症例:《知ったかぶり》治療 憂
きりきりきりきりきり。
きりきりきりきりきり。
それは歯車の音。
発条仕掛のひつじの心臓は、オルゴールでできている。
「…………うわああああっ?!」
男は今日何度目かになる叫び声をあげた。
白い包帯で全身を覆った、人の形をしたその––––––《ひつじ》の、背中から。ずんと。
歯車が、大きな、大きな、ひつじの背中を突き破るように、生えて。
金色。まるで太陽のような黄金色に輝く歯車は、よく目を凝らせば細かな彫刻が鮮やかに煌めいている。しかしそれはしつこくはなく、あくまでも装飾としてひつじを彩っていた。
きりきりきり、かりかりかり。
機械の音がひつじの体から鳴る。
次々に、ひつじの体から、脚から、ひつじの背中全面を過ぎて、飛び出していく、歯車達。
コードや電話線のようなものも絡み付いている。包帯の隙間から見えたのは、数多の機械。ロボット? 否、それは的を得ていない答えだ。
この世界には文明も科学も等しく無為。
夢には何も––––––逆らえない。
きりきりきりきり。
歯車が音を立てた。回り出す。
その途端、世界が一変した。
背景––––––、教室の窓、壁、机達、床、黒板、全てが形を失っていく。さらり、さらり。
「す、砂でできていたのか?」
その言葉に、暝土はまた薄く微笑した。口の端だけを上げ、下唇を隠したそれはまるで幼い少女のようにも見える。砂の城が崩れ落ちるように、輪郭を欠乏してゆく夢の存在達。朧げになった世界の中で、彼だけが異質な存在だった。
表面が削り取られていく、世界。
同時に、ひつじの腕から少女は消えていた。
完全に世界の表面が削り取られた後、一つの変化が現れる。それは、
何も変化していない
という––––––変化だった。
教室。夕暮れ時。
壁のシミから、黒板についたチョークを消した跡まで、何から何まで。男の目には、変化が見られなかった。違う。それなのに、何かが違う。
どうにか立ち上がり、机に手をついた時。
がくん。
体が揺れる。
「ああああっ?!」
男は、天井に向かって落下した。
「先生」
先生、それは天井–––––ではなく、地面に叩きつけられた男である。その場所には、体が透けた男がもう一人いた。天井にへばりつく男は何が起こったのか理解しえなかった––––––しかし、すぐにそれが何によるものなのか察する。
空と地面が逆転したのだ。
まるでその世界が男を拒むように。
男から見れば、もう一人の自分自身が少女に話しかけているように見える。そう、あくまでも反対側、男の視点で見れば教室の床と言う名の天井に立って。逆さまになって。
少女は机に座っている。机の上にはワークシート。男の方へ落ちることなく、机に張り付いて動かない。少女達と男の間に何かの壁があるようにすら思えるほどだ。
うすらぼんやりとした、少女の側の男は、少女に言った。
「それは駄目だ」
少女は、その乾燥してめくれた唇を開いた。
「なぜですか」
少女の側の男は返答した。
「もっと歴史を入れるべきだよ。それじゃプレゼンにならないだろ?」
「なぜですか? 好きなようにしていいと言ったじゃないですか」
「そう言う意味で言ったんじゃない。好きな題材を使っていいと言っただけだ」
「でも先生、ちゃんと歴史も入れてますよ、ほら」
「そう言うことじゃないんだよ。たくさんじゃなくて一つに絞るんだ」
「でも先生、先生は前に題材は多い方がいいと」
「え? そんな事言ったかな」
少女の側の男はとぼけたように首をかしげる。少女は男の胸のあたりに目をやっている。
「ちなみに、この歴史はあってるのか?」
「あってますよ、ちゃんと」
少女は人と目を合わすのが苦手なのだろう。それは誰の目からも明白だった。それに気づいていながらも、少女の側の男は少女の瞳をじっと見つめる。少女もそれは気付いている。
「じゃあ、そう言う事で」
少女の側の男は踵を返そうとした。
少女は何か、腑に落ちなかったのだろう。口を開いた。
「どうして先生は私の目をじっとみるんですか」
少女の側の男はいやらしく笑った。眉を上げて、目を大きく開いて、口だけ不自然に大きく笑う形にして。
少女の悪夢は、こう言った。
「嘘を見抜くためだよ」
少女は口を開く。しかし何も言う事なく、その口は閉じられた。そして、項垂れるように俯いた。
「成程、そう言う事だったのか」
小さな声で暝土がつぶやく。その言葉が、天井にへばりつく男の耳に届いた。
暝土はいつのまにか少女の隣に立っている。少女も、少女の側の男も、暝土に気がついていないようだ。いっさい目に止めることない。
「ちなみに先生、身に覚えはある?」
暝土が天井にへばりつく男に、顔を向けさせずに問いかけた。男は首を横に振る。「し、しらない」
「じゃあ、覚えてね。その躰に、脳に、心臓に、夢に、刻み込んで」
「なななんでだよ! おれのせいじゃないだろ?! 歴史を雑学だけで賄おうとしたこいつが悪いんだ!」
「じゃあ訊くけれど、貴方は調べ学習の時間をとった?」
「とったよ! きっちり二時間、まるまる! しかも家でやってくるようにって、ワークシートも渡しておいたんだ」
「二時間? 居残りは?」
「やったって! 希望者に––––––」
「へえ、そう」
嘲笑うように、くふ、と、声がした。手を後ろで組んで、暝土は一歩、進む。
「ちなみに先生、高校生の帰宅時間はご存知かな?」
