04.
「君の心情は理解するが、どうか今だけは信頼してくれないか。俺の行いが原因で、君に怪我を負わせたんだ。償うために、俺に君を、助けさせて欲しい。無礼なことはしないと誓う」
エルネストはリュンヌの足先を注視していた。不自然に庇うような動きを見せていた片方を、両掌で包むように捧げ持つ。リュンヌはびくりと全身をこわばらせたが、彼の行いを拒むようなことはせず、緊張しながらもおとなしくエルネストに従っていた。
「……痛むのは、こちらの足か?」
少女がおずおずと頷いたことを確かめてから、エルネストは彼女のブーツに触れ、丁寧に靴紐をほどいていった。甲を覆うくたびれた革をひらいて、リュンヌの足をそこから抜き出す。地についた自らの片膝のうえにちいさな踵をのせると、彼はそこでひと呼吸を置いた。
「嫌だと思うが、すぐに済ませる。我慢してくれ」
返事を待たずに、エルネストはリュンヌの靴下をするすると引き下ろしてそれを脱がせた。日の下にさらされたなまじろい膚が、羞じらいにかぼそくふるえる。リュンヌは相手に知られぬように、きつく息をつめた。目の前の男はそのいずれにも気がついた素振りは見せず、リュンヌは密かに安堵した。
硬い皮膚を持つ指先が。体温の高い、ひろい掌が。少女の足首の曲線を、踵のまるみを、かたちを確かめながらゆっくりと這いすすむ。くるぶしをふちどるくぼみを、或いは甲にはしる腱のあいだを、探るようにたどられてもリュンヌのなかに嫌悪感は芽生えなかった。それどころか、男の指の運びは、心地よささえ呼び寄せるもののように感じられる。痛みが遠のくかわりに、胸が騒ぐ。耳が熱い。リュンヌは言葉を失って、慰めるように自らにやさしく触れるエルネストの手つきに目を奪われていた。
「ひどく腫れているところはないな」
エルネストはほっとしたように息を吐くと、おとなしく差し出されたままの少女のつまさきに靴下をゆるくかぶせた。リュンヌがそそくさとそれを引き上げると、追ってブーツを纏わせる。「よかった。不幸中の幸いだ」
「あ……あの……」
ため息のように漏らされたリュンヌの呼び声に、彼は俯かせていた顔をあげた。しかしふたりの目が合うと、リュンヌはその先を言いよどみ、結局は口を噤んで睫毛をおろしてしまった。エルネストは暫く黙って、彼女の次の行いを待っていたが、そのうちに視線をわずかにずらして眉を顰めた。
「頬にも傷が」
引き寄せられるように。リュンヌの頬ちかくに、男の手がつと伸ばされる。いつのまにかスカートの膝のあたりをぎゅっと握り締めていたリュンヌの十指に、いっそうの力が込められた。エルネストの指先は、少女の頬のかたちに添うように撫でおろす仕草を空中で微かにだけみせたあと――ぐっと握り締められて、離れていった。
「すこし擦り剥いているだけだと思いたいが。血が滲んでいるところがある。……女の子の顔に、申し訳のたたないことをしてしまったな」
エルネストはリュンヌの顔から目をそらし、しばらく考え込む様子を見せた後で、傍らに置かれていた籠を取り上げた。
「しっかり持っているんだ」
リュンヌの胸元に、彼はぐいとそれを押し当てる。意図がわからないまま、リュンヌがそれに両腕をぐるりとまわして抱え込むと、エルネストはやにわに身を乗り出して彼女との距離を詰めた。突然のことにおののいて、リュンヌは反射的に手足の先までこわばらせる。が、そうこうしているうちに彼女のからだは宙に浮いた。
「えっ……、え?」
背中と膝裏を逞しい感触に支えられている。未知の視界の高さに、くらりと目眩がする。
「待って、待って、あの……」
体熱がつたわるほどにからだが密着しているうえ、顔もちかい。家族でもない異性とこれほどの距離で接した経験などないリュンヌは、視線をどこに定めてよいのかわからないのは勿論のこと、一挙手一投足まで、どう振る舞えばよいのかまるで見当がつかない。それに、
「お、降ろしてください。自分で歩けます」
「やめておけ。無理をするのは賢明じゃない。今より痛めてしまうことがあってはよくない」
「だって、でも、どこに……」
エルネストは既に歩き出していた。悠然とした足取りは、情けない声でとはいえ必死に訴えるリュンヌの抗議をまるで意に介していない。彼は、リュンヌにとっては元来た道を、戻り始めている。訪ねるはずだったおつかい先、ジュディットの店とは真逆の方向だ。エルネストのがっしりとした首すじ、短く整えられた銀髪の襟足を越して、リュンヌは自分が往くはずだった小径を見やる。
「医者に診せる。庁舎に戻れば軍医がいる」
