眼鏡ちゃんは紙の本が好き

湖城マコト

眼鏡ちゃんは紙の本がお好き?

 眼鏡ちゃんは、今日も屋上で読書をしていた。

 もちろん眼鏡ちゃんというのは本名ではなく愛称だ。本名は秋山あきやまさんというのだが、校内では眼鏡ちゃん呼びが完全に定着しており、学友たちは彼女のことをそう呼ぶ。

 愛称が示す通り、彼女のトレードマークはレトロな印象のべっこう眼鏡。ファッション用ではなく、きちんと度の入った普段使いの眼鏡で、眼への負担を極限まで削減した高性能コンタクトレンズが主流の現代において、純粋な眼鏡っ娘の存在は非常に珍しい。そういう意味でも、やはり秋山さんには眼鏡ちゃんという愛称がピッタリだし、彼女自身もその呼び名を気に入っているようである。

 そんな眼鏡ちゃんのもう一つの特徴。それは、暇さえあれば読書をしているということ。

 休み時間に読書をしている生徒なんていくらでもいる。にも関わらず眼鏡ちゃんが人目を惹く理由は、彼女がを嗜んでいるという点だ。

 紙の書籍が主流だったのはもう半世紀近くも昔の話。現在は、ダウンロードした書籍のデータをAR(拡張現実)により、視覚内に直接表示する方法が主流である。好きな時に好きな場所で好きな本を楽しめるとあって、若い層を中心に人気だ。

 次いで利用者が多いのは、携帯端末上に書籍データを表示するいわゆる電子書籍と呼ばれる形態。紙の書籍が一般的だった時代から存在するシステムではあるが、読書は手に持ってするものだという感覚が残る中高年を中心に、根強い人気を誇っている。

 そして紙の書籍はというと、現代ではマニアが収集する骨董品という認識が一般的だ。

 新規の紙の書籍の出版、流通はここ数十年一切行われておらず、世に存在する紙の書籍は、古書店の蔵書や個人のコレクション等に限られている。

 一部では趣味的に紙の書籍を製本している人間も存在するが、それもやはり少数派で、紙の書籍を目にする機会は、現代ではかなり減っている。

 そういった時代背景から、紙の書籍を嗜む眼鏡ちゃんの姿は、拡張現実を利用しての読書に慣れ親しんだ現代っ子たちの目には、とても新鮮に映っているのだ。


 しかし、どうして眼鏡ちゃんは紙の書籍を読むことに拘るのだろうか? 彼女が好んでいる小説はかなり昔にデータ化が成されており、ダウンロードすればいつでも拡張現実内で楽しむことが出来るにも関わらずだ。

 多くの友人達が抱いてきたそんな疑問に、今日こそは答えを出そうと意気込む一人の男子生徒がいた。

 彼の名は江戸川えどがわ英介えいすけ。特徴が無いことが特徴と自負するごく普通の男子生徒である。

 友人達からは無難に「英介」と呼ばれるか、「えいちゃん」等シンプルなあだ名で呼ばれることの多い英介だが、眼鏡ちゃんだけは彼のことを他の友人とは異なる愛称で呼んでおり、


「やあ、今日も読書に勤しんでいるようだね」

「あら、エドガーくん」


 瑛介の存在に気がついた眼鏡ちゃんが、読みかけの文庫本に何かを挟んでいったん閉じ、彼女特有の愛称で英介を呼ぶ。

 江戸川をもじってエドガー。この愛称は、江戸川乱歩のペンネームの由来となったアメリカの作家――エドガー・アラン・ポーから取ったものである。読書家である眼鏡ちゃんならではの命名といえるかもしれない。


「お昼は食べたのかい?」

「購買のパンで手短に済ませたわ。昼休みは、なるべく本を読んでいたいから」


 なるほどね、と短く頷くと、英介は眼鏡ちゃんの隣に胡坐をかいて座り込み、そっと彼女の手元にある古びた文庫本を覗き込んだ。


「今日は何を読んでいたんだい?」

大鴉おおがらすよ。ジャンルでいえば詩になるわね」

「凄そうなタイトルだね。作者は?」

「ポーよ」

「誰だっけ?」

「あなた愛称の由来になった人よ。エドガーくん」

「ああ、エドガー・アラン・ポーだっけ?」

「正解」


 よくできました、と言わんばかりに、眼鏡ちゃんは笑顔で細やかな拍手を英介へと送る。子ども扱いされているようで英介は一瞬ムッとしたが、眼鏡ちゃんの笑顔がとても可愛らしかったので、怒りは瞬間的にどこかへ飛んで行ってしまった。