男は「はあ? ふざけてんのか?!」怒鳴った。
「俺は教師だ! それくらい知ってる、大体五時前後だよ!七時間授業があったとしても五時には帰宅部員なら帰路についてる」
「では、彼女の住所はご存知かな?」
「そんなの知ってるわけないだろ! いちいち覚えていられるか!」
「じゃあ彼女の帰宅時間なんて知らないよね?」
暝土は歌うように軽やかに言葉を並べた。ステップを踏んでいるかのように、足跡を奏でる。彼の右腕の袖がはらりと動く。驚くほど短いその腕は、どう見ても切られたか、初めからなかったのか、肘と肩の間でぷっつりと途切れていた。
「彼女は私立高校に通っている。しかし家から学校までの距離は電車を使用しても約一時間、帰宅時間は一時間足して六時になる。それに彼女の母親は癌に侵されていて、市内の病院で療養中。彼女は母親にいつもこう言っている」
少女が–––––口を開いた。
「ぜったいになおるよ」
無感情に。抑揚のない声だ。そして息継ぎをするところもない。声のトーンは一定で、それが言葉であることに男はしばらく気づくことができなかった。
少女はそれ以上喋らない。少女の肩は一切動かず、少女の背姿は一切身じろぎをせず。あくまで機械のように、少女は存在していた。
「先生、それは嘘なのかな?」
暝土は天井に張り付く男に向けてそう言った。
「末期ガンの母親を持つ娘が母親に向けてそう励ますのは嘘なのかな? 少なくとも真実ではないよね? そう嘘なんだよ。じゃあ嘘って全て悪いものなのかな? 確かにレポートに雑学である胡乱げな彼女の脳内情報を書くのは《悪》かもしれないね。でも彼女が誰かを励ますためについた嘘は––––––果たして《悪》と言えるの?」
一息に。暝土は言い切った。息継ぎをする事なく。
「貴方は何の気なしに言っただけなのかも。彼女が意趣返しに言った言葉を完膚なきまでに叩きのめす為だけに放っただけなのかも。でもその言葉が彼女を夢憂病に侵食するきっかけになったのは変わらない事実」
たった一つの知ったかぶりが、彼女を変えた。彼女の信念を、彼女の想いを。
完膚なきまでに叩きのめした。
「先生、あなたのせいで死にたくなりました」
十五歳の少女が助けを求めていたのに。
彼女の伸ばす手を振り払った。
家での学習時間が取れていないのは、遊んでいるからではなく、部活に入っているからでもなく。ただ単に、全ての家事を一人でこなして、そして母親への面会に行っているからなのだと。
偏に、母親のためだったのだと。
母親に心配をかけさせまいとする、娘の親孝行の気持ちだったのだと。
「俺は悪くないだろ?! 知ったかぶりする方が悪いんだ!」
「そうですね。でも、貴方は貴方で生徒一人一人に関して無関心すぎた」
「……………」
少女はぴくりとも動かない。
男が反論できないのは、非があることを認めた証拠である。
彼女が貴方を殺したいほど嫌ったのは、口だけの言葉で。
その真意は、ただの甘えで。
きりきりきり、かりかりかり。
色と色が混ざり合う。マーブルのようなねじれる世界。金と銀の粉が煌めいて、世界を埋め尽くしていく。きりきりきり、かりかりかり。
「夢ももう直ぐ終わるようです––––––ひつじが、安らかな眠りを与えてくれる」
まるで土塊のようになってしまった少女に、彼は手を差し伸べる。髪を撫でる。少女の肩で切り揃えられた髪が彼の手の上でゆるく淡く解けた。
「なあ、お前」
男が暝土に声をかけた。「はい?」暝土は丁寧にそれに応じる。
「お前は、夢憂病を治すことができるんだな?」
暝土は曖昧に微笑した。なんとも言えない、眉を下げて、口角を軽く上げ、目を伏せた笑み。
「僕は治せない」
「でも––––––」
「僕は、夢憂病患者の一人一人の負担を減らしてあげたいだけだよ」
どこからかオルゴールが鳴っている。どこか懐かしい音だ。
その音に身をまかせるように、男は目を瞑った。
その寸前、頭を一つのことがよぎる。
彼女は、大丈夫なのだろうか、と。
彼の声が一際強く耳に届いた––––––
「さあ、お目覚めの時間だよ」
「だ変大はれそ」
「いさだくてしかとんな」
。たしに
《ソレガアタシハ嫌ダツタ》
「さるなくなてんなくたにしばれすとんゃちとっもが君。よだいせの君はのるなくたにし」
《余リニ無責任デス》
「が
《シツテマスヨ。アタシハデキソコナイダモノ》
「ねすでんいなわ思もと
「よいなわもお」
《サウデスカ》
俺はここが夢だと知っている。
ついこの間、目の前にいる生徒の夢の中に入っていたのだから。それなのに、夢だと気がついているのに、目覚めないのはなぜだろう。
少女はどこまでも無表情で、俺の目をじっと見つめている。
俺はその目が怖くて、逸らす。
俺の目は俺の足元に向いた。
少女がまた口を開く。それと同時に、足元を見た俺は驚愕する。
そこには––––––
俺の足が真っ黒になって地面と同化して
ずぐん。
少女は言う。
少女は言う。
少女は言う。
そうだ、俺も。
彼女に関して、ずっと。
そして俺は気づく。
この ゆめは
少女は言う。
少女は言う。
少女は言う。
「り ぶ か た っ 知」
––––––もう、三十三回目だ。
症例:《知ったかぶり》 了
胎内毒素––Sleepy Dreamer–– 宮間 @yotutuzi
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