深淵に咲く
佐藤六玄
第1話 ゴッホ
その青年の左耳は欠けていた。だからあだ名はゴッホだった。
ゴッホは不思議な人間だった。髪の毛と眉毛を白に近い金色に染めており、肌はそれに負けないくらいに白かった。ぱっと見ただけでは西洋人と勘違いする人がいてもおかしくはないくらいだ。だが確かに目の色や顔の造形は日本人のそれで、顔だけを見ると目が嫌にぎょろぎょろとしてしまった日本人形のようであった。
見た目だけでもこう不思議なのだが、彼は見た目に相当する人格の持ち主でもあった。俺が感じた限りでは、羽のようにふわふわとしていてるのに、真っ暗な深海の底を掘り進まんとしているような奴だ。
俺がゴッホと初めて出会ったのは、大学に入学して1か月が経ったころ。そろそろ大学生活に慣れてきたかと思った俺は、部活やサークルの所属を考え、とりあえずとテニス部へと足を運んだのだ。
テニスは小学のころからスクールに通っていたために、俺にとっては一番身近なものであった。「こんにちは。」と挨拶を零しながら活動真っ最中のコートへ歩き、フェンス越しにそこの先輩たちを見た。
先輩たちはすぐに俺を新入部員だと判断し、そのうちの2人が俺の方へ近づいてきた。
「新入部員?」
「はい。」
「もう入った?」
「まだです。」
「マジか、一年生だよね?経験者?」
「まあ、一応。」
「お、マジで。やった!今年団体戦のメンバー困ってたんだよね。」
その人はどうやらテニス部の男子部長らしかった。あまり背は大きくないが、肌は綺麗に焼け、筋肉が小柄ながらにがっちりとついているのがいかにもテニスの選手らしかった。他にも女子部長がいるらしいが、今はその姿は見られない。
部長さんはすぐに携帯電話を取り出し俺に連絡先を聞いてきた。部活動のやりとりはほとんどグループトークのアプリで行っているらしく、俺もすぐにそのグループに入った。
「砂原元矢くんね。専攻どこ?」
「あ、えっと、教育の美術です。」
「教育美術?レアじゃん。多分だけどテニス部史上初だよ。」
「マジですか。ああ、まあ確かに、そうかもしれないっすね。」
俺はこんな今日すぐに部員として扱われるとは思っていなかったためにテニスらしい準備など全くしてこなかったのだが、別に構わないと、運動用ではないスニーカーとジーンズ姿のままコート内へ案内され、そこで自己紹介をするよう言われた。
そこに新入部員として立たされたのは俺だけではなかった。そいつも今日テニス部に入ってきたばかりだという。5月に部活に入ってくる人なんて珍しいと思うから、その偶然を俺は奇跡のように感じた。たまたま同じ日に俺と同じようにテニス部に入ってきた一年生、そいつがゴッホだった。
「人間社会科学1年の白崎昴です。よろしくお願いします。」
皆のとまどいを隠せない拍手がぱらぱらと響いた。やはりその見た目や、一年生とは思いがたい貫禄が異様であったのだ。
さらさらな白金のショートヘアーと濃い水色の空が、まるで印象派の絵のように鮮やかに輝いていた。
「テニスやってたの?」
コートからの帰り道、自然と俺とゴッホは会話をし始めていた。
「してたよ。中学まで。」
「高校ん時は?」
「帰宅部。勉強してたから。」
なぜか俺とゴッホはあっという間に仲良くなれた。下手をすれば1か月間共にしてきた同専攻の仲間よりも話せていたかもしれない。
彼の問題のその左耳はどうやらピアスを引っ張られて千切れてしまったからだという。その話は恐ろしくてまともに聞けなかったので詳細は分からない。新入生と思えないその貫禄の正体は実際に年齢が一つ上であるせいのようで、去年までは関西の有名なK大学に居たという。
「なんでそんなすげー大学辞めたの。」
「色々あったんだよ。そのうち話すかもな。」
ゴッホの返事はいつも一歩先だった。俺が次に質問しようとしていたことまで先にまとめて答えてくるのだ。大学にいたくらいだし、その会話術からしても余程頭が良い男なのだろうと感じさせられた。
その次に俺が言った「K大でもテニス部だったの?」という話は、特になんの考えもなく言ったことだった。ゴッホはクールなままで「うん。」と答えた。俺はそこでふと去年K大学のテニス部で起こった事件を思い出す。
「あれ?去年K大のテニス部って死者出たよね?急性アルコール中毒で。」
その事件については当時全国ニュースにもなっていた。今年俺が大学に入学してからも、大学のオリエンテーションと同時に行われたアルコール講習会というもので話題にされていた。