「だめ、そんなの要りません。わたし、おつかいの途中なんです。仕事なの。頼まれて……だから行かないと、」
あっちに、と、伸び上がろうとした少女の上体をエルネストは引き戻し、当然のように一層抱き寄せた。
「危ないな」
渋い表情で押しつけられるのは、大嫌いな黒い軍装だ。ちらりとも見たいと望んだことのない、襟章や、
「いやなことはしないって、言ったのに」
いきなり涙が堰を切る。ぱたぱたぱたと先を競っておちる大粒の雫は、両腕で荷を抱えているせいで拭うこともできない。エルネストはぎょっとした顔をして、慌ててその場に膝をついた。
「降りるか?」彼は尋ねる。「すまない、だが、できれば君に歩かせたくないんだ。怪我が心配で……」
声は真摯で、いたわりと誠意に満ちていた。しかしそれが却ってリュンヌを苦しめる。まごころが、煩わしかった。憲兵隊は嫌いなのに。わるいひとたちだとおもっていたいのに。
ちがう。リュンヌはすんすんと鼻を鳴らして不規則にしゃくりあげながら、ゆるく首を横に振った。この涙は、自分に向けられた憤りだ。自分がどれだけ身勝手なことを望んでいるか。まるで非のない相手を前にして、その善意を素直に受けとることもできずに。
エルネストはリュンヌのからだを腿に座らせ、その足先を地面に触れさせながら、辛抱強く彼女が泣きやむのを待っていた。すすり泣きが自然とおさまるまで、思う存分泣かせてから、落ち着いた頃合いを見計らって立ち上がる。リュンヌは抱いて運ばれることにはもう異を唱えず、おとなしく黙し、男の肩にもたれてぼんやりと風景を眺めていた。エルネストはふたりがすれ違った最初の場所、小径の入り口へともどる。そこで彼は静かな声でリュンヌに訊ねた。
「君が向かうはずだった先をおしえてくれ」
リュンヌは顔をあげてエルネストを見た。彼はゆるくうねって登るほそい路の先に目を向けていた。
「送り届ける。怪我や医者のことはその後で相談させて欲しい」
進むべき道すじをちいさな声でリュンヌが告げると、端正な横顔は少女を返り見ることのないまま歩き出した。
建物のつらなる通りだったが、あたりに人の気配はなく静かだった。登り道をゆっくりと踏みしめる靴音と、無邪気に追いかけあっているような鳥の囀りだけが響いている。
「君の意志を尊重しなかったことを謝る」
エルネストが前方を見据えたままぽつりとこぼした。
「動揺して、気が急いていたんだ」
リュンヌはひっそりと首を横に振った。それが彼に伝わるかはわからなかったが、彼女の泣き疲れて重たい頭では、今は言葉で何かを表すことは難しかった。エルネストもそれ以上の何かをリュンヌに語りかけることはしないまま、ふたりはじきに目的の場所につづく角を折れた。
「もうすぐ看板が……」
「店か。名は?」
「竜胆と、眠る狼……」
エルネストは一瞬動きを止めて、リュンヌの顔をまじまじと見た。何かを言いたげな表情をするが、すぐにそれを呑み込んだ様子で、そうか、とだけ短く返しふたたび黙々と歩み出す。
「……知っている? あなたも行く?」
「食事だけならな」
横顔に尋ねると、素っ気なく即答された。どこかむっとしたようでもある。リュンヌは暫くその旨意がわからず、急に変わった彼の態度に驚くばかりでいたが、やがて理由に思い至って顔を赤らめた。ジュディットの店は憲兵隊員相手の商売をしている。一階こそ上質な酒と食事を提供する
「親しい友人に教えられた店だ。そいつの馴染みの女性が切り盛りしていると。何年も前のことになるが俺も彼女と面識があるし、前任も懇意にしていたというからついさっき挨拶をしてきた。それだけだ。……で、その帰りに、君を転倒させた」
彼が語る間に、あでやかな飴色のつやを持つ扉のまえにふたりはたどりついた。頭上では、ほそい鎖に吊りさげられた木製の看板が風の名残にかすかに揺れている。板に彫られているのは三輪の竜胆と、そこに鼻先を潜らせてくたりと伏せている狼の姿だ。彩色された竜胆の紫、狼の黒は、だいぶ褪色してやさしげな印象になっている。狼はまぶたを閉じきっていて、獰猛な雰囲気は微塵もない。
エルネストはリュンヌを抱いたまま、軍靴のつまさきで遠慮がちに扉を蹴った。拳で叩き鳴らすのと、さして変わらない聞こえ方になるように。
「――ジュディット!」
よく張る声に、リュンヌの耳にも馴染み深い名を彼はなめらかに乗せる。ほどなくして、扉は内側からほそくひらかれた。
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