第4話 大脱出
魔法を使えない魔女はただの女なのだろうか。
リングレスのアジトである廃教会の奥深く……十字架にかけられた神が懺悔する罪人を見下ろすその場所で、ただの女が鎖によって両手を戒められて吊されていた。
しかし、その女の中に秘められし反抗心は留まる事を知らない。
復讐の爆弾の信管はすでに抜かれ今は炸裂の時を待つだけだ。
爆薬に火が付けば最後。
何もかもを巻き込み、辺り一帯を死の渦に巻き込むのだろう。
だから今は辛抱強く待つのだ。あの女、キリークが巧妙に張り巡らされた罠の中に飛び込んでくるのを……。
「そこまで言うならあなたの言うとおりにしてあげようじゃない。お望み通り腕の一本でも二本でも折ってあげる、出来ないと思ってるんでしょう?」
乗ってきた。思わず笑みが零れた。こうも簡単にこの女が乗ってくるとは思いもしなかった。事は全て順調に進んでいる、と……そう思っていた。
しかしシセルがこの好機の連続を疑うには経験が乏しかった。
運命の女神が自らにほほえんでいる、その光景が単なる自分に都合の良い妄想であると気づくには若すぎたのである。
キリークが指をパチンと鳴らすと、それと同時にシセルを拘束していた鎖は異次元の彼方へと消え失せた。
吊り上げられていた肉体は重力に従い、シセルは冷たい床にがくりと膝をついた。
その鎖にも脱力の魔術が使われていた様でその効果は絶大だった。
体の力を奪い取ってしまうそれに長時間拘束されていた影響で、解き放たれた今でもシセルの腕はぶるぶるとした震えを止める事が出来ない。
「ははッ、安い挑発に見事乗っかりやがったな……! お前らみたいなクソ堕天使どもはすぐに人を見下しやがる、だから油断してでかいミスを犯すんだよ……気づいた頃にはもう遅えェッ!!」
不適な笑みを浮かべたシセルは、鎖の拘束から解き放たれた飢えた猟犬の如く飛びかかった。
魔術も使えず、肉体に僅かに残る力でさえも完全では無い。こんな状態で敵に襲いかかるのは正気の沙汰とは思えない。
だがシセルが、その冷静と熱狂の狭間で見つめていた物は一つしか無い。
ちょうどキリークの背後にあるキャスター付きの長机の上……そこにご丁寧に並べられたシセルの私物の中で、最も異彩を放つ魔銃エヴィエニスだ。
「お前がそうやって飛びかかってくるのを予想していないとでも思ってるの?! 罠にかかったのはお前の方だ!」
キリークが叫ぶのを無視して、彼女の首根っこを掴んで押し倒す。
そして空いたもう片方の手は机の上に伸びて、数時間ぶりにエヴィエニスのグリップのその頼もしい重厚感を手のひらに感じる事が出来た。
ハンマーを下ろす時間すら惜しく、この時ばかりはエヴィエニスがダブルアクション方式のリボルバーである事の重要性を感じる。
いつだって人を殺す瞬間というのは緊迫した状態なのだ、ほんの数秒しか要さない動作でさえもここでは命取りになる。
シセルは手に取ったエヴィエニスの銃口をすぐさまキリークの側頭部に突きつけた。
人差し指に力を込め、トリガーを引き絞るとそれに併せてシリンダーが回り、連動してハンマーが下がる。
その瞬間キリークの顔がまるでその事に驚くかの如く、目を一瞬見開いた様にシセルには感じられた。
人が、死の間際に浮かべる驚愕の表情。
自分にとって見慣れたそれであるとシセルは思っていたが―――実際には違った。
破滅への秒読みが終わると同時に、死の鐘の音を鳴らす筈であったハンマーがシリンダーに納められた454カスールの雷管を叩く事は無い。
代わりに鳴るのはカチリ、という虚しい空撃ちの音だ。
最初からシリンダーの中に弾など入っていなかったのである。
今度はシセルが驚愕の表情を浮かべる番だった。甲高い嘲笑の声を上げながらキリークはバランスを崩しかけていたシセルを地面に蹴倒し、小綺麗なヒールパンプスを履いた足で、エヴィエニスを握ったその右手首を踏みつける。
零れそうになるうめき声を必死に堪えるのだった。
「アハハハッ! 馬鹿よねぇ、お前も……私がご丁寧に銃の中に弾を込めっぱなしだと思っていたのかしら? 思っていたのよねぇ、その様子だと。……その間抜け面……あんたの安い挑発に乗って怒り狂った演技をした甲斐があったわ」
「……チィッ……!!」
この女、とんでもない食わせ物だった。
シセルが相手を術中に嵌めたのだと勘違いするのも無理は無い。
怒りに精神を蝕まれ、冷静さを失ったかの様に見えたが全てはキリークの演技だったのだ。
思えば尋問という特殊な業務を担当するこの女が一筋縄で行く筈も無い。
戦場で自身の故郷を守る為、正義の為、大切な人を守る為、様々な思いを胸に戦い抜いた強固な信条の持ち主達を痛みと話術だけで打ち砕いてきた。
