第2話 罪滅ぼし
「こちらが頓服薬です。そしてこちらが、夜寝る前に飲むお薬になります。」
おくすり手帳がいっぱいだから、と、新しいものに替えてもらったら、可愛らしいウサギのキャラクターがデザインされたものになった。
「合計で8千6百8十円です。」
この薬剤師は俺が子供に見えている?確かに俺は大人っぽい顔付きではないが、少なくとも年相応くらいには見えてると思うのだが。
「おだいじにどうぞ。」
普通のおくすり手帳とキャラクターデザインのおくすり手帳どちらが良いですか、とか普通は聞くものではないか?なぜ何も言わずにこれにしたんだ。
ゴチャゴチャした頭のまま薬局を出て、まっすぐ家に向かった。
途中で雨が降ってきた。どんどん強まっていった。俺は走ったけど、やっぱりべちょ濡れになって到着した。
そんなに広くない2LDKのこの部屋は、東京のとあるマンションの5階にある。
玄関のドアの鍵を閉めたらすぐに靴と一緒にTシャツを脱いだ。リビングには入らず洗面所に向かってバスタオルを取る。
濡れた身体を拭きながらそのまま冷蔵庫へ向かった。残り少ない麦茶が冷えていたからコップに注いで一気に飲んだ。
玄関から物音がする。健太さんが帰ってきたのだろう。時計を見たら、昼の12時20分だった。
確か今朝、健太さんは午後の講義がオープンキャンパスでなくなったと言っていた。健太さんはオープンキャンパス運営に参加しなくていいのだろうか。
「ただいま。」
「おかえりなさい、雨大丈夫でした?」
「うん、傘途中で買ってん。」
コップをしまっているとリビングに入ってきた健太さんの姿が見えてきた。
「陽汰(ようた)雨あたったん?」
上半身裸のままバスタオルを纏っている俺を見て、健太さんは驚いた様子だった。
「もう、くすり手帳は変なやつにされるわ雨でベチョベチョんなるわ、ホンマ嫌なる。」
健太さんはテーブルに置いてある貰いたてのおくすり手帳と薬を手に取ってふふっと笑った。
「でも薬減ったやん、よかったな。」
「まあ、そこは。」
「てか、暑ない?」
「暑い。」
8月の雨はどうも蒸し暑くて嫌いだ。ほとんどの人間が同じ意見だろう。虫も湧くし、ベタベタするし、何も良いことがない。
帰宅して早々にエアコンをつけるというのは、現代っ子らしい行動だ、といつも思う。俺も健太さんもエアコンに電気代をかけることに特に躊躇がない。それよりも汗を無駄にかいてシャワーを浴びる水道代方が勿体無いという考えだ。
健太さんがエアコンを操作してまもなく、室内には涼しい風が生まれ俺の半身を撫でるようにして走っていった。
「学校何時からやっけ。送るよ。」
「え、助かります、16時からです。」
「この雨やからなあ。バスあんま乗りたくないやろ。」
俺は夜間高校の1年生。でも歳は現役大学2年である健太さんの1つ下。
俺と健太さんは中学時代の知り合い。部活で仲の良い先輩後輩の関係だった。
健太さんは中学2年の冬から学校に通えなくなった俺をずっと心配してくれていて、やっと復活を遂げ東京へ一人暮らしをすることになった18歳の俺に「いきなり1人は大変だろうから一緒に住めばいい」と言ってくれた。健太さんもちょうど東京の大学に通っていたのだ。
雨は夜も続いた。夜間高校のクラスの友達によれば台風が通過するらしい。きっと夜には風が吹く。
夜9時、本日の授業が全て終わった。連絡するまでもなく健太さんは校門前に車で迎えに来てくれていた。
「健太さん聞きました?今晩、台風通過やって。」
「なんやホンマか。流星群って聞いたで。」
「アホ。見れるわけないやろ。」
「えー、残念。」
健太さんは優しいけどアホな人だった。勉強も気遣いも得意なのに、どうもたまに変なことを言う。