「うん、ああ、アレね。秋ごろの。……同級生だよ。」
何の気無しに聞いてしまったが、同級生と聞いた途端に「やってしまった」と悪い気持ちになってしまい、そこからは俺は無難な返事しか返すことができなくなった。するとゴッホは少し笑って気にするほどの事じゃないとフォローをしてくれた。
それが優しい男だからなのか、本当に気にする程のことではないと思っているような薄情な男だからなのかは分からなかった。
「同級生って言ってもそんなに仲が良かったわけでもないし、アルハラとかがあったわけでもないし、そこまで責められはしなかった。でもやっぱそいつは未成年だったから、テニス部みんな怒られて、部活動は今休止してるんだ。」
「ゴッホが、K大を辞めたのとは関係ない?」
「うーん、ちょっとある。いや、大分ある。でも気にしないでいいよ。
俺、こっちの大学の教授にずっと習いたかった人がいたんだ。それが一番デカいかも。……って、さっきそのうち話すって言ったのに、今言っちゃってるな。K大辞めた理由。」
事件のことを言うと空気が重くなるかもしれないから、とその話を避けたつもりだったらしい。そのままゴッホは気まずそうに頭を掻いて視線を逸らしていた。
だが俺の雰囲気を見て大丈夫だと判断したのか、ゴッホはすぐにそれをやめて、いつものようにダルそうな遠い目をした。
俺は割と明るくて素直な性格だから、皆にも打ち解けやすいと評判だった。ゴッホもきっと俺のそんなところに釣られたのかもしれない。
「お前さ、えっと、元矢ってさ、モテるだろ。」
「なんで?」
「なんとなく。俺とこんなに話せるとか、コミュニケーション能力めっちゃ高いよ。」
そっかな、って笑って俺は返したけど、そんなことより俺はゴッホの「高い」という言葉のイントネーションが関西のものに近かったのが気になった。でも京都にいたという答えがある以上、俺はそこに突っ込むのも面倒な会話だろうと思って黙ってしまった。
ゴッホは静かな男だ。俺から何か話さない限り、中々言葉を発してくれない。対して俺はおしゃべり好きであり、女子たちからは犬のようだと言われるくらいであった。そういうところが俺とゴッホの良い相性関係を築いていたのだろう。
間もなく、ゴッホがもう家の前に着いたと言って、俺たちはその日は別れることになった。
俺がそのとき見たゴッホの家とやらはどうやら大学から徒歩10分程度の大きなマンションの一部屋だった。そこは大学から近い割に大学生はほとんど住んでいないくらい高級なところだ。オシャレ物件、という言葉が相応しいかもしれない。
一方俺は大学近くの電車駅から駅を2つ越えたとこにあるアパートで一人暮らしをしていた。家賃月7万のワンルーム。ある程度は狭いけど、汚いわけでもないし、いや、むしろ綺麗な部屋だと俺は思うし、風呂もトイレもある。普通の一人暮らし用物件だ。
ポストを覗くとピザ屋のチラシが一枚入れられていた。俺はそれをよく読みもせずに握り潰して部屋へ入った。適当な場所に鞄を置いて携帯を開くと、いくつかの通知が来ていた。俺はそれらの全てを無視してすぐにゴッホに初めてのメッセージを送った。
「砂原です!今日は楽しかったよ、今度一緒に飲みにでも行こう。」最後に無難な笑顔の絵文字を付ければ完成だ。迷いもなく送信ボタンをタップする。
だが中々ゴッホは読んでくれていないらしく、既読マークが付かないまま俺は夕飯作りへと行動を移すことにした。
ゴッホの返信はとても早いときがあれば、中々既読が付かないときもあった。本当に遅いときには、次の日なんかに顔を合わせたときにメッセージを読むよう促して初めて気付くような時もあった。大学生らしかぬ習慣で生きているのだろうと思う。
本人から聞いたところによれば、彼の部屋にはテレビもゲームもなく、暇を潰せるものといえばパソコンか本くらいしか用意していないのだとか。そしてまたゴッホは「今度部屋に連れて行ってよ」と俺が言う前に「今度機会があったら入れてやるよ」と先手を打ってくる。そのせいで俺は相変わらず後者的な発言しかできないでいた。
もう6月も終わろうかという時には、大学でゴッホの存在はもうかなり有名なものになっていた。
