【??】ゼロ(3)
「俺の小説、読んでみてよ」
「うん、いいよ」
サークルに入って初めて小説を読むことを頼まれたのは、夏休みが始まる直前だった。相手はわたしと同期でサークルに入った男の人。
「文章のおかしいところとか、直したいんだ」
「じゃあ、念入りにチェックしてみるね」
「よろしく。読子に読んで貰えるのは光栄だよ」
「どういたしまして」
微笑んで返事をして、受け取った小説に目を走らせる。普段よりも集中して。彼の小説を磨き、光らせるにはどうしたらいいか。
「……うん」
数ページ読んだところで、わたしはひと呼吸。まずはここまでを整理してから。
「えっ、もう?」
彼は少し驚いた顔をしていた。少し大きな声だったので、サークルの部屋で談笑していたメンバーがこちらを振り向いた。
「うん……順番に。いいかな? まず、ここのヒロインのところからね。はじめて出てきた人物を丁寧に描くのはセオリーどおり。でも、この登場シーンの紹介は美辞麗句で埋めつくされてて文章が重くて読みづらい。この子は豊かな長い髪が一番のチャームポイントだから、その印象を残すことばに整えて。あと、どのくらいかが人によって変わってしまう言葉は気を付ける。“まあまあ短いスカート”は人によって大きく変わっちゃうよ。そのスカートの短さをアピールする必要がないなら削ったほうが綺麗。形容するところが多くなってきちゃったら、その場で全部説明しようとしないで、必要なものを厳選するの。人の描写に限ったことじゃなくて、文章全体ね。あとは、単純にてにおはとか、言葉のリズムの崩れが――」
「ちょっ、ちょっとまって」
彼は話し続けるわたしを静止して、両手を振り、あたりを見る。
「読子、言いかたきついよ」
「えっ?」
「小説読んでって言ったけどさ、誤字脱字とか直してもらえるのかと思ったのに、そんな上からずけずけ言われたらなんか、気分悪い」
「……っ」
わたしの胸に真っ黒いもやがかかったような気がした。頭の奥のほうから、記憶が浮き上がってくる。一年も前じゃない、でも、深いところに隠して蓋をしていた記憶。
「書かない読子にそこまで言われたくない」
「……あ……」
わたしは苦しく感じて、自分の胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
彼はそのまま、荷物を持ってサークルの部屋から出て行ってしまった。
わたしが混乱した頭のまま、そこに黙って座っていると、サークルの代表の先輩がわたしのとなりに座る。
「読子さんは間違ってないよ。でも彼が考えてたことのギャップがあったことも確かだ」
「そうそう、あいつ下心があったんだよ、読子に近寄ろうと思って。あいつ、読子からビシバシ指摘されてたとき、都合悪そうにこっち気にしてたもん。かっこ悪いところ見られたって感じで」
言いながら近づいてきたのは、サークルの先輩の女性。わたしの背中をぽんぽんと軽く叩いて元気づけようとしてくれた。
「でも、でも、わたし、あの人を傷つけちゃって」
そこから先は出てこなかった。心の底で、記憶がまたたいてる。ハッハッと短い息が漏れた。
「……落ち着いて。読子さんのアドバイスは正しかった。でも、コミュニケーションとしては確かにキツかったかもしれないね」
「いいんですよ会長。読子、変えることないよ。読子に近づく奴の下心を見抜くいい手段だよ。読子と付き合っていいのは、読子の批評をまっすぐうけとめられる奴だけ」
「うーん、話変わってきてない?」
うつむくわたしをよそに、二人は話し続ける。
話し続けてくれているのがありがたかった。
「ま、これに懲りないで、これからもみんなの作品を読んでよ。彼ももっと受け入れるべきだったし、読子さんもやわらかい言葉を使ったら何かが違ったかもしれない」
代表の先輩からやさしく諭されて、わたしは無言で頷いた。
結局、わたしに小説を読むことを頼んだ彼はそれからサークルに来なくなってしまった。
この日のことで、わたしは知った。
誰にでも、小説について思ったことを全部伝えていいわけじゃないことを。
あの人との会話みたいに、全力でぶつかっていいわけじゃないことを。
いまのわたしは、書けないんだから、なおさらだ。
それからも、わたしはいろいろな人から小説を読むことを頼まれた。
そのたびに、わたしは言葉を気を付けるように心がけた。
結果はいつも思った通りにならなかった。
うまく伝わらなくて、文章がぜんぜん直らなかったり。
伝えたことばが厳しすぎて嫌がられてしまったり。
それに加えて、男性から小説を読んでほしいと呼び出されたのに、街中を一日連れまわされて、最後に部屋に来るよう言われて、断って帰ったこともあった。
小説が書けるようにもならないまま、時だけが経過していった。
それは、わたしがサークルの部屋で、ひとりで恋愛小説の文庫本を読んでいたときのことだった。
サークルの部屋の扉が開く。入ってきたのは、サークルの同期の男の人。
素朴なファッションで、なんだか頼りない印象で、背が高い。
ほとんど話したこともなかったその人は、わたしを見て、緊張した面持ちで言った。
「あの……よかったら、ぼくの書いた小説、読んでみてくれないかな」
わたしはいつものようにそれを快諾した。
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