これを健太さんのことをあまり知らない東京人は「やっぱ関西の人って面白いね」と評価する。どうか健太さんのこれはガチ天然だということに早く気付いてほしい。正直、一緒にいて疲れるときも少なくない。
「あ、聞いて。今日めっちゃ汗かいたから早めに風呂入れてん。陽汰も家ついたらすぐ入んな。」
「そうします。……ごはんは?」
「あーそれはちょっと忙しくて。」
「じゃあ俺が風呂上がったら作りますか。」
「や、ええよ。もう遅いし、腹減ったらカップ麺食うわ。」
俺は学校がある日は給食があり、健太さんもバイトの日はバイト先でまかないごはんを食べるので、夜ごはんを共することは滅多にない。
ただでさえ普段から世話になっているのだから、せめてこういう日の夜ごはんくらいは作らせてほしかった。でないと申し訳なさで落ち着けない。
どうしてそういう俺の気持ちが分からないのだろうか。俺が健太さんだったらきっとここで夜ごはんを作ってもらった。それが本当の気遣いだろう。
「そういうところじゃないッスか、彼女できない原因。」
「ん?なにが?」
「そこでなにが?とか言っちゃうところ。」
「ん、ええのええの。俺は今お前の世話でいっぱいいっぱいやから。」
「陽汰飼うとやっぱ彼女できへんわー。」と1人で笑う健太さんを見ていたらなぜかため息が漏れた。俺はペット感世話されているのか。申し訳なさを感じている自分がアホらしくなってくる。もう突っ込むのも面倒になってやめた。
家の中はクーラーがつけっぱなしであったらしく大変気持ちの良い空間が用意されていた。
俺は車の中で言われた通り、リビングに荷物を置いてすぐに風呂に入ることにした。
台風が近づいてきたのか空が鳴っている。空腹時の内臓みたいな音だ。
ドアは閉めない。風呂やトイレといった窓の無い閉所が嫌いだった。風呂場から漏れる湿気を少しでも減らせるように換気扇を回す。
風呂は時間が経過していたためか少しいつもよりぬるめに感じたが、夜に火照って寝付けなくなることを考えると丁度良いくらいかなと思いそのまま浸かることにした。
顔を強く擦ると瞼の筋肉がほぐれたようで気持ちよく感じた。一日の疲れがスッと取れるようだ。
紅茶の香りが漂う。コーヒーが苦手だったからと代わりに始めたのがきっかけだった。始めは、なんとなく市販の紅茶葉をいくつか買ってみて淹れてみる。だんだんそのうちに種類によって香りや味わいが微妙に違うことに気付き、いつしか自分の好みの味ができてくる。
いつの間にかアッサム紅茶にミルクを足すのが定番になっていた。濃い目に茶を淹れて、温めておいたミルクの上にちょっと勢いをつけて注ぐと手間がかからずに美味しくできる。
陽汰が風呂場へ行くのを見送ったころ、外からゴロゴロと音が聞こえてきた。雷だ。獣の唸り声にようにも感じる。やっぱこれじゃあ流星群は見られなさそうだ。
夜に机上の照明だけの薄暗い空間でネットサーフィンをするのが趣味なのだが、今日はどうしてもピカピカと外が光るのが気になってうまく進まなかった。なんとなく外が光った瞬間、心臓がドキッとして手が止まってしまうのだ。
途端、ドン!と強い衝撃音が響いた。どのくらい近くに落ちたのだろうか。心なしか窓ガラスも震えたように思えた。机上の照明がチカチカと点滅し、ノートパソコンのディスプレイと共にとうとう消えた。
あたりは真っ暗闇。クーラーや冷蔵庫の音も消え、急に来た静寂のせいでシーンと耳鳴りがする。
いけない。陽汰が風呂に入っている。
陽汰は5年前、ある事件に巻き込まれ、それからずっとPTSDを引きずっていた。未だ暗所や閉所をはじめとした"あの日”を思い出させるもの全てが彼のトラウマスイッチだ。