ゴッホはその独特の風貌の他にも目立つものを沢山持っている。先月行われた体育祭では、ゴッホはゼミ内での選手決めのために行われた体力テストの成績が大学内トップクラスであった。そのためゴッホは一年生でありながらチームのキャプテンの役を担うことになったのだ。体育祭当日もいくつもの試合に出場し、そのほとんどで十分な活躍を見せた。そして気が付けば学年や専攻、男女を問わずゴッホのファンが誕生していた。
俺も大学に通う一学生にしては割と人気な方であり、男子の友達も多ければ、女子からもぶりっ子をされることも多く、かの有名なゴッホの大学一番の友達として知られていたのだが、やはりそれでもゴッホの人気は俺みたいな普通のそれとは一味違うものであり、俺はどんなにゴッホと親交を深めても距離を縮めている感覚は覚えられなかった。近いのに何故か捕まえられない、日が沈んだときの影みたいだ。
出会ったばかりのころはゴッホのことは影ではなく蜃気楼のように感じていた。それはゴッホのまるでシャボン玉のような透明感や常に浮かんでいるような雰囲気のせいだった。だが実際会って話せば話すほど、ゴッホのその目の奥の暗さや、声色の深さが洞窟のようであることに気付かされた。そして気が付けば、ゴッホをきらきらとしたもののように感じることはなくなっていた。彼は本当はきっと誰よりも根暗なやつなのだ。根暗が過ぎて、月の裏側やら、ブラックホールやらのスケールにまで暗さが達してしまっていて、それを皆勘違いしてゴッホを綺麗なお星様の類のように感じてしまっているのだ。
セミの声が聞こえてくる談話室で、ゴッホは俺のバイトのシフト表を眺めていた。
そこに置いてあるペットボトルのジュースはすでに汗まみれになっている。
「4日、もしかして休み取り忘れた?」
「いや?なんで?なんも無いじゃんその日。」
「アホ。テニス部の新歓飲み会だろ。」
「マジで。うわあ、忘れてた。林さんに交代してもらうか。」
俺は部活に入ると同時期に近くの個人居酒屋でアルバイトを始めていた。すると途端に生活は忙しくなり、俺はただ毎日のスケジュールをこなすことにひたすらな生活を送っていた。
悩む暇もない、というのはまさに今みたいな状況のことで、少し前までの、受験や新しい環境のストレスなんかでうじうじしていた俺はあっという間に死んでいた。それは良い事にも思えるが、少し前までのそんなネガティブな自分を忘れるのはいけない事だともどこかで感じていた。
たまに、風呂に浸かっているときなんかに昔の自分を弔うかのように思い出してやっては、俺はまだ悲劇の主人公役を演じられるんじゃないかという希望にも似た変な気持ちで、頭を抱えたふりなんかをしてみたりする。
そんな時に想像される悲劇の救済者役はいつもゴッホであった。俺の単純な頭の中で、ゴッホはいつも俺を励ますことはせずに、死にたいと叫ぶ俺をただ受け止める。いつでも俺が死ねるようにただ準備をしてくれている。それだけで俺は安心する。単純な頭だから。
そうやってゴッホには人を依存させる力を持っている。だから俺はゴッホと一緒にいたいと思ってしまう。ゴッホは何を思って俺と一緒にいるのだろうか。宇宙のような思考を持ったゴッホのことなんて、俺には全く予想もつかなかった。でも俺たちは仲良しだ。それだけは間違いなかった。
「あ、ほらゴッホ。また女子がこっち見てんぞ。あれ確かテニスの一年の子だよ。」
ふと通路側を見れば、3人の女子がこちらの様子を窺っていたのが見えた。そのうちの一人は俺たちよりも少し先にテニス部に入っていた同期の子で、特にその子はゴッホへ熱い視線を送っていた。個人的に、同じ部活のメンバーがゴッホに惚れているという事件は、当人たちには悪いが、非常に面白い話であり、早い話が俺はゴッホと付き合いたいという女子を馬鹿にしていた。
「元矢を見てるんじゃないの。」
「ちげえよ、ゴッホだよ。」
ゴッホは一般受けしないその出で立ちをよく自覚しているせいか、自分はあまり女子に好かれないタイプだと思い込んでいた。だが俺から言わせればゴッホは顔は一般的にもかなり整っている方であり、その重たい金髪も今日着てきた青いレギンスや水色のジャンバーも、雑誌にそのまま載っていそうなくらいにきまっている。
だからこそ、その見た目やクールな雰囲気だけを見て、偉そうに惚れただの付き合いたいだのと宣うミーハーな女子が俺は少し嫌いだった。
「テニス部の子って、あの真ん中の子?確かに見たことあるかも。」
「そうそう、あの髪一番長い子。」
「へえ、残念。俺、毛短い派なんだ。」
