばさりと音をたてて床を叩いた。

 リュンヌはぎょっとして、全身を緊張させた。浅くだけ腰掛けていたからだを限界まで退き、見上げてくる瞳から慌てて顔をそむける。

「……君の名前を呼んでも?」

 敬意をのせた言葉遣いで彼は恭しく尋ねたが、リュンヌはエルネストの方をちらりと見もせず、反射的に首を横に振っていた。彼の態度はとても立派で堂々としていて、それはひょっとすると何らかの作法に則ったものであるのかもしれないとも思ったが、もしもそうだったとしてもそれは自分にとっては未知の世界のものでしかなく、たとえ礼を欠こうが、そうしたことにまで冷静に考えを巡らせて応えることなど今はとてもできなかった。彼はしかしそうして頑ななふるまいを見せられても顔色を変えることもなく、そうか、とただ穏やかな声で彼女の拒絶を受け容れた。

「だが、このことだけは了承して欲しい。どんな些細なことでもいい、何かあったら直ぐに彼女に伝えて、俺に知らせを」

 明後日の方向に視線を泳がせながら、リュンヌは唇を噛んで黙りこくっていた。けれども今度は彼も強情で、リュンヌが是を表さないままにはそこから決して退かない意志を滲ませていた。根負けしたのはリュンヌのほうで、そっぽを向きながらもかすかに、ほんのかすかにだけ顎をひくことで、ただいちどだけ頷く。エルネストは満足したようで、そちらを見ずともほっとしたように息を衝いた気配がリュンヌには伝わった。

「よかった。ありがとう」

 男は立ち上がる。視界の端に捉えた軍靴の先が向こうに向けられてしまう。彼の一歩はおおきいから、きっとすぐに行ってしまう――ここから離れてしまう。リュンヌはためらいがちに唇をほどき、かすかに喉をふるわせる。

「あの……」

 エルネストの足の運びがぴたりと止まる。そのために発した声ではあったけれども、ほんのちいさな呼び声を拾われたことにリュンヌはどきりとする。顔をあげることはできない。膝に揃えた両手の指さきが、スカートの生地をきつくきつく握り締める。

「あの……、あ、あの……その……」

 声は、尻すぼみになり。結局は、ごめんなさい、と、俯いたままそれだけこぼすのが精一杯だった。違う、と咄嗟に思ったが、エルネストは数秒の沈黙を漂わせたあとで、リュンヌにだけ届くほどのささやかな声量で、君は何も気にしなくていい、と当然のように応じた。

 遠ざかる足音と衣擦れ。扉の蝶番が軋み、挨拶の声が静かに交わされる。立ち去る彼にまつわるすべての物音を、日に照らされない暗い古木の床に見つけた引っ掻き傷をただひたすらに目に映しながらリュンヌは聞いていた。








「しみる? へいき? 痛かったら言ってね、やさしくするから」

 リュンヌと向かい合わせに置いた椅子に腰掛けたモニクは、消毒薬を浸したガーゼを摘まみながら身を乗り出して、リュンヌの頬に控えめに触れた。

「ん……へいき。十分よ。……それに、少しくらい痛いほうがわたしにはいいのかも」

「やだ、へんなこと言わないでよ。もう……うんとそっとするからね」

 モニクはかたちのよい眉毛をぐぐぐとちからづよく歪ませて、難しい顔をした。滲んだ血の痕を、慎重にそろそろと拭ってゆく。それを終えると、傍らの卓上に雑然と並べていた薬瓶をひとつひとつ目の高さまで掲げては、ラベルに書かれた文字を確かめ始めた。揃いの茶色の遮光瓶は、どれもハーブの浸出液で満たされている。選んだ幾つかのそれらを浅い皿に注いで混ぜ合わせたところに、モニクはまっさらなガーゼをそうっと浸した。

「……さっきの、あのひと」

 リュンヌがぽつりとこぼす。モニクは自分の手元に真剣に向かっていて、花と葉の香りの染みたガーゼを丁寧に丁寧に折りたたんでいる。

「うん、うん。大隊長殿ね」

「……そう。大隊長って、いちばんえらいひとね」

「そうね、そう……この町にいる憲兵隊員のなかではね」

 皿から引き上げたガーゼを、水分が滴らないほどに絞ってから、モニクはリュンヌの頬にぴとりとあてる。押さえててね。そう念押ししてから次には、リュンヌの片足を自分の膝の上に持ち上げる。靴紐を抜き、靴を、靴下を脱がせてゆくモニクの手の動きに重なって、ほんの数刻前の男の動作が思い出される。胸がざわついて、リュンヌはいそいで脳裏からその記憶を追い出そうとした。

「あのひとたち、きらいなんだもの……みんなきらいなの。いちばんえらいひとなら、いちばんいやで、いちばんきらい……」

 幼けない口ぶりは、過去の自分から向けられる呪縛の言葉めいている。モニクはそれを責めはしない。うんうん、そうだよね、と頷きながら、リュンヌの足首に香りのよい精油をやさしい手つきで塗りこんでゆく。

「わかるわあ。あのひと、目つきも怖いしね。強面っていうの? でっかいし。いかついし。リュンヌの苦手なタイプよね」

 うん、うん。モニクはもっともらしい頷きを繰り返しながら、足首の手当てを終える。頬のガーゼを剥がすようにリュンヌに促して、露わになったそこから赤みがひいていることを見てとると、モニクは気弱な幼なじみににこっと笑いかけてみせた。

「だいじょうぶ、怪我はそんなにひどくなさそうよ。足だって、腫れてないし、動かせるでしょ? だからおっかない大隊長殿とは、きっともう会わなくて済むわ」

「そう……」

 安堵できることのはずなのに、気のない返事をため息のようにこぼすことしか、何故だかできなかった。胸が痛い。モニクは鼻歌まじりに機嫌よく、リュンヌの頬に軟膏をうすく伸ばしている。

「でも……」

 ぽつりとこぼされたリュンヌの呟きに、モニクは手をとめる。きょとんとしながら首を傾げて、先を待つ。

「でも、ほんとうは…………」

 助けを求めるようなまなざしで、リュンヌはモニクの瞳をしばらく見つめた。が、やがて視線を泳がせて、諦めたようにまぶたをひっそり伏せてしまった。声は途切れ、それ以上の想いが言葉にのせられることはなかった。リュンヌはとくとくと静かに脈打つ自らの心臓に、こころを傾ける。そのたびに、擦りむいた頬がひりひりと痛んだ。

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