「それで私に何の用? 聞きたいことがあってうずうずしてます。って顔に書いてあるわよ」

「僕って、そんなに分かりやすい?」

「いえ、かまをかけただけよ。その物言いだと、やっぱり何か聞きたいことがあるようね」

「……流石は読書家ってところかな」


 やられたと思い、英介はため息交じりに苦笑した。

 とはいえ、図らずもこれで質問出来る流れが出来上がった。


「前々から気になってたことだけどさ、眼鏡ちゃんはどうして紙の本に拘るの? ARの方が色々と便利だと思うんだけど」


 ARが好まれる理由は様々あるが、一番大きいのはやはり、紙の本と異なり、かさばらないということだろう。紙の本を持ち歩るこうと思えば、せいぜいバッグに一、二冊を忍ばさせる程度だろうが、ARならばダウンロードすることで様々な書籍データを好きなだけ読むことが出来る。それはいわば、膨大な蔵書量の本棚を常に携帯しているのと同じ。利便性も読書効率も、ARの方が優れていると言っていい。


「誤解の無いように言っておくけど、私はARもちゃんと使っているわよ? 今朝だって、電車の中ではARを利用して読書をしてきたし」

「それは少し意外だった。てっきり眼鏡ちゃんは、紙の本しか読まないのかと思ってたよ」

「印象の問題ね。私の、紙の書籍を使っての読書と、ARを使っての読書の割合は、半々くらいよ」

「半々? いつも紙の本を読んでいるイメージだったけど」

「きっと、紙の本を手で捲るという動作が、印象に残りやすかったのよ。ARを使っての読書は、一見しただけでは単に考え事をしているのか読書をしているのか、判別しにくいから」

「なるほどね」


 英介は感心してポンと手を叩いたが、それでもまだ疑問に思うところはある。

 割合は半々とはいえ、眼鏡ちゃんが紙の本を嗜んでいるのは事実であり、やはりそれ自体が現代では珍しいこと。彼女がどのようにして紙の読書に目覚めたのかは、やはり気になる。


「紙の本を好むのは、やっぱり質感とかページを捲る感覚がしっくりくるから?」


 紙の本を好む人の大半はそう言う。英介の言葉はいわば一般論に近い。


「確かに、質感やページを捲る感覚は気に入っているけど、しっくりくるというのは少し違うかな。ほら、私達の世代って生まれた時からARや電子書籍が当たり前で、身近に紙の本が無かったでしょう? もっと上の世代なら、やっぱり紙の本がしっくり来るなって感覚もあると思うけど、私達には懐かしむべき記憶や経験が存在しないから」

「それは確かにそうかもしれないね。でも、だったら何を理由に……」


 自身の持ち合わせている知識では答えに辿り付けそうにないので、英介は思い切って眼鏡ちゃん自身の口から説明してもらうことにした。


「率直に聞くよ。眼鏡ちゃんが紙の本に惹かれた理由は何?」

「強いて言うならこれかな」


 眼鏡ちゃんはそう言うと先程閉じた文庫本のページを開き、そこに挟めていた、鮮やかな花に彩られた長方形の紙のような物を英介へと見せた。


「これは何だい?」

「アナログなブックマークってところかな」

「ブックマークって、ホームページのURLを登録するあれだよね。そういえば、読みかけの書籍データをそのままの状態で記録しておくことも、ブックマークと言うけど」

「そう、これは紙の書籍用のブックマーク。日本語で言うなら栞ね。紙の本が一般的だった時代には、読みかけのページにこうやって栞を挟んで、どこまで読んだかが一目で分かるよう目印にしていたの」

「アナログなブックマークという意味は分かったけど、その栞とやらが眼鏡ちゃんが紙の本を気に入った理由なの?」

「そうよ。この栞、私のお手製なんだけど、凄く可愛いでしょう?」

「確かにとても華やかだね。本当に手作り?」

「失礼ね。私の手からは美しい物は生まれないとでも言いたいの?」

「そこまで言ってないって。ただ、僕は栞という物を見たのが初めてだったから、既製品と手作りの区別がつかなくて……」


 ならば仕方がないと、眼鏡ちゃんは深く溜息をついた。紙の書籍が身近に存在しない現代っ子たちが栞の存在を知っているはずもなく、英介のリアクションを責めるのは酷というものだろう。