「えっ、そうなの?」
「うん、活発的な方が良い。」
そう言った途端、女子たちは顔を見合わせ何かを言った。それはきっと女子特有のひそひそ話で、しばらくすると自分たちで何かが解決したのか、そのまま3人はどこかへ去っていった。
「ゴッホって女子の見た目とかに興味あったんだ。」
「ん、まあね。」
相変わらずのぼーっとしたような表情と声色は、言葉自体は肯定を意味するもののはずなのに、やはり興味の湧かない話題に対するものにしか聞こえなかった。
3日後、部活に行くと、昨日の例の女子が髪を短くしていた。コート内でその子は話題の中心となっており、似合う似合うと盛り上がっている様子が見られた。
俺から見ても、あまり近くでその姿を見たわけではないのだが、確かに元々見た目が可愛らしい子だったためか悪くないように思えた。
だがその行動のきっかけが先日のゴッホの発言だったことを思うと、なんと軽い女なのだろうと軽蔑の念を抱かずにはいられなかった。
ふと、その女子と目が合う。彼女はすぐににこりと笑顔を見せた。それすらも、ゴッホと仲の良い砂原元矢にはいい顔をしといてやろうという思考でやっているのではないか等と考えてしまう。それはさすがに俺の性格が悪すぎるのであろうか。
結局、彼女には残念ながら、その日の部活にゴッホは現れなかった。実を言うと、俺はそれを知っていた。
彼は前から、この日は美容室を予約しているのだと言っていた。でも俺はそれをわざと彼女に教えなかった。
単純に喋る機会がなかったし、機会があっても話してやらないだろう。いや、もはやその機会すらをも与えなかった。俺はなんだかんだでお人よしなところがあるから、もし会話をしてしまえば、彼女の意外な良いところを見つけてしまったりして、この黒い感情を消してしまうかもしれない。なんとなくそれは勿体ないような気がして、気が付かないうちに俺は彼女を避けていたのだと思う。
夜、俺はゴッホに今日の部活での出来事をどうしても教えてやりたくて簡単なメッセージを送った。
でも今日はどうやらゴッホが携帯をいじらない日であったらしく、朝までそのメッセージに既読マークが付くことはなかった。
講義中の携帯いじりは最早大学生にとっては日常茶飯事であるが、我らより、いや、もはや携帯電話よりも先に学生時代を終えた教授たちはそれをどれくらい知っているのだろうか。
彼らの大学時代はきっと、精々ポケベルとかいうおもちゃが普及していた時代であろう。彼らは退屈な講義を寝る以外の何で耐えていたのか。今や、こっそりワイヤレスのイヤフォンなんかを耳に入れて、物理的に話を聞かないでいる生徒がいることを知っているのだろうか。
俺は自分がこの大学の生徒の中でもかなり不真面目な方であると自負している。授業をサボるのは当たり前だし、遅刻も許される限りしつづける。たまにちゃんと来たと思えば、今のようにワイヤレスイヤフォンを耳に入れて携帯弄り。
成績ももちろんそれに応じただけの最低のものであるが、単位だけは必ず頂けるようにはしていた。そもそも入った分野が美術教育なために、ほとんど頭を使うようなテストは無く、大抵はレポートか作品提示だけなので、頭の悪い俺でも暗記などという面倒な作業を経ずとも単位が貰えるというなんともレベルの低い学校生活だった。
「さっきから。」
「ん?」
「誰と連絡してんの。にやけてる。」
「え、まじで。恥ず。俺ずっとにやけてた?」
「ん、ずっと。」
左隣でノートを取っているゴッホが珍しく自分から会話を始めてきた。彼は左利きのために、左隣に座ってもらえると視界の邪魔になるものが無いので大変ノートを覗き見しやすい。だから俺はいつもさりげなくゴッホに左側に来てもらうようにしていた。彼自身も右側に座ると手と手がぶつかってしまうと言って俺のエスコートには協力的だった。
「もしかして、彼女、できたとか。」
「ちげえよ、中学からの先輩。」
「でも女だろ?付き合ってるやついるなら言ってほしかった。童貞仲間だと思ってたのに。」
「どうせアンタも童貞じゃねえだろ。」
「まあな。で、何の連絡してたの?」
「逆になんでお前そんな興味深々なわけ?」
「隣でそんなにニヤニヤされてたらそりゃあね、気になるよ。」
