夜明けの予感/L'heure Bleue

01.

 懐かしい手がそっと頬に触れた気がした。

 作業場と倉庫を兼ねた狭い室内で、リュンヌは顔をあげた。店の裏手に面したそこは、北向きの小窓がひとつあるきりで日中もうすぐらい。部屋の真ん中にはどっしりとした古木のテーブルが据えられており、それだけで空間の殆どが占められていた。卓のうえには様々な、こまごまとしたものが散らばっている。書きつけかけでひらかれたままの帳面、その横にころがっている数本の筆記具、走り書きがされた不揃いの紙片をまち針でひと括りに刺し留めたもの。ほどかれたままの布尺、積まれた包装紙の束、使いさしのリボンの巻……加えてそれらの切れ端や、錆びた鋏、目盛りの欠けた物差し、くたびれた針山、などなど――。その端で、背もたれも肘置きもないちいさな腰掛けに座って、リュンヌはそれまで熱心に自らの手元に集中していた。

 彼女のまわりには密封された小罎こびんが整然と並べられ、手のひらほどのおおきさのレースのはぎれやほそいリボンが乱れなく重ねられている。それらから離れて正面に投げられたリュンヌの視線は、天井までを埋め尽くしている壁一面の棚をとらえた。ふるぼけた木箱や褪色した紙箱、紐で十字に縛られた帳面や紙の束がせせこましくぎっしりと詰め込まれているその前を、斜めに射し込むうすあかりがひとすじ横ぎっている。もやのような曖昧なひかりのなかを、こまかな塵がおぼろげにちらちらと舞っていた。正体を照らしだされて逃げ隠れようと急いている妖精たちの翅のようにもおもえるそれらのうちの、ふわふわとたよりなく上へ上へと浮かんでいくひとつをリュンヌはなんとはなしに目で追う。視線はやがて、ほそくひらかれた押し出し窓へとたどりつく。

 壁をしかくく切り取っている木枠には、カーテン代わりの目隠しに、傷んだハンカチが鋲で留めつけられている。ときおり吹き込む風にあおられて、それらは点々と散った茶色い染みを隠したり、また現したりを繰り返していた。ハンカチの四隅を縁取る蝶々のようなレースも、翻ってはほつれた糸端を揺らしている。その動きがひときわおおきくなったとき、リュンヌのやわらかな髪もまたふわりと持ち上げられて――直後、はらりと落ちた毛先が少女の頬をやさしくくすぐった。ぱち、と瞬きを打った睫毛のまんなかで、とび色のつぶらな瞳がまるくつやめく。

 ほんのりとはだを撫でて過ぎていったぬるさは心地よく、リュンヌは身体のこわばりを逃すようにゆっくりと息をついた。屋根があろうが壁があろうが、冬には外と変わらぬほどに冷え込んでいたちいさな部屋にも、ずいぶんとあたたかな風が流れこむ季節になっていた。小窓とは正反対にゆるりと顔をめぐらせて、リュンヌは今度は、開け放されている扉の向こうに目を向ける。そこでは、かたちよく積み上げられているとりどりの果実が正午近くの陽射しを受けていきいきとした色艶をふかめていた。それらのあいだに、この店の女主人であるゾフィの後ろ姿も見える。白い腰エプロンを巻いた深緑色のドレスに、ゆるく結いあげた豊かな赤毛。その毛先を揺らしてはしきりに頷きながら、彼女は常連客である老婦人と和やかに談笑している。

「ええ、ええ、このあいだの。もちろんまだありますとも。ちいさい罎のね」

 ゾフィはその場に立ったまま、うんと腰を捻って上体だけを振り向かせ、作業場のなかのリュンヌに目配せを送ってきた。リュンヌはこくこくと頷くと、傍らに置いていた木製の盆を取りあげて小壜のいくつかをそこに載せた。それらがぶつかり合って音をたてないように気を遣いながらそろそろと店先へ歩み出ると、どうぞ、と老婦人の前に盆を掲げる。彼女は背中をかがめてそのうちのひとつを手に取ると、しげしげとそれを眺めては嬉しそうに目をほそめた。

「そうそう、これよ。孫たちが気に入ってね。最初はあけるのがもったいないって。あけてからは、レースのはぎれを誰がもらうかで喧嘩になってしまってねえ。だからわたしが約束したの、ひとりにひとつずつ、ちゃんと買ってきてあげるからって」

