紡がれた連鎖

雨結敏次

第1話

どこかの世界。いつかの時代。

そこは幾多の国がせめぎ合う、群雄割拠の真っただ中。

貴族の国、侍の国、仏教の国、神道の国。様々な思想の国々が大地に散らばって広がり、彩を成している。

国々は時に助け合い、時につぶし合った。

繁栄と衰退が背中合わせになったこの乱れ世で語られた逸話は数多く。また、名を馳せた英雄も数知れない。

英雄はいつも悲劇から生まれる。英雄の数だけそこには悲劇がある。

カミドの国。侍の国の一つであるその国にも例外なく血塗られた歴史があり、悲劇があった。




暗い室内に小さな裸火が一つ、揺れている。

燭台の元、文机を前に座した青年は一冊の書を開いた。


◆◆◆◆◆◆


自然に恵まれた豊かな国、カミドの国。大名である岡多忠勝の嫡男、勝幸は城を抜け出した。それは今日に限ったことではなく、城中に若様、若様と勝幸をを探す声が響くのは今では聞きなれた日常だ。

響く声など聞こえないといった顔で勝幸は厩舎から馬を一頭連れ出した。

「写字ばかりやってられるかよ……」

「兄上様、どこへ行かれるのですか?」

溜息と愚痴を同時にこぼした勝幸の背中に甲高い声が突き刺さった。ピクリと反応した勝幸はゆっくりと振り返る。その時、勝幸が帯刀に手を添えたのはおそらく無意識なのだろう。まだ若く未熟だろうと紛れもなく侍なのだ。

「息抜きにちょっとした散歩にだな……えっ」

勝幸が声の方を見ると、槍を手にした妹の小姫がそこにいた。手にした槍が怖いが、それ以上に勝幸に向けられた小姫の笑顔が怖い。この怖い笑顔は間違いなく母親譲りだろうなとふと勝幸は思った。少し前までは純粋な笑顔を向けてくれていたのに、最近勝幸に向けられる笑顔はこの般若が重なって見える笑顔ばかりなのだ。こんな笑顔は譲って欲しくなかったというのが勝幸の本音だ。

「ちょっとした散歩に馬……ですか?」

「え……あ~こいつも暇そうだったから……な?」

小姫の鋭い質問をどうにか濁そうと話を馬に逸らす。馬の顔を見上げ、馬の首をぽんと叩いた。

しかし、馬は話が分かっているのか首を横に振るように身震いした。

「つれないやつだ……」

「さて、兄上様。茶番はここまでです。今日は絶対に逃がしませんからね」

小姫の顔から笑顔が消え、勝幸を睨みつける。

「まてまて、本当にすぐ戻るから!ちょっとだけ!な!」

「そう言って、この前すぐ帰ってこなかったじゃないですか!」

このまま話を続けても意味が無いことを小姫は身をもって知っている。逃げ足の速い勝幸には先手必勝なのだ。

小姫は怒りに身を任せ、勝幸に向かって走る。

勝幸が城を抜け出す度にしわ寄せが来るのはいつも小姫のところなのだ。

「覚悟!」

槍の間合いを生かした一閃が最短距離で勝幸めがけて迸る。

あ……これ、殺されるやつだ。

一瞬死を悟った勝幸はしかし、紙一重で小姫の突きを避け、距離を取る。すかさず、小姫は追撃する。二重三重と勝幸に向って切っ先が弧を描く。そして、その度に刃は空を切った。

「しかし、小姫、お前はもう少し女子らしくあるべきだと思うぞ」

「誰のせいで私がこうしているとお思いですか?」

「さあなぁ、少なくとも俺のせいではないかなぁ」

「兄上様のせいです!」

刃も言葉も涼しく受け流す勝幸に小姫の苛立ちが増していく。

小姫はこれでもかと一回転するように大ぶりな薙ぎ払いを繰り出す。しかし、勝幸はそれをしゃがんでやり過ごす。小姫の狙い通りだ。槍を振った回転を利用し、しゃがみながら右足を伸ばす。小姫の踵が勝幸の足元を払う。

