【??】ゼロ(2)

 九月。

 二学期が始まった。

 放課後、学校の廊下で、帰ろうとするあの人を呼び止めた。


「選考、惜しかったね、えと……きっと、つぎは」


 その先を言う前に、あの人は大きな声をあげた。

 このときなにを言われたのかは、思い出せない。

 感情をたくさんぶつけられた。

 なにも言うことができなかった。

 哀しくて、わたしだけが先に進んでしまったことが申し訳なかった。

 あの人が泣いていた。

 わたしも泣いていた。

 きっと、どうしたらいいのかわからないのだろうなと、わたしは思った。

 わたしも、あの人も。わたしに起こってしまったことと、あの人が怒ってしまったことを、どう扱ったらいいのかわからなかったんだと思う。

 わたしとあの人は、そこから同時に逃げ出した。


 きっと、あの人は、張り詰めていたものが破裂してしまっただけなんだ。

 受験勉強と、小説の選考と、追いかけられるものが背負うプレッシャーと。

 わたしがあの人に、きっとその作品が賞を獲るなんて言ったから。

 だから、あの人によけいなプレッシャーをかけた。

 きっかけを見つけて、また話そう。きっと、いつかまた笑って話せる日が来る。

 わたしはそう思っていた。けれど。


 十月。

 あの人は学校に来なくなってしまった。

 仲直りしたいと思うわたしの希望は、かなわなかった。


 あの人だけではなく、わたしにも変化があった。

 わたしは、物語を紡ぐことができなくなってしまっていた。

 つい数カ月前まで、頭の中にあったいくつもの物語たちがぜんぶ、きれいに消えてしまっていた。

 手痛い敗北から成長して平和を勝ち取る勇者の物語も。

 学校の中で起こった小さな事件から、世界の陰謀に迫る壮大なドラマも。

 好き合う二人に降りかかるたくさんの障害と、それを乗り越えたあとのハッピーエンドも。

 ぜんぶ、霧散してしまった。


「……書けなくなっちゃった」


 十二時を過ぎて、机に向かってぽつりとつぶやいて、わたしはメモ帳の上にシャープペンを転がした。

 シャープペンは卓上を転がらずに、クリップでその場にぴたりと留まった。


 十一月。

 勉強だけをしていた。物語も読まなかった。読めなかった。

 国語と英語の小説文以外は、心が物語を寄せ付けてくれなかった。

 わたしに受賞の連絡をしてくれた出版社の担当者さんは、わたしが受験に専念することを伝えると、改稿と校正をすれば出版できるので、連絡してくださいとだけ伝えてくれた。


 十二月。

 勉強だけをしていた。


 年が明けて。

 あっという間に受験が終わり、両手の指のあいだから零れるみたいに高校最後の三か月が過ぎて、わたしは志望の大学に合格することができた。

 卒業式に、あの人はいたけれど、話しかけられなかった。

 『仰げば尊し』をみんなで歌って。

 『蛍の光』をみんなで歌って。

 担任から卒業証書を受け取って。

 学び舎に別れを告げて。クラスのみんなとご飯を食べに行こうと歩きだしたとき、視界の端にあの人の姿を捕えた。

 それが、わたしがみたあの人の最後の姿になった。

 クラスのみんなとご飯を食べて。

 別れがたくて、カラオケにも行って。最後にちょっと泣いて。


 春は来たけれど、私はやっぱり、物語が書けなかった。

 出版社の担当者さんには、物語が書けなくなって、受賞作の手直しもできなくなってしまったことを伝えた。

 担当者さんはゆっくり、また書けるようになったら、その時はいつでも遠慮せず連絡してくださいねと言ってくれた。いいものが書かれたら、それは人に読まれて輝くべきだからと言ってくれた。わたしはありがとうございますと言って電話を終えて、ちょっと泣いた。


 物語は書けないけど、読めるようにはなった。

 私は物語を貪るように読んだ。

 もう会えない、あの人を追い求めるみたいに。


 つぎの四月。

 大学に入ったわたしは文芸サークルの扉をノックしていた。

 一番最初に口から出たのは、書けなくてもいいですか、という質問だった。

 サークルの先輩たちは快く受け入れてくれた。作品を読んでくれるのも嬉しいことだからと言ってくれた。

 サークルに入ってから数か月、サークルのみんなの書いた物語を端から読んだ。

書かずに読むだけのわたしについたあだ名は「読子」。

 わたしは、物語を紡ぐのが目的の文芸サークルで、唯一物語を書かない「読み専」だった。

 サークルの代表の先輩はやさしく言ってくれた。

「仕事じゃないから、書かなきゃいけないなんて思うことはない。もし書きたくなったら、書けるようになったら書けばいい」

 でも、それからずっと、書けなかった。

 レポートも、英文の和訳も書けたけど、創作の物語だけは一行も書けなかった。

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