 罎のなかにはゾフィが丹精込めてつくった果実のジャムが詰められている。その蓋のうえからは、色あいや模様がそれぞれ異なるレース生地がふんわりとかけられて、複数の色をり合わせたリボンで首のあたりをゆるく絞られていた。布とリボン、それぞれの取り合わせに同じものはひとつとしてなく、すべてが印象をたがえる罎詰めのなかから老婦人は楽しげに三つを選んで指で示した。

「孫たちの気持ちもわかるわ。これを眺めているとわたしも童心にかえるもの。子どもの目には宝物のように映るでしょうね」

「喜んでいただけて何よりですよ。リュンヌのおかげ。あたしにはとてもできませんからねえ。あの子は手先が器用だし、きっと他人様より少しばかりこういうことに対する感性が多くあるんでしょう」

 誇らしげに語るゾフィの声を背中に聞いて、リュンヌの頬は面映ゆさにあわく染まった。気持ちを紛らわせるようにてきぱきと手を動かして、選ばれた品々を薄紙に包んで紙袋に詰める。

「どうぞ。お気をつけてお持ちくださいね」

「ありがとうねえ」

 会計を済ませた老婦人に手渡すと、満足気な微笑を向けられる。嬉しくなって、リュンヌも笑顔で頭をさげる。ありがとうございました、と挨拶する声も自然と華やいだ。

「中身の美味しさだって、見た目に負けてはいませんからねえ。お孫さんたちにどうぞよろしくお伝えくださいな」

 陽気な声で送り出すゾフィと並んで、リュンヌも店先まで出て老婦人の後ろ姿を見送る。店が面している市場の通りはこの時間、行き交う人の数も多い。婦人の姿はすぐに活気のなかにまぎれていった。

 ゾフィが両手を腰にあて、さもひと仕事を終えたとばかりに、ふう、と大袈裟に息をついてみせた。リュンヌはその様子に笑いながら、彼女に先立ってくるりと踵を返す。と、その視線の先で、のんびりと歩いていた人波がそそくさと左右に割れてゆく様が目にはいった。混雑した狭い通りの真ん中が、不自然に避けられひらかれてゆく。やがて、その向こうからは、威圧的な空気を放ちながら大股で歩いてくる黒づくめの集団が現れた。それを認めるや否やリュンヌは表情を曇らせる。俯いて彼らの姿から目を逸らすと、逃げるように店の奥へと駆けこんでゆく。

「おや、リュンヌ。どうしたんだい」

 少女の突然の挙動にきょとんとしたゾフィはその後を追おうとして、しかしすぐに足を止めた。店先を通り過ぎてゆく男たちの群れとすれ違い、リュンヌのふるまいの理由に気がついたからだ。

 襟の詰まった黒い上衣に揃いの脚衣。黒い軍帽に、黒革の手袋。それは今でこそこの町ではそう珍しいものではなくなったものの、数年前までは確かに異質な存在であった国の憲兵隊の姿だった。

「最近また、数が増えたのかねえ」

 遠ざかる彼らを横目で見送ってから、ゾフィは眉を顰めて呟いた。隠れるように店の奥に戻ってしまったリュンヌの背中に目を遣って、困ったように息をつく。腕を組み、しばらく何かを考えこむように指先でとんとんと自らを叩きつづけてから、ゾフィはどんよりとした思考を押しのけるように張りのあるおおきな声を出した。

「リュンヌ! おつかいを頼むよ。今日は天気もいいし、散歩がてらのんびり行ってきておくれ」

 軒先に吊り下げられている大小さまざまの籠のなかから、ゾフィはひときわ太い蔓で編まれた頑丈そうなひとつをいきおいよく引っ張り寄せる。それを腕に抱え込むと、店先に積まれた果実を次々に手に取りあげてはしげしげと眺め、選んだ果実を籠のなかに移しはじめた。

「はあい。どこまで?」

 呼びかけに素直に応じ、ぱたぱたと戻ってきたリュンヌの様子に陰りは見て取れなかった。ゾフィはほっとした様子で籠を傾けてみせる。

「わ。こんなにたくさん」

 ゆるく波打つ髪を頭の片側でひとつかみにまとめ、それを耳の下で括りながらリュンヌは目をまるくする。

「重たいからね、気をつけて。ジュディットの店までお願いするよ。帰りも急ぐことはないからね。モニクがいたら、すこしお喋りでもしておいで」

 持ち出された幼馴染みの名を聞くと、リュンヌの眦には幼げな明るさがふわりと滲んだ。渡された籠にふかく腕をとおし、もう一方の手で把手をしっかりと握りしめる仕草もどこかそわそわと弾んでいる。

 見送る女主人に向けて、いってきまあす、と溌剌とした声を残すと、リュンヌは市場の人混みのなかへ紛れていった。

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