【??】ゼロ(4)
大切な人ができて、大学を卒業して、働き始めて、愛する人と一緒の暮らしを始めて、結婚をして、子どもが生まれて。
それでもわたしは、小説を書けなかった。
書けなかった、というのはすこし誤解を招く表現かもしれない。
愛する人ができたころから少しずつ、わたしの小説が書けないという悩みは薄れて、消えていってしまったからだ。
理由は、わたしにもよくわからない。
時間が経つにつれて、引き摺っていたものが軽くなって消えてしまったのかもしれないし。
歳を重ねたことで、痛みに慣れてしまったのかもしれないし。
大切な人が小説を書いているから、わたしが書かなくてもいいと思ったのかもしれないし。
大切な人が書いた小説は、いつもわたしが関わっているから、わたしにとっての書く行為は、それで満足してしまっているのかもしれない。
ときどき、一年に一度か二度くらい、あの頃のことを思い出すことはあった。そのたびに胸はちくりと痛んだけれど、その痛みも胸を張ってうけとめるしかない。
悲しいことも、辛いこともわたしの人生の一部だから。
悲しんだって、もうあの頃に戻ることはできないから。
それは、ある日の書店での出来事だった。
ベビーカーを押して新刊の平積みを物色していると、ひとつの表紙がわたしの目に留まった。
記憶にはないけれど、どこかでわたしの心に引っかかる作者の名前。
表紙は最近多い、キャラクターイラストが主体だけど、大学生から若い大人をターゲットにした装丁のもの。
ときどきこういうことはある。
書店で本が目に留まったときは、たいてい手に取って間違いはない。タイトルや表紙のデザイン、置かれた場所、販促のポップ、それらはその本を読んでほしいターゲットのために整えられている。
いま、ここでわたしの目に留まったっていうことは、わたしはきっとこの本にとってのターゲット層なんだ。
わたしはその本をとると、レジへと向かう。
ベビーカーの我が子が、機嫌のよさそうな声をあげた。
「これ……」
買った本を読みはじめて十数ページ、わたしの記憶が刺激される。
胸がどきどきして、わたしはいちど小説にしおりを挟んで、深く息をついた。
「どうしたの?」
愛する人が心配そうに声をかけてくれる。
「うん、ごめん、ちょっと……この本、集中して読んでみたい。そのあいだ、子守り、おねがいしてもいいかな」
「わかった。任せて」
感謝して、わたしは物語の世界へと潜った。
「……はぁっ」
溜息をついて、読み終えた文庫本を閉じる。
読み進めるうち、予感は確信に変わっていた。
あのとき、あの教室で何度も読んだ文章。
長い年月が経って、テーマもなにもかもが変わっても、その文章には色と香りと味と、しっかりあの人の個性が残っていた。
そして本の一番さいご。作者本人によるあとがきに書かれていたあの文章は、己惚れかもしれないけれど、きっと、わたしに向けたものだ。
「……ふ、ふふふ」
笑みがこぼれた。
心のおくにあった、きっとお墓までずっと持っていくんだろうと思っていた荷物が、さらさらと崩れて、消えていく。
「あーっ」
ソファの背もたれに体を預けて、深く息を吐いた。
「読み終わった?」
「うん……とっても、良かった。子守りしてくれて、ありがと」
「ううん、全然。小説、面白かった?」
「うん。面白かった。あのね……こんど、わたしも小説を書いてみようかなって、思うの」
「……書けるようになったの?」
「わからない」わたしは首を振って、でも微笑む。「でも、もし書いてみたくなったら、やってみようかなって」
「そっか」
愛する人は穏やかに、わたしに微笑みかけてくれた。
わたしは文庫本のカバーを外して、もういちど表紙をじっと眺めると、右手でそっと表紙に触れた。
圧縮された長い時間とたくさんの気持ちが、心のなかを通り過ぎる。
わたしにはこれまでたくさんのゼロがあった。
大切に育んできた関係がゼロになってしまったとき。
それまでわたしにあった能力が、急にゼロになってしまったとき。
あたらしい場所で、なにかをゼロからはじめたとき。
あたらしい家族と、人生をゼロからつくっていくとき。
たくさんあった、わたしの人生のゼロのなかで、きっと今日のこの瞬間も、そのひとつ。
まだ書けるか書けないかはわからない。書くかもしれないし、このままやっぱり書かないかもしれない。
だけど、確実に、ここはわたしのゼロ地点だ。
微笑むわたしの耳に、我が子のご機嫌な声が飛び込んできた。
<おしまい>
ハンドレットリーフ kenko_u @kenko_u
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