虚を突かれながらも、小姫の足払いを飛びあがって避けた勝幸にしかし、小姫も負けていない。小姫は中空で身動きの取れない勝幸に全身全霊を掛けて槍を投げる。

そこで初めて勝幸は刀を抜いた。

飛び来る槍を叩き落す。勢いよく地に落ちた槍は砂埃を上げて地面を抉った。

やられた。小姫がそう思った時には既に遅かった。

目を瞑り、咳きこむ小姫の耳に馬の駆ける音が届いた。

小姫は音を頼りに駆けだす。しかし、すぐに何か穴のような段差に足を取られ、態勢を崩した。倒れそうになりながらも、刺さっていた槍をつかみ何とか堪えた。

砂煙が消えるとすでに勝幸の姿はどこにも無かった。

「兄上様の馬鹿ぁぁ!!」

叫んで怒りを発散させた小姫は足元に視線を落とした。駆けだした時に足を取られた抉れた地面を、そして、そこに刺さった槍を眺めた。

槍を離さなかったら音がした方向に槍を投げて追撃できた。いや、そもそも、槍を投げなければ砂埃をあげられることもなかった。

自分はまだまだ未熟者だ。それが小姫は悔しかった。兄上に挑む度に痛感する。これでは誰も守れない。

小姫は勝幸が駆けていったであろう方向を見やる。

兄上に何かあった時、兄上を守るのは自分なのだ。

あの時兄上が私を守ってくれたように。次は自分が兄上を守るのだ。

だから、強くならなくてはいけないのだ。




城の一室から二人の攻防を見ていた忠勝は豪快に笑った。胡坐の膝を叩き豪快に笑った。

「やりよるのお勝幸!流石儂の子じゃ!いやしかし、小姫も成長したのお……もう少ししおらしくして欲しいが、ま、あれでは変な虫がつかんだろうて」

忠勝は自分の胡坐の上に座って勝幸たちを見ていた信勝の頭をぽんと叩いた。

信勝は応じるように忠勝を見上げた。その目はきらきらと輝いている。

信勝は勝幸、小姫の弟だ。先月、七歳になったばかりで、兄や姉ほどやんちゃではないがそれでも十分元気な男の子だ。この子もまた武士の子。将来は立派な侍になるのだろう。

「どうだ、信勝!お前の兄上と姉上は強いのお」

「はい!父上!私は兄上たちのように強くなりとうございます」

屈託のない笑顔で返事をする信勝の姿はとても愛らしい。

「はっはっは!信勝!お前も儂の子じゃ!強くなれるとも!だが、そのためには稽古に励まねばならんぞ!」

「はい!父上!」

微笑ましい親子の会話に近づく影があった。会話に夢中で二人とも気が付かない。

その影はいよいよ二人の背後に迫っていた。

「お前様、こちらにいらしたのですね」

今聞きたくない声を聴いた忠勝はびくりと身を翻す。凪だ。凪は忠勝の正妻であり、唯一の妻だ。忠勝にとって最愛の人であり、天敵である。

「な、なぎ……さ、信勝、稽古に行ってきなさい」

このままでは父親としての威厳が損なわれると咄嗟に判断した忠勝はそれとなく信勝をこの場から去るように促した。因みに、父上より母上の方が強いと勝幸が知ったのはだいぶ前のことで、小姫が知ったのはつい最近のことだ。

「はい!父上!母上、稽古に行ってまいります」

「ええ、信勝はいい子ですから。しかっり稽古に励むのですよ」

「はい!母上!では、母上、父上、失礼いたします」

何の疑いもせず信勝は駆けて部屋から出ていく。

「して……お前様、勝幸様がまた城を抜け出したそうですよ」

じりじり詰め寄ってくる凪の笑顔はそれはそれは美しく、そして怖い。

「そ、そうかまた抜け出したのか……あいつも困ったやつだな……ははっ」

「見ていらっしゃいましたよね?」

「え……あ、見てたような見てなかったような……」

「どうして、お止になられなかったのですか?」

「え……あ、まあ……」

兄上たちの様な強さを夢見て目を輝かせ、稽古に急ぐ信勝は後方であがった悲鳴に気が付かなかった。しかし、その時あがった忠勝の悲鳴は城内外に響き渡り、勝幸の耳にすら届いていた。

父上にあんな悲鳴を上げさせるのはこの世でたった一人。馬を駆けながら母上の怖さを再認し、この後、自分にも降りかかるのではと思うと、気が気でない勝幸であった。




深い森、そこは隣国との国境。晴れていた空は雲が覆い、いつ雨が降ってもおかしくない天気だ。馬を走らせる勝幸は辺りの空気が重くなったのを肌に感じた。

国境の森には外法師が棲んでいる。鬼を連れ歩き、民を襲っているとの報告が絶えない。

森を進んでいた勝幸は辺りを警戒しながら馬を降りた。鳥や獣の気配が全くない。明らかにおかしい。勝幸は警戒を絶やさず奥へ進んだ。

雨が降る日、外法師は現れる。勝幸がこの国境沿いの森に来たのは他でもない。外法師の正体をつきとめ、成敗すること。写字をしていた時、ふと城から外を見ると森の方に雨雲があるのが確かに見えたのだ。民が困るのを見逃せない。それ以上に写字が面倒くさい。かくして、勝幸はこの国境沿いの森にやってきたのである。