「栞の作り方を教えてくださったのは、私のお婆様なの。お婆様が私達くらいの歳の頃は、まだまだ紙の本が当たり前で、亡くなったお爺様との馴れ初めも、読書好きだったお爺様に、お婆様が手作りの栞をプレゼントしたことだったそうよ」

「微笑ましい話だね」

「ええ。そんなロマンチックなエピソードと、押し花を使ってお婆様が手作りした栞の美しさに私は魅せられ、作り方を教わって自分だけのオリジナルの栞を作るようになったわ。様々な素材で栞を手作りしては、部屋に飾ったものよ」

「栞は、君にとっては芸術作品のような物なんだね」

「最初はそうだった。だけど、直ぐにはそれは間違いだと気付いたわ」

「間違い?」

「どんなに見た目が美しくても、観賞用に飾っていてはそれは栞ではないのよ。栞とは本に挟めておくための目印。本来の用途で使ってこそ、栞は美しく見えると私は考えたの」


 眼鏡ちゃんの言いたいことが何となく理解出来る気がして、英介は無言で頷いた。本来の用途に使用してこそ輝くというのは、あらゆる物に対していえることだろう。


「だから私は紙の本を読むことにした。栞を本来の用途で使ってあげたかったから」

「それが、眼鏡ちゃんが紙の本で読書をする理由?」

「理由と言うよりはきっかけね。紙の本で読書することはそれ自体も楽しいし、読書中の集中力はARを使った時よりも上だと思ってる。たぶん、指先に重みを感じるから意識を集中させやすいんじゃないかな。それと、栞を挟んでおけば本の厚みで残りのページ量を判断出来るのも面白いわ。書籍データだとページ数は数字でしか判断出来ないから。そういった新たな楽しみを発見出来ることも、紙の本の魅力なのかも」


 紙の書籍での読書を知らない世代だからこそ、全てが新鮮だった。こういった楽しみ方は、ある意味では若い世代の特権と言えるかもしれない。


「栞のために始めた紙の本での読書が、それ自体も楽しくなっちゃったんだね」

「そういうこと。情報としての読書を楽しみたい時にはARを、読書という行為自体を楽しみたい時には紙の本を。それが、今の私の読書スタイルよ」


 嬉々として語る眼鏡ちゃんの姿からは、彼女が心から読書を楽しんでいるのだということが十分に伝わって来た。ARと紙の書籍の両方を、楽しみ方によって使い分ける。もしかしたら眼鏡ちゃんは、この世界で最も読書というものを楽しんでいる一人なのかもしれない。


「話を聞いていたら、僕も紙の本に興味が出て来ちゃったよ」

「もしよかったら、今度貸しましょうか?」

「入門編みたいな物があるとありがたいかな」

「とっておきを選んでくるわ。お婆様から譲り受けた古書が、私の部屋にはたくさんあるの」

「出来れば、栞とセットだと嬉しいな」

「もちろんよ。今度手作りしてくるわ」


 栞と紙の書籍の話を出来たことがよっぽど楽しかったのだろう。眼鏡ちゃんの声は分かりやすく弾んでいたし、普段に比べて身振り手振りも激しい。


「栞はどんなデザインにしようかしら。男の子用だしかっこよさもあった方が、それともシックな感じに――」

「ははっ、眼鏡ちゃんは本当に栞が好きなんだね」


 早速頭の中で栞の設計に取り掛かっている眼鏡ちゃんの様子を見て、英介は微笑んだ。自分のための栞を作ってくれようとしているのだから、嬉しくもなる。


「実は、栞を気に入った理由はもう一つあるのよ」

「理由?」

「エドガーくん。私の本名は覚えている?」

「秋山――」


 言いかけて英介もそのことに気が付いた。そうだった。眼鏡ちゃん呼びが定着してはいるけど彼女の下の名前は、


「そうか、君の名前はしおりさんだったね」

「そうよ。私と同じ名前なんですもの。大事にしたくもなるじゃない」


 お手製の栞を頬に寄せ、秋山しおりは微笑んだ。

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