花冠を君に

望灯子

序/Prologue

00.

 ふと眠りから覚めたのでまぶたをうすくひらいてみると、あたりはまだ暗かった。リュンヌは枕の下に忍ばせておいた懐中時計を手さぐりで取り出して静かに時間をたしかめた。

 毎朝、起き出さなければならない時間は早い。だから夜明けまえに目ざめたときにはすぐにふたたびまぶたを閉じて、ゆるされる時間まで微睡んでいてもよいのだけれど、リュンヌはたいてい、ぬくもりを蓄えた寝床の誘惑を振りきって外に出ていくことにする。

 隣の部屋では弟が眠っている。簡素なベッドはすぐに軋んだ音をたてるから、それが弟の耳に障らないように注意をはらいながらそっと床に足を降ろす。枕もとの、手を伸ばせばすぐに届く場所にテーブル代わりに設えてある椅子がある。その上に、きっちりと四隅を合わせて畳まれているショールをすばやく取りあげて胸に抱えこむと、リュンヌはそのまま息をひそめて家の扉をくぐり出た。

 空を見あげるとまだ星が見えた。ひんやりとした空気に意識を醒まされる感覚を心地よく受けとめながら、リュンヌはショールを広げて肩を包む。

 獣毛で織られているそれは、端の一部が焦げて溶けてしまっていて見た目に難はあるけれど、とても暖かい。背中にかかる淡い栗色の髪もその内側におさめて、上半身をぐるりと、口もとまでをしっかり覆うと、リュンヌは小走りに目的の場所に向かって駆けだした。

 石積みの平屋が並んでいる町はずれから、そこはそれほど遠くはない。すこしずつ青みを帯びてゆく風景に急かされるようにして早足で数分も行けば、ゆるやかに広がる丘陵を見渡せる場所に出る。

 遠く向こうに見える、折り重なったいくつかの稜線がひかりに縁取られはじめていた。リュンヌはあがった息を整えることもそこそこに天を仰ぎ見る。そこには、ふかい紺色のなかで競いあうように瞬いていた星々が、白みはじめた空にすこしずつ溶け消えていく光景があった。

 幼いころ、すべての星は夜明けとともに地平に流れ落ちて、どこか遠くにある故郷ふるさとに帰っていくのだとおもっていた。そんなリュンヌに、星は昼間も空に在るのだと教えてくれたのは父だった。言葉だけではそのことを信じようとしなかった幼子に、夜が明けゆくときの空を初めて見せてくれたのも。

 いつもよりも早起きをして、父の温かい大きな手に引かれ、どきどきしながら暗い道を歩いた日のことを今でもよく憶えている。弟や、もうひとりいた妹はまだちいさくて、だから父はリュンヌひとりを連れて行ってくれた。ちょっとした冒険めいた特別な時間を父とふたりだけで共有できたことが、とても嬉しかった。

 いつのまにか胸に痞えてしまっていた息を、リュンヌはゆっくりと空に吐き出した。肩の力を抜いてゆるりと首を巡らせる。すると山頂にそびえ立つ黒い尖塔が視界に入る。

 それは見張り塔だ。山を越えた向こう側に走る国境を見下ろしている。かつて父と見た光景には存在していなかったその姿はリュンヌの表情を陰らせる。

 けれどもリュンヌはすぐに、気持ちを入れ替えるように背筋をしゃんと伸ばした。ショールの合わせ目を掴んだ指先に、きゅ、と力を込める。そうしてひといきに、元来た道へと踵を返す。

 あたらしいいちにちがはじまる。踵が地面を打つ音に合わせて、リュンヌはおまじないのようにゆっくりと、その一音一句を頭のなかで紡いだ。

 背中にあたる朝日が暖かい。家に帰ったあとで弟のために淹れるお茶のことを考えた。昨日はリンゴのジャムを溶いた。今日はミルクで煮出してから、同じようにしてみてもいいかもしれない。

 変化はささやかでいい。今日という日が、前日と代わり映えのない一日として終わっても、ただ穏やかに、無事に明日へと続きさえすれば。

 祈る気持ちを胸に抱きながら、リュンヌはひときわつよく地面を蹴った。

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