エピローグ 非常なる掟

 土御門晴信は妖気を喪失し、穏やかな顔になっていた。

「終わったのね」

 藍がホッとして呟くと、

「いや、終わってはいない」

 雅が言った。藍、仁斎、泉進が一斉に彼を見た。

「どういう事だ?」

 仁斎が尋ねる。雅は晴信を見たままで、

「黄泉路古神道を修得した者が妖気を失うという事は、不老不死の力も失うという事だ」

「何!?」

 仁斎はギョッとして晴信を見た。

「おおお!」

 晴信自身も、自分の身体の変わりように気づいていた。彼の顔は急激に老い始めた。かつて雅が戦った小山舞が妖気を消失した時と同じように。皺が寄り、眉は白くなり、髪が抜け落ちて行く。歯も取れた。

「……」

 藍はあまりの事に声も出ない。仁斎は歯軋りして、

「そうか。黄泉路古神道の使い手は決してその道から戻る事ができぬのか……」

 泉進は厳しい表情で雅を見た。

(雅はそれを承知しながら、藍ちゃんを助けるため、そして自分の両親の敵を討つために黄泉路古神道に手を染めたのか……)

「あのままの方が良かったっていう事なの……?」

 藍は目に涙を浮かべ、晴信を見た。すると晴信は、その老いさらばえた顔を藍に向け、

「いや。そのような事はない。私は人として死ぬる事を望む。気に病むな、小野楓の生まれ変わりよ」

と言うと、弱々しく微笑んだ。藍はその言葉にピクンとした。

「お騒がせした、小野の方々。私もどうにか、晴雄様や晴栄様のいらっしゃる天に行けるようだ。かたじけない」

 晴信はゆっくりと頭を下げた。その途端、彼の頭が土くれのように崩れ落ち、腕が砂のように細かく散って行く。脚も折り畳まれるように粉々になり、晴信の身体は消えてしまった。

「は!」

 藍は自分に降りていた倭の女王と楓、そして椿が光に包まれ、晴信の魂を誘うように天へと昇って行くのを見た。

「おお……」

 仁斎と泉進もその光景を目の当たりにしていた。

(何と神々しい……)

 仁斎は柄にもなく目を潤ませていた。そして、隣の泉進に気づかれないように顔を背ける。

(これでようやくあの社も役目を終えたな)

「ありがとうございます」

 藍は晴信を導いて行く倭の女王、そして楓と椿に向けて、柏手を打った。やがて光は空高く舞い上がり、見えなくなった。

「凄いな……」

 気を失ったままの本多晴子を気遣いながら、剣志郎は光が消えて行った方を見上げていた。

「雅」

 藍のその声で、剣志郎は急に現実に引き戻される。彼はギクッとして藍の方を見た。藍は当然の事ながら、雅を見ていた。

「貴方も、いつかはああなってしまうの?」

 藍は涙を流しながら雅に近づいた。雅は藍を見て、

「俺はまだそこまで長生きはしていないから、あんな風にはならない。だが、妖気を全て捨て、黄泉路古神道を捨て去れば、死ぬ時は土くれのように崩れ落ちて消えるだろうな」

「そんな!」

 藍は走り出し、雅にすがりついた。剣志郎はその光景を見ていられなくなり、晴子を見た。

「その子は大丈夫だ。妖気を吸わされてはいたが、それほど長い時間ではないからな」 

 泉進は、剣志郎の思いを察して、彼に話を合わせているのだ。

「そう、ですか」

 剣志郎は苦笑いをした。しかし、晴子が普通に生きて行けるのを知って、ホッとしたのも確かだった。

「但し、人を殺めてしまった事は、その子の記憶に残っている。それは、その子自身が乗り越えるしかないのだ」

「ええ?」

 剣志郎はその現実を知り、驚愕した。

(警官を殺してしまった事を認識しているのか? そんな……)

「何より辛いのは、例えそれを誰に言おうと、決して信じてもらえないし、罪にも問われないという事だ」

 剣志郎は晴子を見た。

(この子はそれだけの事を堪えられるのか?)

 