俺の連絡していた相手は、ゴッホの言う通り恋人であった。中学のときの1つ上の先輩で、部活が同じだったのがきっかけで話すようになり、テストの成績が悪かった俺によく勉強を教えてくれていた。気が付いたら付き合っているような関係になっていて、気が付いたら”その勉強を教えてくれる先輩”は俺の憧れの対象にもなっていて、そしていつしかその憧れは教師を目指すという志になっていった。
彼女は今、都内のO大学の現役2年生で、東京で一人暮らしをしている。俺は高校までずっと神奈川にいたて、今年このG大学に合格してやっと遠距離恋愛が解消された。俺の大学生活が落ち着いたら一緒に食事にでも行こうという話になっていた。
「今日テニスの飲み会じゃん。それが終わったら一緒に飲もうって話。」
「へえ、じゃあ生き残らないとな。ここのテニス部の飲み量中々ヤバいらしいけど。」
「あー、なんか聞いたことはある。ま、大丈夫じゃん?」
ふうん、とゴッホは少し笑った。もしかして俺は酒が飲めないやつだと思われているのだろうか。俺は半年前に受験が終わってから初めて酒を口にしたが、まだ酔ったというほど酔ったことはない。かと言ってバカみたいな量を一気に飲んだこともないから、強いとは言い切れないが、自分がそこまでアルコールに弱い人間だとも思っていない。
一度携帯でその日の天気をチェックして、またゴッホを見ると、まだ俺を馬鹿にしているような様子だった。俺はむっとした。
「そんな感じの顔してるならさ、今度飲み比べしようぜ。」
「いいけど、自分、いやお前。お前さ、俺より多分弱いよ。今日の飲み会も生きて帰れないんじゃない。」
ゴッホの関西弁が混ざったその言葉には、普段の発言の重みに増して説得力があった。去年まで死者を出した部活に所属していたその名は伊達じゃないだろう。
「酔った勢いで食われたりして。」
「は?女じゃあるまいし。」
「だって元矢、女みたいな顔じゃん。」
「ゴッホに言われたら終わりだわ。」
「いやでも本当に。酔った大学生って、男女問わず簡単に食えちゃうよ。」
ゴッホはそこで初めてこちらを見た。ペンを持った左手をこめかみに当てて、頬杖ならぬ頭杖をついて目を楽しそうに細める。白肌に目立つ二重まぶたの皺と涙袋の線がぎゅっと縮んだ。
「ゴッホってやっぱヤリチンだな。」
「軽蔑しちゃう?」
「や、今更。なんとなく分かってたし。」
ゴッホがそういう面で悪い男なのは出会ってすぐから薄々気付いていた。彼は恋愛こそ興味を持たないが、性欲は人並み以上に持ち合わせている人間だ。更にはそれを満たしてくれるものは彼から求めなくとも勝手に寄り付いてくる。こうなってしまって当たり前なのかもしれない。それでもなお、彼には「綺麗」「ふわふわしている」だとかそのあたりの下世話で汚いものとは反対のイメージがある。それは彼自身がその”行為”を風呂や食事と同じような生活の一部と変わらない認識でいるからなのだろう。まるでそれは動物の交尾と違いない。交尾をする動物を見てもさほど汚らわしいと思わないように、ゴッホが行為をしてもいやらしく思わない。本人の印象と認識で感覚はここまで変わる。
大勢でのビール乾杯は初めての経験だった。今のようにちゃんとした居酒屋で飲み会をしたこと自体が初めてだ。
ビールや発泡酒は正直言ってあまり好きじゃない。おこちゃまな舌には精々カクテルかサワーあたりが一番おいしい。
それでも女みたいに甘くて弱い酒を頼むのはこの部活の”飲み”では禁止事項だ。俺は必死に最初の一杯のビールを唐揚げでごまかしながらやりすごし、すぐにビールよりは味がまともなマッコリや焼酎のソーダ割りあたりに逃げ込んだ。
始めのうちは席が決められていたが、次第にそれは無きものと化していき、30分もすれば座布団すら敷いていない端の方で固まって内輪で騒ぐやつらも出てきた。
俺はこれをチャンスとゴッホの方へ移動しようとしたが、その瞬間に新入部員の自己紹介ゲームをしますと赤い顔をした部長が叫んだために、それは叶わなかった。みんなが一斉に席に着き、ゴッホの方をニコニコした表情で注目している。
「人間社会科カウンセリング1年!白崎昴です!」
ゴッホは開けたばかりのビール瓶を片手に立ち上がり、俺でも初めて聞いたくらいの大声でその場を盛り上げた。名前を言ったところでコールがかかり、ゴッホはビールを胃に直接流し込んでいるかのような勢いで一気に飲み干す。
「誕生日は、いつですか!」
「4月の、15日です!」
