03.

 手をかけて補修を施された新道と比べると、旧道の路面はいびつで危なっかしい。詰めこまれるように置かれた敷石が押し合って思わぬところに段差や隆起を生んでいたりということがあるし、新道との接ぎめには端から端まで亀裂が渡り、ちょっとした階段状になっている場所があったりする。無論リュンヌはそうしたことを充分に心得ているから、常に倣って路面にきちんと気を配りながら旧道に入ったつもりでいた。けれどもその日は、物思いに沈みこみがちになっている意識を振りきりたいあまり、普段よりも歩みに力がはいってしまっていたのかもしれない。

 踏み越えようとした敷石の出っ張りに、靴底を削がれる感覚が足裏に伝わった一瞬があった。リュンヌは慌てて、落としかけていたその足を引き上げる。おのずと均衡を欠いたからだは腕にかけた荷のおもみに振られて、不自然によじれた。ただしく地におろし直される筈だった踵はそのままくうを踏み、かくんと沈みかけた背が壁に触れる。籠の縁ちかくの浅い場所に積まれていた果実がひとつふたつ踊るように跳ねて、リュンヌは焦った。いそいで顔をふかく俯かせ、地面の凹凸を懸命に見つめて足を運ぼうとする。が、その意思は追いつかず、背中はずるりと壁を這い落ちた。つきりと、足首あたりにいやな痛みが走る。リュンヌは思わず目を瞑り、息をのんで転倒を覚悟した。

 けれども、次の刹那。ぐ――と、唐突なつよい力で何者かに上腕を掴まれて、少女のからだはいともかるがると引き上げられた。壁面に触れたまますべっていた背中は一旦そこから剥がされた後で、とん、とやわらかく預け直される。何が起こったのかわからずに、リュンヌはただ目をぱちくりさせて下方を見つめていた。いちどは諦めていた己の足裏は、平らかに地を踏んでいる。目の届く限りの石畳のうえにたいせつな商いの品がころがっているようなこともない。状況を理解してようやく、リュンヌの胸につかえていた息は自然とゆっくり吐き出された。それから初めて彼女は、自分の身に起きたことをたしかめようとして――ふたたび息をのんだ。

「大丈夫だったか?」

 問う声は男のもので、低く響く耳障りのよい音をしていた。口調は十分に控えめで、礼儀正しいものである筈なのに、とてもそうは受け取れずにリュンヌは顔を青褪めさせた。黒革の手袋に包まれた指先。漆黒の袖を纏った腕。数瞬まえに感じたささやかな安堵は、いまだ自らの上腕に添えられているそれらを目の端に捉えただけで既に消え失せていた。

「は……離し、て」

 声がふるえる。音になっているかも怪しかった。肩を竦め、身を縮こまらせて、その腕から逃れようともがく。怯えに心臓がばくばくと拍動している。

「ん?」

 案の定、少女の弱々しい言葉は相手には届いていないようだった。今以て離されずにいる男の手は、厚意からリュンヌを支え続けてくれているだけなのかもしれない。けれども、そんな風に冷静に受け止めることができるのならば、きっとそもそもここまでの拒絶を感じたりはしないのだ。理屈ではなかった。差し伸べられた手助けよりも、ただその黒い色――それが怖くて、嫌で、近づきたくなくて。その一心だった。リュンヌは背をまるめ、肘にかけた籠を胸に抱えこむ仕草で、触れている腕を振り解こうとする。

「大丈夫です。だから、あの……離して……っ」

 精いっぱい強引に、身をよじる。俯いたままひたすらに縮こまり、男の姿からは懸命に目を背けていたが、それでも相手が困惑した気配は伝わってきた。添え続けられていた指のちからが、緩まる。勢いまかせにその手を振り切ると、ようやく離れることが叶ってリュンヌは安堵した。しかし、そうして黒衣の腕から逃れられたことにほっとできたのはほんの束の間で――靴の内側に鋭く響いた疼痛に、少女は無茶な体勢を保ちきれず、ほそい路地の対面に向かって弾かれるように倒れこんだ。

「――おい!」

 ひどく慌てた様子の声と、悔恨に満ちた舌打ちが聞こえた。リュンヌのからだは石積みの壁の凹凸につよく打ちつけられていた。おおきな籠を両腕に抱えこんでいたおかげで咄嗟にからだを庇うこともできずに、硬い壁面に横顔がまともにぶつかった。全身が軋み、目眩と熱だけを鮮烈に感じる。ざり、と皮膚が擦れてひりつく。リュンヌは壁にからだを寄りかからせたまま、ゆっくりとその場にくず折れた。

 へたり込んだリュンヌの周囲には、だいじなおつかいものであった色とりどりの果物が無残に散らばっていた。しっかりと抱え込んでいたつもりの籠はとっくに腕から抜け落ちて、随分と離れた場所にころがっている。すべてがあっという間の出来事だった。現実感はうすく、目に映る結果にリュンヌはただ茫然とする。

