未必の故意

笹垣

第1話

 辺りはぶちまけたような黒である。きらきらと光るのは遠い町の街灯だけだ。

 空には下弦と金星が光り、あとは靄がかかったような星雲が見える。風は少し。ないのと同じ程。

 海の鳴く音が聞こえる。

 そこに、かつかつと低い靴底を鳴らす音が聞こえてきた。

 二十代半ばの背の低い女である。あまり長くはない髪を後ろで乱暴にまとめている。暗さで顔ははっきりとしないが、疲れ切った様子の商社員であろうか。

 女はふと顔を上げると、少しばかり先の低い防波堤に腰かけている人影を見た。

 女ものの服を着ているところからすると、おそらく見立て通りであろう。白い一枚仕立ての外衣を着ている。面妖な狐面のせいで、年のころは窺えない。

 その不思議な容姿の少女(?)に、彼女はなにか惹かれるものがあった。

 そっと近寄って後ろから見てみる。やはり素性は分からない。

「何をされているんですか?」

 低い防波堤とは言え車輪を止める程度のものではない。故に壁は彼女には十分な高さであった。少し下から尋ねると、狐はゆっくりと少しだけ振り向いてみせた。

「月見」

 くぐもった女の声だった。

「夜も遅いですし、冷えますよ」

 彼女が言うと、狐は短い息を吐いた。どうやら笑ったようだ。

「もう少しだけ」

 狐は言った。

 ここで彼女は初めて、狐の傍に薄い刃があることに気付いた。持ち手のない、剃刀から刃だけ抜いてきたような代物である。月明かりを反射させて煌いている。

 よく見ると、反対側の狐の末広がりの長袖の先が、僅かに赤く染まっているように見えた。

「…………」

 彼女は言葉を失った。頭の中を幾多の言葉が反芻するが、出すべきそれは持ち合わせていなかった。

 言葉を選んでいたのかもしれない。

 まるで何かへの懺悔でもあるかのように、彼女は何も言わなかった。

 代わりに狐の服の先を捕まえて、僅かに引いた。

 すると狐は駄々をこねる様に首を捩った後、赤くない方の腕を持ち上げて西側を指した。

 それが彼女の家の方向を指していたために、彼女は一瞬帰れと言っているのだと思った。しかし見れば、少し行ったところには防波堤を上るための階段がある。

 どちらの合図なのか。

 どちらであれ。

 彼女は迷わずにたったと駆けて、階段を上った。

 思ったよりも高い。風が強ければ煽られて落ちていたかもしれない。

 燦然と星を映して輝く海の揺れるのが見えた。

 綺麗だと思った。

「お隣、よろしいですか」

 彼女が問うと、狐はこくりと頷いた。

 荷物を脇に置いて腰かける。

「この辺に住んでるんですか?」

 この局面で質問をするのはお門違いであると彼女は承知していた。しかし、それでも何故か口は動いていた。

 狐はやや気乗りしないようであったが、暫しの沈黙の後に答えた。

「住んでる、……まあ、住んでる。そう、この辺、に」

 人間味のない話し方であることに、彼女は気づかなかった。

「ええと、歳とか、聞いても大丈夫ですか?」

 狐は彼女と同じ歳を答えた。

「あ、同い年なんだ、そっか……」

 親近感を覚えた。

 と同時に、どこからかひたひたと冷たい罪悪感のようなものが押し寄せてくるのを感じた。喉の下がひゅっと詰まるような気がする。

「学校、何処だったの?えっと、高校」

 背後の並木から鈴虫の声が聞こえていた。

「知ってるよ、あなた、きっと」

「私のこと、知ってるの?」

「それは知らない」

 徐々に肩に圧し掛かる重圧ようなものがある。喉の奥で変な味がした。

「そうだ、名前は?貴女の名前」

 ぱっと明るい声を出してみる。

「……言わなくても分かるよ」

「私の知ってる人なの?」

「そうなんじゃない?忘れてなければ」

 狐の声が急に人間味を増した。

 彼女は息の仕方を忘れたようにはくはくと口を動かすばかりだ。

 それでもなんとか喉を震わせて、曇り眼を跳ねのける。

「う、ん。顔見えないから、分からないかも。似てる人なら思い当たるけど」

 狐は海を見つめたまま、ふーんと相槌を打った。

 さっきより些か不機嫌そうな色を孕んでいる。

 それでも普通ならわからない程度の変化である。彼女がそれに気づかなかったかというと、気づいていた。

 乾いた笑いを浮かべて彼女は、何かを諦めた。

