十五夜の鯨

淡 湊世花

第1話 十五夜には鯨が泳ぐ



 奇しくもその日は十五夜で、真夜中の空には、この世のものとは思えぬほどの、美しい満月が輝いていた。


「あ、鯨だ。鯨が泳いでる」

 病室の窓辺に立っていた夫が、狐につままれたみたいな顔で呟いた。

 こいつ、頭がおかしくなったのか? と思った矢先、それはわたしの視界にも飛び込んできた。

 鯨だ、とてつもなく大きな鯨が、月夜の空を泳いでいる。まるで、星の瞬きを揺れる水面に見立てるように、夜空を悠々と進んでいるのだ。

 わたしは思わず、ベッドから体を起こした。いったい何が起きてるんだ。わたしのボンヤリした頭は、この状況を理解しようと懸命に考えた。しかし――

「見てごらんルナ、空に鯨さんが泳いでるよ」

 耳に届いたその声で、フッと病室に引き戻される。

 夫が、大事に抱えた娘に話しかけていた。小さな小さな、可愛い娘。でも、娘は息をしていない。一度も息をすることがなかった。

 娘は死産だった。


 胎の中で、大事に育ててきた娘。それが今日の朝、突然死んだ。お医者は、胎の中で心臓が止まっていると、わたしに言った。羊水は暖かく、腹部は膨らんだままなのに。

 目の前が真っ暗になった。希望に満ち溢れたわたしの世界は、ガラガラと崩れ落ちたのだった。


 でも、お医者は待ってくれない。夫を呼び、わたしに薬を打ち、何がなんだかよくわからないまま、娘を取り上げた。

 静かすぎるお産だった。

 そうして、何もかもが一瞬に過ぎ去ったのち、わたしたち家族は、最初で最後の団欒を過ごすことになったのだ。

「ほら、ルナ。お月様の前を鯨さんが泳いでる。不思議だねぇ」

 夫が、聞いたことのないような優しい声で、死んだ娘に語っている。ルナとは、胎の中の赤ん坊につけた呼び名だ。でも娘は目を開けない。鯨を見ようともしない。分かりきっているのに、わたしは腹が立ってきた。

「もうやめてよ! そんなことしたって、その子には聞こえてないんだからさ!」

 叫んだ瞬間、涙がブワッと湧き上がったのを感じた。

「もう嫌だ……悲しすぎて、その子と一緒の部屋に居たくない……」

 嘘だ。本当は、何度も神様にお願いした。

 この痛みで死ねますように。どうかこの子と、一緒の世界に行けますように、って。

 でも、神様は願いを叶えてくれず、わたしをこの地獄に一人だけ残した。残酷すぎる仕打ちだ。

 いっそこのまま鯨を追って、窓から飛び降りようかと思った。すると、夫の口調が変わった。

「なあ、新婚旅行のときのこと、覚えてる?」

 どうやら、わたしに語りかけているようだ。わたしは俯いたまま、耳だけを夫の声に向けた。

「オーストラリアの海で、鯨を見たよな。お前が、鯨は優しい目をしてるって、俺に話してくれたんだ。そしたら船のガイドの爺さんが、教えてくれたんだ」


 鯨の眼差しは、慈愛に満ちている。小さな命の光を、見守るからだ。あなたの言葉は、鯨に伝わったでしょう。


「あのときは、迷信というかファンタジーというか、夢物語みたいに思えて、今の今まで忘れてたんだけどさ。嘘じゃなかったんだなって、今わかったよ」


 夫はそう言うと、ほらあれ。と、窓の外を指差した。わたしも、夜空の鯨を見上げた。

 そして、目を見張った。

 十五夜の月明りを体いっぱいに浴びた鯨が、歌うように鳴いている。その周りで、光の粒がきらきらと輝き、ぼんやりとした人の輪郭を浮かび上がらせた。

 夫の顔だ。いや、わたしの顔か。 夫にも、わたしにも見えるその顔が、ニコッと微笑んだ。

 わたしは思わず声を上げた。その光の輪郭は、娘の顔だったのだ。

(ごめんねママ。ルナ、まだそっちに行けないんだって。もう少し、空を泳ぐ練習をしないといけないの)

 赤ん坊の小さな口から、娘の言葉が語られた。わたしはベットから這いずり出し、夫の隣に並んだ。

 娘は、今度は夫に語りかけた。

(パパ、ルナって名前をありがとう。もう少ししたら、またそっちに行くから、そうしたら、またルナって名前で呼んでね)

「うん、うん……」

 夫は目に涙を浮かべて、何度も頷いた。


 そのとき、鯨がひときわ大きく鳴いた。さあ、子ども達。そろそろ行くよ。そんなふうに聞こえる声は、わたしたちの胸にも響き渡った。

(パパ、ママ、大好きだよ。お空の上でも、ずっと愛してるよ。だから、ルナのことも好きでいてね)

「ルナちゃんっ!」

 わたしの口から、嗚咽に混じって愛する娘の名前が飛び出した。初めて、名前を呼んであげられた。

「ママもルナちゃんのこと大好きだよ! また会えるの、ずっと待ってるからね!」

 わたしの声は、涙でぐちゃぐちゃになっていたけど、娘はにっこりほほ笑んでくれた。娘の姿はキラキラした光の粒に戻り、夜空を泳ぐ鯨を追っていった。

 鯨は、十五夜の月に向かって泳いで行く。ルナの光は、その中にに溶けていき、やがて見えなくなってしまった。




 病院のナースセンターでは、その夜の話で持ちきりだった。

「死産しちゃったお母さんとお父さん。夜中に外に向かって奇声をあげてたらしいですよ」

「奇声なんて言っちゃだめよ。子どもを亡くしたら、声を上げて泣きたくなって当然でしょ」

「今朝は、落ち着いてらっしゃいましたよ。死んじゃった赤ちゃんを、大事そうに抱えてて……わたしのほうが、泣きそうになっちゃいました」

 若いナース達は、無遠慮にその家族の話を囁き合っている。その声を耳にした年長のナースは、柔和な笑みを浮かべて口を挟んだ。

「もうその話はお終いにしましょう。仕事の時間よ」

「でも、あのご家族は、大丈夫でしょうか」

 ナースたちが不安を訴えると、年長のナースは微笑んだ。

「十五夜の夜にはね、たまに見えてしまうのよ。人の魂を迎えに来た、神様みたいなものがね」

 まさか〜。と、若いナース達が笑いだしたとき、誰かの携帯電話が、振動音を立てた。

「あらやだ、わたしだわ。ごめんなさい、ちょっとだけいいかしら」

 年長のナースは、同僚達に頭を下げると、急いで通話ができる場所に向かった。古臭いガラパゴス携帯の通話ボタンを押すと、耳に押し当てる。

「もしもし、ルナ? ごめんなさいね、母さんまだ仕事中なの。えっ、迎え? あら嬉しい、お願いするわ」

 車の運転免許を取得した娘が、練習を兼ねて迎えに来てくれるようだ。この間まで赤ん坊だと思っていたのに、いつの間にか車を運転できるようになっているなんて。

 年長のナースは携帯電話を閉じて、フフっと微笑んだ。


 だって、本当なんですもの。十五夜の夜には、鯨が泳ぐ。

 それはとても不思議で、悲しく、優しい夜の思い出。

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