「陽汰!」
慌てて陽汰を呼んだ。返事も待たぬまま、携帯のライトを頼りに風呂場へ駆けた。
ノックもせずにドアを開くと、陽汰が大げさに驚き悲鳴をあげた。
「やだ!」
「陽汰落ち着いて大丈夫、雷が落ちて停電しただけやから。」
陽汰がじたばたするたびに俺にあたたかい水しぶきが飛んできた。
前に医者に聞いた通り、耳と目がふさがるように頭を腕で包む。すると陽汰は抵抗して俺の耳たぶを掴んで引っ張った。痛いというほどのものではない。
「はい、深呼吸。鼻でゆっくり吸って。」
そのくらいに再び電気がついた。クーラーや冷蔵庫も復旧し耳もホッとする。
「口で吐いて。」
陽汰は混乱していたようだったがなんとか指示に従ってくれた。もう一度深呼吸をさせて頭を開放したら、もう暴れることはなかった。
「今薬持ってくるな。」
「い、いい。後で飲む。もうあがるから。一人にせんといて。そこで待ってて。」
「分かった。」
まだ身体が少し震えているものの、言葉を冷静に紡ぐ陽汰を見て安心した。すぐに駆け込んだお陰かそんなにひどい状態にはならなかったみたいだ。
俺は洗面所を出てすぐの廊下で陽汰を待った。念のため「ちゃんと待っているよ」と知らせるために鼻歌を歌ってみる。
「ごめん健太さん、おおきに。助かりました。」
「ん、いや、すぐようなって良かったわ。電気もすぐ戻ったしな。」
いつもの寝間着姿に頭にバスタオルを被った状態で陽汰は出てきた。幸せなせっけんの香りと会話の深刻な雰囲気が合っていないのがいやだ。
「もう5年くらい経つのにな、いつまで俺こんなんなんやろ。」
頓服薬と水を用意しながら陽汰は笑った。なるべく明るい調子にしたつもりなのだろうが、俺にはそう聞こえなかった。
「そんな心配せんでも、回復してきてるし。俺もおるし、大丈夫やって。」
また空が光った。合わせて一瞬横隔膜が突っ張った気がする。
「せやな、ぐずぐずしてたら治るもんも治らんくなりそうやし、やめる。」
陽汰がこんなふうに前向きな発言をしてくれるようになったのは本当に最近になってからだ。
1年くらい前まではずっと怖い怖いと泣きながらこんな己の弱さが嫌だと頭を抱えていた。
陽汰を変えたきっかけは東京だ。思い出のつまった関西より、東京にいる方が過去のことを振り返らなくてすむのだろう。東京の高校に行くと決めてからの陽汰は誰から見ても劇的に前と違っていた。
俺が陽汰の東京への進学を協力したのは罪滅ぼしのつもりだった。5年前陽汰を事件に巻き込んだのは俺なのかもしれない。事実はどうか分からないが、そんな気がしてならないのだ。
陽汰が毎日病室で苦しんでいたのはよく知っていたが、俺だってきつかった。だから陽汰に世話を掛けているのは陽汰のためなんかじゃなくって自分のため。分かっている。
「うん、せやな。よし。もう寝た方がええ。俺も明日早いし、寝よ寝よ。」
気が付いたら立ったまま己の頭を抱えてしまっていた。違うんや陽汰、これは、お前のことを怒っているとかじゃなくて、そう、ただ眠くってこういう体勢になっちゃったんやで。
「うん、おやすみなさい。」
陽汰は俺の飲みかけのミルクティーや自分の水を片付けてくれた。
やめてほしい、陽汰がそういうことをする分だけ俺の罪滅ぼしが遠ざかっているような気がするのだ。どうして陽汰は俺のそういう気持ちが分からないのだろうか。俺が陽汰ならもっと頼ったり甘えたりする。それが本当の気遣いだろう。
結局、その日俺が寝付けたのは午前3時をまわったころだった。
深淵に咲く 佐藤六玄 @rokuro999
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