慎重に歩みを進めていた勝幸は微かな香りに気が付いた。

「お香……?」

はっと振り返る勝幸の目に止めてあったはずの馬が映らない。

冷汗がどっと吹き出る。しかし、冷静を保つために平然を装う。

「あ……これ、もう術中だったりする感じ?」

「術中だったりする感じだな」

耳元で返事がした。勝幸は腕で振り払いながら後ろを顧みる。しかし、何もいない。

辺りを隈なく見渡し、人影を探すがどこにもいない。ゆっくりと鞘から刀を抜き、そして、姿無き相手に問う。

「あんたが鬼を連れ、民を襲う外法師か?」

その問いに反応してか、勝幸の前に人影が顕現した。白い衣装に身を包み、仮面を付けたそれは問いを返す。

「だとしたら?」

「……殺す」

勝幸は外法師向けて走り出す。その表情は真剣そのものだ。

「物騒な……」

ため息交じりに外法師は言葉を漏らす。

迫りくる勝幸に向けて外法師が手をかざすと風の刃が無数に出現し、放たれた。

体をねじらせて、躱し、刀で跳ね返す。時に、木に身を隠し、勝幸は難なく風刃の群れを掻い潜る。

「民を襲う外法師が生きている方が物騒ってもんだろ」

「まあ、確かに。でもなあ……言い分は分かるが根本が間違っているからな」

徐々に間合いを詰めた勝幸の刀が一閃する。

しかし、実体を持った刃が勝幸の刀と外法師の間に顕現し勝幸の一閃を受け止める。

「ほう、つまるところ何が言いたい?」

「言ってほしいなら言ってやってもいいが、別に言いたいことは無いぞ?」

刀に力を込めながら問う勝幸に、外法師は涼し気に答える。いや、答えになっていない。

宙に新たな刃が顕現する。その刃は勝幸に振り下ろされる。勝幸は後ろに飛び退った。

なら、言いたくなるようにしてやろうか。と熱くなった勝幸だったがそれでは相手の思う壺な気がしてぐっと堪えた。そして、冷静に平然と言葉を返す。

「すごく言って欲しいかな?一生のお願い」

思いがけない返答だったのか外法師の動きが一瞬止まった。そして、肩が微妙に上下したのが見えた。仮面をしていても分かる。間違いなく笑っている。

「出会ってすぐに一生のお願いとは中々可愛いやつだな。でも、折角だし力づくで聞き出してみなよ」

外法師は新たに二本の刃を表出させる。計四本の刃が勝幸に押し寄せる。

「結局そうなるのね」

勝幸は刀を握る手に力を込めた。人生そう簡単に楽ができないことは知っている。

だが待てよ、相手が外法師なら結局倒すし、こっちのほうが手っ取り早い気がする。問題は相手が外法師ではなかった場合だが喧嘩を売ってきたのは向こうだし、その時はその時だ。

迫りくる刃の軌道を刀でそらし、勝幸は最小限の動きで攻撃を躱す。先ほどの風刃とは違い、弾いた刃は向きを変え繰り返し勝幸を目指す。

何度弾いてもきりがない。早々に決着をつける方が得策だ。術者を倒せば操られた刃は動きを止めるだろう。

勝幸は順繰りに来る刃を跳ね返し、次に来る刃にぶつける。そこに大きな隙を作った。外法師向けて一気に詰め寄る。外法師は勝幸の一閃を新たに出現させた刃で受け止めた。

しかし、距離は十分近づいた。勝幸は左腕を伸ばし、外法師の首を掴む。そして、そのまま押し倒した。勢いよく倒れた外法師の仮面が外れ、顔が現れる。外法師の首元に刀を添えた勝幸は目を見開く。