ゴッホがビール瓶を置いたやいなや質問タイムが始まり、ゴッホは4月生まれの人たちと盛大なコールの中乾杯をしている。こんな場でも、いつもより声は張っているものの、ゴッホは基本は相変わらずの様子であり、ただ酒を飲めと言われた分だけを確実に飲み込んでいっている。
「それでは次、元矢くん!」
「あ、はい。」
知らぬ間にゴッホの質問タイムは終わっており、俺は背中を叩かれその場に立たされた。
少しばかりか周りの声が小さく聞こえる。きっと酔っているのだろう。
「教育の!美術専修1年!砂原元矢です!」
ゴッホが見せてくれた手本を俺はそのまま真似した。するとゴッホのときと同じように周りは拍手をし、一気飲みコールをしてきた。俺はすぐに右手に持った酎ライムをごくごくと仰ぎ空にしたが、またすぐに新しい酒を手渡され、勘弁してくれとも言いそうになったのだが、期待の新入部員にもはや逃げる術は無さそうだった。思ったよりもハイペースな量に俺は少し引き気味だ。
「誰か元矢に質問!」
俺が質問を仰ぐのを忘れていたために、隣にいた先輩が進行をしはじめた。
質問は、彼女はいますか、好きな色はなんですか、バイトはしてますかとかそんなものだった。ただ、質問に答える度に飲まされた酒が途中から少量のウイスキーになり、次にはそれが日本酒に変わっていた。
そして案の定、自己紹介ゲームとやらが終わった時にはもう俺の視界は揺れていた。
「大丈夫?」
ぼーっと遠くを眺める俺を心配してか、知らぬ間にゴッホが隣に来ていた。
「今のところは、理性はある。」
ちらりとゴッホを見ると、そこにはいつものゴッホがいた。
白い肌も白いままで、焦点もいつもどおりの位置にあるようだ。俺の印象では俺よりもたくさんのアルコールを摂取していたはずなのに、彼は余裕そうに笑っている。
強いていえば、少し目がとろんとしているだろうか。
そこに、女子部長が入ってくる。彼女は俺と彼女でゴッホを挟むようにゴッホの隣へ座った。
この人は少し気の強い女性で、もしかしたら俺は気に入られているのか、会うたびにその日の寝癖やファッションのおかしなところをネタにしていじってくるのだ。それのせいで俺は少し彼女に対して苦手意識を持っていた。
「もう、なんでこんなとこにいるの!ユイのとこ行ってあげなよ!」
部長がゴッホの目をじっと見て大きな声で言った。一瞬、ユイとは誰のことかと思ったが、二人の視線の先を見ると例の先日ロングヘアーをバッサリ切った女がそこに座っていて、すぐにユイの正体は把握した。
どうやらこの部長の様子だと、テニス部の女子全員が”ユイ”の恋の行方を応援しているようで、見ればユイ側はユイ側で数人の女子がユイをゴッホの隣に座らせようとおせっかいをしているのが窺えた。
「ユイって、桜庭ユイ?」
「そう、あの子ね、アンタがショートヘアーの方が良いって言ったから、髪の毛切ったんだよ。」
「俺が?」
ショートヘアーの件は、俺もよく覚えていた。ゴッホにも一応女の好みがあったのだなあと印象的だった出来事。
「え?そうでしょ。ユイから聞いたよ。」
だがゴッホは今、明らかにとぼけている。それは俺にも意外なことだった。
「言ってた言ってた。毛は短い派なんだって。活発的な子が好きって。」
忘れただけだろうかと思い、俺があの時のことをそう言うと、ゴッホはそこでわざとらしく目線を天に上げ「ああ。」と言って、何かを思い出す素振りを見せた。
「もしかして、犬の話?」
俺も女子部長も、少し遠くのユイ達も、え?と驚いた。
「談話室で俺と話してたときだよ?」
「ああうん。そうそう、犬は長毛種より毛が短毛種の方が可愛いって話やろ。あは、でも聞いて。実家のシュナウザーがさ、トリミングに連れて行ったら変な風に毛を刈られてきたんだ。でも姉はそれが気に入ってたみたいでさ、アホみたいやろ。俺はそんときに、あー犬も別に短けりゃ良いってモンでもないんやなって思ったけど、でも、バカには分からんもんなんやな。」
ゴッホの話を聞いていた人たちは静まりかえった。隣で違う話をしている人たちの盛り上がった声が、録音した雑踏の音みたいに聞こえた。
きっとこの中で一番驚いていたのは俺だ。
だってゴッホには、まともな実家も無ければペットもいない。こんなに饒舌なゴッホも俺は知らない。
そしてゴッホの家事情を知らずとも、皆はジワジワと理解する。この話は、ユイを皮肉っている。
咄嗟に、ユイはその場を飛び出した。続いてユイに付き添っていた女子たちが、女子部長も含め彼女を追う。