 心臓のあたりに渦巻く冷たいものは依然として残っているが、血の流れまで分かってしまうかのような居心地の悪さは消え去った。

 そして彼女は、髪を切ったのだと零した。

 狐の指先がぴくりと動いた。

「小さいころから同じ学校だった子がいたんだ。猫目で、短いお提髪の女の子。引っ込み思案で、本を読むのが好きだった」

 その子がずっと仲良くしていた女の子は小学校低学年の頃に引っ越してしまって、それからその子は一人になってしまった。そんな折に、委員会で一緒になったのが彼女だった。たちまち仲良くなった二人は、旧知のように打ち解けていった。

 中学でも同じ帰宅部で、片時も離れることがなかった。

 しかし高校に上がって間もなく、別々の部活動に入ったことにより、彼女たちは次第に疎遠になっていった。彼女は演劇部に、友人は文芸部に。大会が近くなると忙しくなってしまう演劇部の彼女は、勉強と部活動に追われ、別の組になってしまった友人と会う機会はどんどん減っていった。

 彼女は部員数の多い演劇部で友達をたくさん作った。

 一方で友人は、掛け持ち部員の多い文芸部で孤独へと走った。もともと人見知りであることが起因したのかもしれない。

 二年になった夏、彼女は初の主役に抜擢された。

 文化祭でも公演されることになったその舞台を、彼女の友人は見に行った。クラスの出し物の受付の役目を終えて、真っ先に走って見に行った。それは彼女が、後に友人の級友から聞いた話である。

 舞台は幕を閉じ、喝采轟く舞台袖。

 どうやって入れてもらったのかは聞かなかったが、そこには彼女の友人がいて、控えめな拍手を送っていた。はにかみ笑いでお疲れさま、と労う友人を見て、彼女は何を思ったのか。

『ありがとう』

 声は、友人に届くことはなかった。

 言葉になって口から出ていくその前に、その前に。

 どこからか湧いて出た彼女の級友が押し寄せてきて、押し合いへし合い彼女に声をかけたのだ。

 高校生特有の大きな声で揉み合う少女たちに、彼女は、ありがとう、と大きな返事をした。それはクラスが変わった矢先、ようやっとできた仲間を失う訳にはいかなかった彼女の、精一杯の応えだった。

 楽し気な笑顔を作る彼女の視界の端に移った旧友は、少しだけ俯いて、淋しそうに笑っていた。

「私ね、ほんとはもっとあの子と遊びたかったんだよ」

 海がぱたぱたと色を変えていく。

「本当に仲良しだったんだよ、大好きだったんだよ。だから、これくらいじゃ大丈夫って、甘えてたの、だめだったのかなあーー」

 溢れた水滴が、彼女の服を染め上げた。

「いなくなっちゃったんだよ、きみは」

 寄せ返す波が岩肌に当たって砕けていく。

「謝りすらさせてくれなかったんだよ、ありがとうも言わせてくれなかったんだよ」

 隣で狐は静かになっていた。

「いなくなっちゃったんじゃ、もうどうしようもないじゃんか」

 水平線の先で、霧が黄色く染まっていく。

「ばかだなあ、」

 明けの雲は赤い。

「わたし」

 金属がからんと落ちる音がした。

「ごめんね」

 それだけ言って、彼女は糸が切れたように狐に寄り掛かった。

 ふわりと暖かかった。

「ごめんとか言うなよ」

 衣擦れの音がして、ふいに狐が彼女を見た。その瞼は閉じきっている。

「今更ごめんとか言ったら、なんか私が悪いみたいになるじゃん」

 狐はゆるりと彼女の横から抜け出して、そっと寝かせた。

 それからからんと音を立てて防波堤から飛び降りた。

 狐の視線の先には、黒い服を着た人らしき何かが佇んでいる。

「あーあ、もう終わりかー。でもしょうがないよね」

 黒い人はちょんちょん、と手招いた。

「はいはい行きますよ」

 そう言って去る前に、狐は横たわったままの彼女を振り返った。

「最期にひとつ、君に教えてあげよう。私は悪い人にあるお願いをしたんだ。それはね、君の頭を今晩少し馬鹿にすることだ。でなきゃこんな怪しい人間の隣に君がのこのこ座るわけがないだろう」

 狐は面の下でにやりと微笑んだ。

 そのあと少しだけ俯いて、淋しそうに笑っていた。

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未必の故意 笹垣 @sasagaki_0706

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