「女……」

「男だと思っていたか?」

外法師の口端が上がる。勝幸ははっとした。自分の喉元に宙に浮く刃が据えられている。汗がどっと噴き出たのがわかる。それでも勝幸は顔色を変えることなく応じる。

「外法師は男だと相場が決まっている。」

「偏見だな」

「かもな……で、言いたくなったか?」

「この状況で勝ったと思っているのか?」

確かに勝幸は外法師の体を抑え喉元に刀を突き付けているが、外法師の刃もまた、勝幸の首に当てられている。さらに、残りの刃も勝幸を取り囲んでいた。

「勝ち負けはどうでもいい。言いたくなったかどうか聞いている」

確かに言いたくなる、ならないの条件は言われていないが、中々強引だ。だが、勝幸にとってはこのままどちらが死ぬにしても相手の正体が不確かなまま終わるのは不本意なのだろう。強引だろうと何だろうと聞きだしたいのだ。

「……いいわ。教えてあげる。何も知らないお侍さん」

「お前は何者だ?外法師なのか?」

二人とも切っ先を喉元から離さないまま質疑が続く。二人とも平然を装っているが相手の一挙手一投足見逃せない緊張が張り詰めている。

「いいえ。私は……私は外法師ではない」

「じゃあ、何者だ?見たところ、僧侶でも神官でもなさそうだ。しかし、これほどの術を操れるとなると……陰陽師?」

「……陰陽師は滅ぼされたわ」

「じゃあ……お前はいったい?」

勝幸の女に向ける目に一段と怪訝さが増した時、女の目がはっと開いた。

「私は笹音……私は民を襲ったりしない。そして、こいつらが民を襲う鬼を連れた外法師の正体。」

その時、勝幸を包む空気が一変した。同時に勝幸が制した笹音の姿が消えさる。

後ろに気配を感じ、咄嗟に振り向いた勝幸の視界にそこに立つ笹音が映る。

勝幸が抑え、首元に刀を押し付けていたそれは分身で、本体はずっと隠れていた。それを察した勝幸は自分の未熟さを痛感した。互角にやり合ったと思っていた。しかし、自分は相手の手の上で踊っていたに過ぎない。本気になれば不意を衝いて簡単に殺されていたのだろう。

半ば惚ける勝幸に笹音は示すように辺りを指さす。はっとした勝幸は笹音の指さす先に目線を移した。

「な……こいつらは?」

視線の先に鬼がいる。視線の先だけではない。辺りを見回すと十数の鬼が二人を囲むようにそこにいる。いや、目を凝らして見るとそれは鬼の面を付けた人間だ。一人だけ仮面をつけず、笹音と同じような装束を纏った人間がいる。同じような装束と言ってもしっかりと見ると細部は全く違う。槍や刀を手にした集団は今にも二人に斬りかかりそうな雰囲気を纏っている。

「こいつらは隣の国の侍。全て私のせいにして好き勝手していたみたい」

いつ斬りかかってきても対応できるように警戒しながら笹音が言葉だけを勝幸に向ける。勝幸も同様に言葉だけを返す。

「で、なんでそいつらに囲まれているのか謎なんだけど?」

「いい質問だ。私は雨が降る今日、あいつらが来ると踏んでいた。だから、結界に誘い込んで倒すつもりだった。でもね、」

笹音はそこで一度言葉を区切り、そして、続けた。

「何も知らないお侍さんが先に結界に引っかかって、結界を台無しにしたってとこね。結果、誘い出された彼らを待っていたのは私たち二人だった」

言外に非難された勝幸は目を細めた。

「訊かなければよかった。耳が痛いとはこういうことか」

「痛いのが耳だけで済めばいいけれど」

「確かに」

二人の会話に区切りがつくとほぼ同時に十数の武者たちは一斉に二人に斬りかかった。




息を荒げて、勝幸は地面に座り込む。大きく肩を上下させて息をしながら辺りを見渡す。そこには二人に倒された十数の武者たちの屍が転がっていた。

屍を踏まないように避けながら、笹音は勝幸に歩み寄った。

「結構やるのね」

「これだけやって息もきれないあんたに言われても嬉しくない」

「せっかく褒めたのに。素直じゃない」

自分を見上げる勝幸に笹音は飄々と言葉を返す。

「うるせえ……あんたが外法師じゃなくて本当に良かった」

「私が外法師だったらあなた死んでたわね」

「言い返せないのが流石に悔しいな……ところで、あんた結局何者なんだ?」

笹音から視線を外し、勝幸は自分の前に横たわる屍に目をやった。

十数の武者を相手に勝幸は辛うじて遅れをとらなかった。それは勝幸が武士の子であり、武士として稽古に励んできた結果だろう。それも大名の子として人並みならない努力をしてきたからだ。不真面目で座学には身が入らない勝幸だが大名の子としての自覚は確かにあった。いつかは父、忠勝から大名を継ぐ者としてそれに見合う力を身に着けてきたつもりだった。だが、自分の横に佇む同じ年頃の女は自分をはるかに上回る実力を持っている。この女が何者でどんな経験を積んで今ここにいるのか。隣の女性について勝幸には知りたいことがたくさんあった。