何も知らない男子や取り残された他の女子たちは、何事かとこちらを見た。
ゴッホはいつも通り、笑いも泣きもせず、ただ酒を飲んでいる。何事も無かったよと答えているようだった。
俺はただそれを見ていることしかできなかった。酔いは相変わらずまだ覚めない。
その後、俺たちや他の一年は先輩たちに酒を飲まされつづけた。俺は途中で煙草が欲しいとゴッホに頼み、俺の鞄からそれを取り出してもらったあたりで俺の記憶は消えた。
気が付けば俺は店の外でゴッホと男子部長に肩を持たれていた。
朦朧とした意識のまま右の方をなんとなく見た。女子が固まっている。中心に泣きじゃくっている子がいるのが少しだけ見えた。
ああ、かわいそうに。ゴッホなんかに好かれようとしたから。きっと今までそうやって生きてきたんだろう。親にああしなさい、こうしなさいって言われて、その通りにしたら褒められて、かわいいかわいいって言われて生きてきたんだろう。ゴッホはそういう奴だと見破ったからあんな事をしたんだろう。運が悪かったんだ。かわいそうに。
「ごめんな昴。」
「いや、元々俺二次会行かない予定だったんで大丈夫ですよ。こいつ俺ん家泊めますんで安心して行ってください。」
昴。聞きなれない名前だと思ったら、そういえばゴッホのことだった。ゴッホもさすがに少し酔っているのか、いつもより言葉が関西寄りだ。
俺とゴッホと、他の二次会に参加しない人達を残して集団が去っていく。
ゴッホは俺を持ったまま、じゃあ。と言って自分の家の方向であろう方へ歩き出した。俺もかすかな意識のなか足を動かしてみる。
「お前、彼女と飲む約束どうすんの。」
「約束、できなかった。忙しいらしくて。」
もうずいぶん前に感じる昼間の講義。彼女は緊急で夕方からバイトが入った。夜8時には終わると思うから終わったら連絡する。と言っていたはずだった。今は夜の10時過ぎ。連絡はまだこない。忙しいのだろう。こういうのはよくある事だった。
「じゃあ俺ん家連れてくぞ。どうせ帰れないだろうし。」
「……分かった。」
俺はこの瞬間に、今度二人で飲み比べをしようと申し出たのを後悔した。ゴッホは酒が強い。今肩を借りているのが何よりの証拠だった。
今一度さっきの出来事を思い出す。自己紹介、ゲームをしあって、談話をして、女子部長がきて。
「ゴッホ、……アンタには女の悲しみが分からない?」
「桜庭ユイのこと?」
「うん、ゴッホ、あの子はやっぱり、お前が好きだったって。」
「知ってるよ。昨日告白された。」
ゴッホの言葉には内心驚いたのだか、何せ足元も頭もくらくらしていて、リアクションをとることはできなかった。でも勘の鋭いゴッホなら、俺の気持ちくらいは分かると信じている。
「返事は。」
「今日のあれが返事。」
「粋だね。」
「昨日、食ったんだ。夜。そしたら勘違いし始めたから、きっぱり断ってやらなきゃなって。」
「本当に、女性の悲しみが分からないんだね。」
「分かるよ。理解しないだけ。」
最低な野郎だって、普通は思うところだった。でも違う。ゴッホは何故かそこが格好良い。まるで外国人のような、ただ価値観が特別な人って思える。外国人は格好良い。外国人は価値観が特別で格好良い。ゴッホは価値観が特別。だからゴッホは格好良い。
「人が人を悲しませないようにするのは、自分が悲しまされたくないから先に防衛線を張ってるだけ。人が人を励ますのは、どこかでその人を格下に思ってるから。そんな風に人間はプログラミングされていて、俺たちはそれに動かされているだけ。」
独り言なのだろうその言葉は、ぽつぽつと、ゆっくりと繰り出された。
「元矢、ここ段差あるから気をつけろよ。」
オレンジ色の光を感じて俺は前を見た。開いたドアから誰かの家の玄関が見えている。きっとゴッホの家なのだろう。しかし分かってはいたが、学生1人が住むには随分と広くて立派だ。
「ここ、ゴッホん家?」
「そう。」
中に入ると、背中でドアの閉まる音が聞こえ、ついでに自動で閉まるのだろうキーの電子音も聞こえた。俺は靴も脱がずにフローリングにゆっくりと倒れた。
「待ってて、今水持ってくる。」
そう言ってゴッホは玄関の奥へと消えた。1人になった途端、無性に煙が欲しくなる。
だが1分も経たないうちにミネラルウォーターのペットボトルを持って返ってきたゴッホによってその欲はすぐに消された。
「店で結構吐いてたし、水飲んでりゃ大丈夫だろ。」
