メガネのひと

群青更紗

第1話

 私が密かに「メガネさん」と渾名している人がいる。通学電車でよく見かける女性だ。渾名の理由は単純で、あまりにも目立つメガネをかけているのだ。

今時見かけないフレームとレンズ。子どもの頃のアルバムの、両親や祖父母の姿でしかお目にかかれないような、時代遅れのメガネ。

彼女はそれをかけている。野暮ったい。非情に野暮ったい。

しかしスーツやブラウス、パンプスやアクセサリー、それに髪型は、全然野暮ったくない。それどころかむしろ、洗練されてさえいる。スタイルだって悪くない。いやはっきり言って、美しい。後ろ姿だけ知っていたなら、きっと渾名は違っていただろう。

しかし前から見ると、全てがメガネに集約される。なぜそれを選んだのかと言いたくなる、印象深いメガネ。最初見たとき、思わず凝視してしまい、目が合ってしまって慌てて逸らした。それでも視界の端で捉え続けてしまうほど、強烈なファースト・コンタクトだった。そしてそれから二年、彼女はずっと、そのメガネのままだった。

そしてその春、社会人になった私は、彼女が上司になると紹介されて思わず固まった。


メガネさん――否、向坂さんは、優秀な人だった。仕事はテキパキとこなし、動きには無駄がなく、トラブルが起きれば原因解明と再発防止システムの構築に何よりも重きを置いた。どんな些細なことでも不安があれば報告連絡相談を必ずするよう言われ、またそれをしやすい雰囲気を作ってくれる人でもあった。雑談をすることは殆どなかったが、仕事とプライベートを分けたい私としてはむしろありがたかった。


「向坂さんのあれって伊達メガネよね」

ある日、隣の部署の女子社員が、化粧室でそんな話をするのを聞いた。

「うそ、ホントに?」

「うん、だってレンズ越しなのに、輪郭が映り込んでないもの、絶対そうよ」

「だったら何でわざわざかけてるんだろ?」

「お洒落だと思ってるのかな?ダッサイのにね」

「もったいないよね、仕事出来るし他の見た目は結構いいのにさ」

 私は会話に巻き込まれないようにサッと出て行ったが、そのあと席に戻ってチラリと向坂さんを見た。向坂さんは向かいの席で書類を真剣に見ており、確かにそのメガネは度有りのそれとは違うとはじめて気付いた。フレームにばかり気を取られていた。

 しかし、なぜ伊達メガネをかけているのか。事実、メガネさえなければ完璧なのにと私だって思っていた。けれど、それは絶対に聞けないと思った。


 向坂さんが結婚したのは、その一年後だった。同じビルに出入している営業社員で、イケメンとして密かに女子社員の憧れとなっていた人だ。

 白無垢に身を包んだ向坂さんは、いつものメガネはかけておらず、メガネ姿に慣れていた私たちはただただ息を呑んだ。美男美女の婚礼だ。

「あれって男避けだったのかな」

 隣の同期がポツリと呟いた。私はそれには首をひねった。新郎が十人並みの器量ならそれも考えられるが、あの新郎では考えにくいと私は思った。あるいは余程の狭量者かとも考えたが、だったらあの向坂さんが結婚するとは思えなかった。そんな私たちの考えを余所に、祝言は滞りなく進んでいった。

 さてその後、新婚旅行から戻ってきた向坂さんは、またあのメガネ姿に戻っていた。謎は深まるばかりだが、それを解明する日は、きっと永遠に来ないだろう。その隙を彼女が与えてくれるとは思えない。ただ偉大なる上司として、その部下として、黙々と付いていくだけだ。


「道しるべ?」

 美咲は首を傾げた。病床の父はゆっくりと頷いた。

「残念だが、父さんはもう長くない。しかしお前を一人置いていくのは心許ない。だから父さんが死んだら、このメガネはお前がかけるんだ。このメガネは、父さんの父さんも、そのまた父さんも、ずっと継いできたメガネだ」

「魔法のメガネなの?」

「そう言えるかもしれないし、そう言えないかもしれない。けれど、お前が困ったとき、このメガネが助けてくれる。見てのとおり古い形だ。無理にかける必要はない。ただ、出来れば持ち歩いて、進む道を迷ったときに、かけて遠くを見なさい。それだけでいい」

 美咲は手渡されたメガネかけて父を見て、少し見つめたあと、そっと外して父に返した。

「分かったわ、約束する」

 それを聞いて、父は安心したように笑った。

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メガネのひと 群青更紗 @gunjyo_sarasa

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