 手を伸ばせば届くところに落ちたひとつは、裂けてしまった薄い果皮からぐしゃりと潰れた果肉が覗いていた。そのちかくでは別のひとつが、道の端を常に湿らせている汚泥まじりの水にまみれてしまっている。リュンヌは放心した表情で、そのふたつをそうっと拾いあげては膝に運んだ。見下ろした色も輪郭も、みるまに滲んで揺らいでいく。涙がつぎつぎ溢れてくるのは、からだのあちこちに感じる痛みのせいではない。幼稚な強情を堪えきれなかった自分を情けなく思うからだった。こめかみに、頬に、肩に、足首に。痛みはつよく燻りつづけているが、そんなものはきっと自分のしでかした失態への罰でしかないと思う。

「悪かった」

 ふと、すぐ間近で声がして、リュンヌはびくりを身を竦めた。今もまだ、怖かったが、頑なに拒絶を表し続けるほどの気概は既に無かった。恐る恐るそちらに目を向ける。黒衣の軍服に身を包んだ立派な体格の男が、すぐ傍らに膝をついていた。

「すまない。脅かすつもりはなかったんだ」

 軍帽の鍔を押し上げ、その表情を露わにしながら彼は告げた。こちらの瞳を捉えようと向けられた虹彩の色に、リュンヌは一瞬どきりとした。それは澄んだ紺青をしていた。けれどもそれは、ただの色だ――自分にそう言い聞かせ、何かを答える代わりにリュンヌは急いで顔を背けた。膝に載せた果実を片掌で抱え込みながら、黙って立ち上がろうとする。

 が、腰を浮かせた途端にからだのあちこちに無視できない痛みが現れ、リュンヌはよろめいた。壁に手をついて、己の身をなんとか支える。いちどは拾い上げた果実が取りこぼされて、ふたたび地に落ちた。耐えきれずに、ちいさな嗚咽が唇を割る。ほとりと落ちた涙の一滴が地面に暗い染みをつくる。

「無理をするな」

 男が痛ましげな声で制したが、リュンヌは頑なに首を横に振った。その強情さを見かねたか、やがて男がすくと立ち上がった。彼は足早に、ほんの数歩でころがっていた籠にたどりつくとそれを拾い上げ、点々と散らばる果実をそのまま腰を屈めて集め始めた。

「やめてください。自分でできます」

 リュンヌは驚き、咄嗟に声を張りあげていた。彼女にしては珍しいことだった。

「わたしの仕事なの。自分でやります」

「気にするな。俺のせいだ」

 訴えに耳を貸そうともせず、男はぴしゃりと言い放った。黙々と手を動かしつづけ、その間、振り向くことすらしない。籠はまたたくまに満たされてゆく。ひとつ、またひとつと、元来は愛らしいまるみが掬いあげられるたびに、それらに似つかわしくない威圧的な漆黒の外套の裾がはためく。リュンヌの奥底に、正体の掴めないうら暗いもどかしさがひろがる。

「やめて。ねえ、わたしなんにもして欲しくない」

 声がこわばる。波だつものを抑えることができない。

「あなたに、親切にされたくなんてない……」

 こらえた嗚咽に呑み込まれて、言葉は不明瞭に掠れて終わった。届くはずなどないほどの、ちいさくか弱い叫びだった。しかしそのとき男は初めて手を止め――とは言っても、そのとき拾い上げたものが最後のひとつでもあったようだが――ゆっくりと、顔をあげて、少女を見た。視線が交錯する。いかにも軍人のものらしい、鋭い目だった。リュンヌは萎縮し、怯え、却って瞳をそらすことができなくなった。深い紺色に、飲まれそうになる。きれいな色だと、思いもよらず浮かんだ感慨を慌てて打ち消す。

 男はいたいけな少女をその目で縫い留めたまま、堂々とした歩きぶりで彼女の元へ立ち戻った。顔色を失っているリュンヌの正面に立て膝をつき、わざわざ目線を近づけてから、ひととおり満たし直された籠をふたりの脇に置く。

「悪かった」

 真摯な声で。男は謝罪の言葉を厭わず繰り返した。

「君は、嫌いなんだな。俺たちのことが」

 男はようやく目を伏せた――何事かに深く納得した表情で。彼はそのまま手首を口元に運ぶと、手袋の履き口に歯をたてた。黒革を捲りあげ、次には指先に噛みついて、そこから手を抜く。もう一方の手袋は、自由になった手で引き剥がすと、それらを纏めて上着の内側に押し込んだ。素膚があらわになった手を、彼は少女に向けて伸ばす。彼の掌はリュンヌの肩に遠慮がちに触れて、その場に腰をおろすよう促す動きをする。

「俺はエルネスト・オラール。二日前にこの町に着任した。これからこの町の憲兵隊の、大隊長として働く者だ。決して怪しい輩じゃない」

 エルネストはリュンヌの目を見ないまま、ひといきでそう告げた。名乗られた身分のあまりの確かさに、リュンヌは呆気にとられた顔をして、押されるままにその場にぺたりと座り込んだ。

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