そんなの知らない。と思ったけど、俺は黙って口に押し付けられたペットボトルから出てくる水を受け入れた。
水は冷たく、酔いが覚め体温の低下してきていた俺には少し寒くも感じられた。
気が付けば、ゴッホは再びいなくなっていた。もしかしたら一晩このままにさせられるんじゃないかと思ったが、別にそれでもいいかとも思った。
水のおかげか少し回復を感じてきた身体を起こして、靴くらいは脱ごうと足元を見た。ゴッホがさっきまで履いていたスニーカーと、毎日のコーディネートに合わせて履き替えるためであろう色んなブランドのブーツやスニーカーがいくつか並べてある。やっぱりオシャレさんなんだなあと思った。俺もある程度オシャレやらコーデやらには興味があるが、ここまで揃える財力はない。
そういえば、この立派な部屋といい普段の装いといい、ゴッホはどこでこんなに金を稼いでいるのだろうか。
「布団敷いた。」
ゴッホが戻ってきて、俺に肩を貸してきた。俺はされるがままに立ち上がる。テレビのないリビングを通りすぎ連れていかれたのは寝室だった。ゴッホが普段使っているらしいベッドのとなりに、寝心地のよさそうな布団が用意されている。
「水、ここ置いておく。吐くときはこれ。あとこれお前のリュック。あとそのままじゃ寝づらそうだから、これ着替え。」
布団からすぐ手の届く位置に、さっき飲んだペットボトルと洗面器が置かれた。俺はありがとうと笑顔を向けてから手早に着替えた。ゴッホは俺の笑顔にリアクションすることなく、よし、シャワー浴びてくる、と呟くように言い捨てて寝室を後にした。
薄明るいオレンジの照明が天井を照らしている。同じ色に照らされている床はまだ少し回っていた。ベッドの柱を助けになんとか着替えをすませ、ふと、ベッドの向こうに目を向ける。写真立てがあった。髪の毛の黒いゴッホと肩を組んで笑っている40代くらいのおじさんがいた。誰なのだろう、ゴッホに両親はいないと聞いた。親戚の人かな。
その横に高そうな長財布と携帯電話が置いてある。ゴッホがいつもポケットに入れてるものだ。なんとなく気になって、携帯のホームボタンを押してみた。0時半を示すロック画面の壁紙はどこかの本棚の画像だった。きっとどこかで拾った待ち受け用壁紙画像を使っているのだろう。
財布も開いてみた。一万円札が何枚も入っていた。口座を持たない主義だったか。
財布と携帯を元の位置に戻し、水を一口飲んでから再び布団に入った。
ゴッホが戻ると同時に、湿気まじりの石鹸の香りがした。
「ごめん、起こした。」
「いや、そもそも寝てなかったから。」
「そうか。明日の朝にでも、酔いが覚めたらシャワー入んなよ。今のままだと匂いきついぞ。」
そう言われて、自分の着ていた服を嗅いでみた。確かに居酒屋独特の料理や酒や煙草の匂いがする。
「そんなにきつい?」
「きついっていうか、煙草の臭い気になるだろ。髪の毛とかについてさ。」
ゴッホは髪の毛を乱暴に拭いてから、鏡に向かって化粧水をつけていた。
「ゴッホってタバコ嫌いだったっけ。」
「いや、俺も吸わないわけじゃないし。」
化粧水の蓋をパチン、と閉めて、元の位置に戻した。
「元矢の吸ってるの、大麻だろ。」
すぐに答えられなかったのは、答えてるのと同じだった。
「なんで。」
「匂いで分かる。独特。」
「違う。なんで、大麻の臭いを知ってるのって聞いてんの。」
ゴッホもすぐに答えられなかった。だからそれが答えだと思った。
「違う、俺は大麻は吸ったことない。」
まるで心が読まれているかのように、ゴッホは的確に俺に反論した。
「じゃあなんで。」
「昔、知り合いでいたんだ。それだけ。」
始めてゴッホが必死そうなところを見た。「それだけ。」と言うのは言葉に意味を含めたがるゴッホの癖であったが、今回のそれは俺との会話を強制的に終わらせたいためのようだった。
本当は俺が追い詰められてる場面のはずだったのに、いつのまにか俺がマウントを取っていた。
何故か悪いことをしたような気分にさせられている。
「とりあえず、その匂い、酔い覚めたらでいいから、落として帰んなよ。」
濡れた髪のまま、ゴッホはベッドに入って電気を消してしまった。もっと聞きたいことがあったのにそれをさせてくれない。
暗闇に光る蛍光色の時計は、午前1時を過ぎていた。
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