しかし、笹音は答えない。返す言葉を探して見上げた空は黒い銀色に濁っている。今すぐにでも雨が降ればいいのに。そうすれば自然に話を中断できる。何も話さずに済む。そう思って笹音はふと笑った。

物事はいつも自分の願い通りにはいかないのだ。望んだって意味が無い。だから、強くならなければならなかった。身も。心も。

笹音は視線を落とし、勝幸の首筋を眺めた。

自分が何者なのか。何故か、この少年になら話してもいい気がして、しかし頭を振る。

自分が何者なのか。それは言えない。言ってはならない。自分の為にも。そして、関係ない他人を巻き込まないためにも。

ズキンと胸を締め付ける感覚がある。苦しい。重い。言えない過去について口を噤むといつも締め付けられる。心の片隅に全てを、自分の置かれた境遇を吐き出したいと望む自分がいるのだろうか。それが吐き出してしまえ、言ってしまえと言葉をこみ上げさせる。

言葉を紡ごうと笹音の喉が僅かに震える。

だが、笹音は知っている。胸を締め付けるそいつは弱い自分だと。負けてはいけない。

この少年にならと思うのも弱い自分のせいだ。誰も頼ってはいけない。信じてはいけない。

自分は強くなくてはなららい。弱い自分に従ってはいけない。たとえどんに苦しくても。

そうして、言葉を飲み込んだ。それでいいのだ。

どんなに胸を締め付けられてもそれが強さだ。

それが強さだと信じている。

「細かいことは気にしない……ところで、あなたの名前は?」

沈黙の後に話題を変えた笹音の声は明るく、なのに、どこか悲し気な音がした。

その声音に勝幸はそれ以上の詮索ができなくなった。きっと自分が踏み込んでいい話ではないのだろう。踏み込めばきっと彼女は迷惑に思うだろう。

「そう言えばまだ名乗ってなかったか……勝幸。岡多勝幸ってんだ」

その時、笹音の目が見開いた。その名を笹音は知っている。それは関係ある名。

端整な口端が歪に上がった。

息も落ち着き、立ち上がろうとした勝幸に笹音は手を差し出した

「すまんな」

「……いいの」

笹音の手を借り立ち上がった勝幸に笹音は笑って見せた。

その笑顔はとても美しかった。

目の前のその笑顔が本当に美しくて、勝幸は鼓動が不意に跳ね上がったのを確かに感じた。

そしてその瞬間、勝幸の腹部に衝撃が走った。何が起きたか分からない勝幸は視線を落とす。笹音が操る刃が腹部に深々と刺さり、血が流れていた。

「私が何者か……教えてあげる」

勝幸は膝から頽れる。力なく項垂れる顔を笹音が両手を添えて支える。掠れる視界に笹音の笑みに歪んだ顔が映った。

「私は陰陽師。陰陽師の生き残り。岡多忠勝によって滅ぼされた陰陽師の生き残り」

痛みすら感じなくなった勝幸の耳朶が恨みだの復讐だのその後に続いた彼女の言葉を受け止めることはなかった。暗くなった視界に笹音の顔の残像が残って見える。

勝幸の頬に一粒のしずくが落ちた。それは笹音の涙。復讐を一つ果たして震える、笹音の流した歓喜の涙。

笹音に凭れた勝幸の体はやがてずるりと滑り、血に染まった大地に横たわった。




雨が降った。激しい雨。それは全てを洗い流す。涙も血も。

そして、新たな悲劇の芽がそこに残った。。


◆◆◆◆◆◆


部屋に風が吹き込んだ。小さな火は抗うことなくたやすく消えた。夜が明け、暁の白んだ光が部屋に溶け入る。

青年は書を閉じた。文机に書を置いたまま立ち上がる。慣れた足取りで青年は部屋を後にした。開いた扉から薄ら白い光が部屋に差し込む。その光は書の表紙をなぞった。光に当てられ文字が浮かぶ。

『悪鬼信勝伝』

それはかつて、虐殺の限りを尽くしたことで諸国に名を知らしめた岡多信勝の生涯を綴った物語。

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紡がれた連鎖 雨結敏次 @liza

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