02.



 編み上げ靴の踵が規則的に石畳を打つ音が小気味よくあたりに響く。質素な群青色のワンピースの裾がそよぐ風にかろやかにひるがえり、肩にのせて前に流された髪の房はふわふわとはずんでいた。ゆるやかな傾斜に沿ったのぼり道を、慣れた足どりでリュンヌはすすむ。たかい青空には子ひつじのような雲がぷかぷかと浮かんでいた。

 リュンヌが暮らす町は国境に沿った山岳地帯に続く場所にある。山の中腹のなだらかな地形を利用して広がっている、ふるくから在る町だ。急勾配のほそく入り組んだ路地も多いが、リュンヌが子どもの頃に比べればそういった道はだいぶ減った。正確には七年前――リュンヌが十歳の冬を境にして、この町の様相はずいぶんと変化した。

 かつては何の変哲もない、のどかな田舎町だった。すくなくともリュンヌは子ども心にそうおもっていた。国の歴史のなかで交通の要衝としておおきく栄えた土地はここからずっと路をたどった別の場所にあり、先祖の代からこの町に生きてきている大人たちの経験としてきな臭い物語を聞かされた記憶もない。とおい山並みを臨み、森と開拓された草地にかこまれ、先人が根気よく敷き詰めてきた石畳を中心にこぢんまりと、老いも若きもおだやかな暮らしを繰り返す。これからも、このさきも、ここは永劫そういうところなのだと、幼いながらに漠然と信じることができるような場所だった。

 町が持っていたそんな空気を一変させたのは、ある日を境に現れた黒衣の男たちだ。日一日とその数を増やしていった彼らは憲兵さんという軍人なのだと大人たちから教えられた。遠い首都から遙か 、わるい人間をさがしに来たのだという。

 彼らと目を合わせてはいけないよ。大人たちからはそう言い含められた。怪しまれでもしたらたいへん、疑われたらどこかへ連れられていってしまい、ひどい時にはそれきり戻ってこられないのだそうだ。けれどリュンヌたち子どもは、彼らとは目の合わせようもなかった。街角で見かける彼らは自分たちよりもうんと背が高く、いつでも目深に被った軍帽の奥に鋭い眼光を潜めていたし、近くを過ぎ行く彼らは常に不遜に顎をあげていて、子どもなどには見向きもしなかった。或いは彼らの視線を感じるときがあっても、それは物陰や高台から自分たちの背中に対してで――子どもたちがその瞳を見つけることは容易なことではなかったのだ。

 一体その頃どんな「わるいひと」が、どれだけの数この町にいたのか。たしかなことは当時の大人たちにも仔細には知らされないまま数か月が過ぎていった。今ははや、彼らの姿を見かけると誰もが目を逸らし、口をつぐんで早足になるようになっていた。複数の人間が一堂に会するとすぐに目をつけられるものだから、一日の労働の終わりに外で食事や酒を楽しむ男たちの数は減り、女たちもそれに倣って、日中だろうが無用の外出ならば避けるようになる。窮屈で不慣れな毎日に大人たちは疲弊と不信をひたすら積もらせ、沈鬱な町の空気に子どもらの心もすっかり萎縮していた。

 そうして爆ぜたものは、どこかにいるのだと噂されていたわるい人間たちの思惑だったのか、善良な町の人らが募らせた不平や不満だったのか。故意でないなら単なる不運か、深夜、町の一角からあがった火の手はかわいた風にのり、またたくまに燃え広がった。住み慣れた家屋、親や祖父母から引き継いできた家財、かけがえのない家族――町のおおくの住民のそうしたものをいともたやすく飲み込んだその晩の大火は、それなりの長さを誇る町の歴史のなかでも比類ない悲劇となった。犠牲となった者は町の住人ばかりでなく、なかには憲兵隊員も含まれていたという。そして、異質であった存在は日常のものになる。その出来事を理由として、それまでは一時的な逗留をしているに過ぎなかった憲兵隊がこの町に本格的に拠点を構えることになった。



 見慣れない光景を持つみちに差し掛かり、リュンヌの歩みがわずかに鈍った。行く先にのびる通りの両側には、真新しい近代的な建物が並んでいる。まだほとんど汚れのない塗り壁のしろさは昼の日射しにまぶしいほどで、足下の石畳は旧道よりもずっとたいらに、整然と敷き詰められている。むかしこのあたりにあった街並みはどんなものであったろうかと、記憶が無意識に過去へと遡りかけて、リュンヌは慌ててその考えを追いはらった。思い出してみたところでそれはくるしさを伴う郷愁を次々呼び起こすだけとわかっていたし、向かう先に連れだって道を横ぎってゆく人影が見えたからだ。漆黒の外套がはためく様がまなうらに濃く残る。

 現在のこのあたりは憲兵隊の、そこそこの身分を持つ者たちが住まう地区になっている。リュンヌのような町の庶民の往来はさほどおおくはないはずで、悪目立ちをして妙な勘ぐりでもされるのは御免だった。おつかいさきのジュディットの店まではもうあとすこし。彼女は憲兵隊員相手の商売をやっているのでこうしたところを抜けていくのが近道なのはしかたがない。彼らと目を合わさなければいいだけ、姿をみないようにすればいいだけのことと自分に言い聞かせながら、リュンヌは肘にかけたおもたい籠をぐっと体に寄せなおした。

 みずからの靴のつまさきだけをみつめて、リュンヌは黙々と坂道をのぼりはじめた。忘れたくても忘れられないあの火難の後、憲兵隊の隊員たちは国の軍人らしく、町の再建に尽力してくれた。この七年、おおくの大人たちからそうした話を聞かされてきもしたし、リュンヌだって自身の目に、その顔や立派な軍服が煤まみれになるのも厭わず延々焼け野の瓦礫を片付けつづける彼らの姿を映したことは一度や二度ではない。それでも子どもの頃の、父や母や祖父母――かつて自分を愛情でだいじにくるんでくれていた大人たちの言いつけを頑なにまもり続けようと努めるのは、今はもういない彼らと自分との繋がりを、ひとつでもおおく自分のなかに残しておきたいからだ。それに、あの火事だって。そもそも憲兵隊がこの町に来なければ、起こらなかったことかもしれない。わるい人間がいたからこの町に憲兵隊が来たのではなくて、憲兵隊がやって来たから悪者もそれを追って来たのかも。……幼稚な妄想を、リュンヌはきゅっと唇を噛みしめて止めた。

 ゾフィをはじめ、自分の意固地が心配をかけている相手がいることはわかっている。町の大人たちは今日まで時間をかけて、上手にしなやかに彼らとの関係を築いてきている。自分だって直にそちら側にいかなくてはいけない。いつまでもただいじけてあの晩の翌朝に立ち止まり、こころを悲嘆に凝り固まらせていても意味がない。それでも、ひたすらに彼らを避けつづける必要などないと頭や理屈でどれだけわかっていたとしても、自分ひとりくらいがずっとそうしていたところで誰が困るわけでもないだろうという気持ちもある。

 ため息をひとつ、ゆっくりと吐き落としてからリュンヌは視線をあげた。ジュディットの店へとつづく小径に折れる曲がり角がもうすぐそこに見えていた。振り向く。あたりはしんと静まっていて、苦手な者の姿かたちはもうどこにもない。安堵に肩のちからが抜ける。ぐ、と勢いづけて、リュンヌは次の一歩を踏み出した。

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