 雅と藍のやり取りも続いていた。

「私にできる事はないの?」

 藍は潤んだ瞳で雅を見上げた。雅はそっと藍を押し戻し、

「残念ながら何もない」

と告げる。藍はそれでも、

「そんな簡単に言わないでよ。少しは考えてよ、雅!」

と駄々っ子のような事を言った。しかし、雅は、

「考えたところで、言う事は一緒だ。何も手立てはない」

 藍は唖然としてしまう。雅はスッと藍から身を引き、

「だから、もう俺の事は忘れろ。お前の思いに答える事はできない」

と言うと、スーッと根の堅州国に消えてしまった。

「雅……」

 藍はその場にしゃがみ込み、涙を流した。仁斎は藍にかける言葉を思いつけず、只黙って彼女を見ていた。


 こうして、明治以来続いていた因縁は終わりを告げた。


 晴子は病院に入院し、精密検査を受けた。当然の事ながら、彼女には異常は見当たらなかった。

「私はどうすればいいんですか?」

 数日後、晴子は見舞いに訪れた藍と泉進に尋ねた。泉進は、

「儂のところに来るか? もうすぐ冬休みだから、修行をして奇麗さっぱりするのがいいぞ」

と提案した。晴子はどう答えたらいいのかわからず、藍を見た。

「そうしなさい、本多さん。貴方の記憶から、嫌な事を全て消す事はできないけど、泉進様と行を積めば、何か見えて来るかも知れないわ」

 藍は微笑んで言った。晴子は小さく頷き、

「先生がそう言うなら……」

と言った。そして、何故か頬を染め、

「本当は小野先生にも来て欲しいんですけど……」

「ええ?」

 藍は晴子のそのリアクションにギクッとした。

(まさか、本多さん、本当に女性が好きなの?)


 また、剣志郎は驚きの話を聞かされていた。

「武光先生が?」

 彼は理事長室に呼ばれていた。最初は、藍との事を訊かれるのかと思った剣志郎だったが、安本理事長の話は、武光麻弥が今年いっぱいで教職を辞めるというものだった。

「武光先生は、夏頃からずっと、職を辞したいと言っていた。決して、君と小野先生の事を気に病んでではない事は承知しておいてくれ」

 理事長の傍らに立つ事務長の原田が言い添えた。

「そ、そうですか」

 剣志郎は、そう言われても素直に喜べない。

(結局は、優柔不断な俺のせいのような気がする……)

 すると原田がニヤリとして、

「どうしたね、竜神先生? 小野先生との事を訊かれると思っていたのかね?」

と突っ込んで来た。剣志郎は隠すのは無理だと判断し、

「はい」

「君にそんな度胸があるなら、武光先生と付き合ったりはしなかったと思うから、訊く必要なしと判断したんだよ」

 原田事務長は嬉しそうに言う。剣志郎は溜息交じりに、

「そ、そうですか」

と応じた。安本理事長はクスクス笑っていたが、

「とにかく、受験生にはもう時間がない。これからもよろしく頼みますよ、竜神先生」

「はい!」

 剣志郎は背筋を伸ばして返事をした。


 放課後になり、晴子が入院している病院から戻った藍がバイクを停めて、教職員専用の玄関に歩き出した時である。

「藍」

 不意に剣志郎が玄関から飛び出して来て、藍の前に現れた。

「どうしたの、剣志郎?」

 藍は剣志郎が真剣な表情なので、ドキッとして尋ねた。剣志郎は周囲を見渡して誰もいないのを確認してから、

「この前、俺が入院していた時に、お前に言った事の返事、まだ聞いていなかった。聞かせてくれ」

と一気に言い切った。藍は更にドキッとした。

「へ、返事?」

 彼女は剣志郎を見上げ、尋ね返す。

「そうだよ。返事だよ」

 剣志郎は、本当は心臓がパンクしそうなくらいなのだが、原田事務長に、

「押して押して押し捲らないと、小野先生は答えてくれないぞ」

と言われているので、いつもより踏ん張っていた。彼は藍に、

「俺はずっと藍の事が好きだった」

白面しらふで初めて言ったのだ。その答えを訊こうとしているのである。

「私は……」

 藍はグッと詰め寄って来る剣志郎に後退りしながら、

「私は?」

 剣志郎が全然普段と様子が違うので、藍は覚悟を決めた。

(剣志郎が真剣なんだもの、私が逃げるのは許されない)

 藍は剣志郎を真っすぐに見た。そして一度深呼吸をしてから、

「九州の病院での事、あれ、その場の雰囲気に呑まれた訳じゃないわ。貴方となら、そうなってもいいって思ったからよ」

 それでも、

「私も貴方が好き」

とは言えない。それでも剣志郎は仰天していた。あの時、由加達が入って来なければ、二人は間違いなくキスをしていた。

(あ、あの時も藍は俺の事を……)

 あの出来事以降、二人の関係は全く進展しなかったので、剣志郎は自分の独り相撲だと思っていたのだ。

「貴方の方こそ、武光先生に未練があるんじゃないでしょうね?」

 藍が剣志郎の顔を覗き込む。

「な、ないよ。断じてない!」

「酷い男ね」

 藍はニヤッとして言う。

「あ、いや、その……」

 剣志郎はドギマギして頭を掻く。すると藍は、

「でも、もう少し時間を頂戴。気持ちを整理したいから」

と真顔になって言うと、そのまま玄関へと歩みを進め、仮校舎の中に消えた。

「時間、か」

 剣志郎は藍が歩き去った玄関をしばらく見ていたが、

「そうだな。何年も待ったんだ。まだ待てるさ」

と独り言のように言うと、駐車場へと歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヒメミコ伝 鬼の復活 神村律子 @rittannbakkonn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