甘すぎた。遅すぎる後悔がシセルの胸の中を満たしていく。
「クソォ、離しやがれ……!!」
「ふふふ、形勢逆転成らずって感じかしら?ここまで綺麗に騙されてくれるなんて思いもしなかったわよ……でも、これで終わりにはしない……当然だけれどね」
その嗜虐的な笑みは妖艶ささえ感じられる程に美しかったが、今のシセルにそれを感じる心の余裕は無い。
何故ならばキリークの革手袋で覆われた右手の指先はトレイの上に並べられた刃物の中で最も重厚感のある凶器、そのデザインの全体から血生臭いにおいさえ感じる様な殺意が込められたハンドアクスを手に取っていたからだ。
ブレードにエルクの親子がレタリングされたそれは、シセルが以前ゲートの外からやってきた商人と取引した際に相手が、持っていた東洋伝来の包丁……商人はそれを中華包丁と呼んでいたがそれに似ている。
見た目からして戦闘用では無い事は容易に認識出来るがその刃の分厚さは驚異的で、狩猟で捕らえた獲物の解体や木の枝を叩き切る鉈としても使える事だろう。
シセルが、重装の鎧に身を包んだ騎士であったなら良かったのかもしれない。
しかし現実は魔術を封じられた半裸の女で、頼みの愛銃には弾が入っていなかった。
運命に見捨てられた無力な存在なのだ。
その肌にハンドアクスの刃が突き立てられれば最後。
白肌の上に血の沼が広がる事だろう。目を覆いたくなる様な凶行の一連がまざまざと連想させられてしまう程にその刃には説得力のある殺傷能力が備わっていたし、もしかしたら魔力に似た何かさえあったのかもしれない。
「それに、まだ私に話してない事……沢山あるわよねぇ~? さっきからずっと、自分の中指を見てたでしょう? ……指輪、を見ていたのよねぇ?」
「……っ!」
全くの無意識だった。シセルが見ていないつもりでいても、中指に嵌められた指輪の存在を知っているという事がそれが単なる鎌掛けではないという事の証明になっている。
「それが……一体何だってんだ……!」
「ふん、つまらない。もっと狼狽してくれれば楽しみようもあるのにね。じゃ、さっさと済ませましょう」
淡泊にキリークは言うと、そのままその手に握られた凶刃を振り上げて無慈悲にも足蹴にしたシセルの右手の指先に振り下ろした。
ばぎん、だろうか。ばきり、だろうか。形容しがたい音が鳴り響く。
肉を切り、骨を断ち、そのついでに刃が固いコンクリートの表面を叩く音だ。
「ぎあ゛あ゛ぁ゛あ゛ッッ!!!あ゛ァ、あ゛あ゛ッ!!!」
痛みもそうだが、まずは神経の底から痺れる様な感覚。
先ほどまでそこに存在した物が突如として喪われるという現実を、まだその肉体は受け入れる準備が出来ていなかった。
故にまだ、その切断された中指がまだ繋がっているかの様に感じられるのだ。
出血を抑えようと、シセルは自身の手首を本能的に掴んだ。だが、その努力も虚しく右手の下のコンクリートの上には小さな赤い沼が出来ようとしていた。
「ふふ、どうして今まで気づかなかったんでしょうね。魔女に特殊な封印術がある事ぐらい、考えればすぐ分かりそうなものなのに……指輪に解錠の魔術をかける事ぐらい、造作もない事……血が上ってたのかしらねぇ?」
切断された中指を、まるで汚いものでも持つかの様に人差し指と親指でつまんで持つその表情には嘲笑さえ浮かんでいる様に見えた。
シセルはぎろりと目尻に涙を浮かべながらも痛みを堪えキリークの顔を睨み付けた。
その瞳には明確な殺意の色が滲んでいるが、圧倒的な優位に立つキリークにしてみればそんなものは痛くもかゆくもない。最早キリークはシセルの心臓を掴んだのも同義だ。
「ま、でもこれで用事は済んだ事だしそろそろ終わりにしましょうかぁ? 貴女のそのかわいい顔がもう見れないなんて残念だわぁ」
閉ざされた倉庫の鍵となる、魔術の指輪さえ手に入ればもはやシセルは用済みだ。
今となってはキリークが優位に立っているものの、シセルも生かしておける程侮れる存在ではないという事は彼女自身よく分かっていた。
要らない不安要素は即刻排除すべき。正しい思考だ。
キリークが再びその手のハンドアクスを握り直す。次に狙うのは指ではない。
その生命活動を停止させるべく狙うのは、首。
脳に血液を送り出す為に太い管が繊細に張り巡らされたそこが弱点であるという事はどんな生物にも共通する弱点である。シセルも例外ではない。
「や、殺るならさっさと殺りやがれ……ビビってんじゃねぇぞ、コラァ……!!」
精一杯の虚勢を張りながら言うがその台詞は、もはや敗北宣言に近い。
止めを刺せというその姿は、手負いの獣が全てを諦めて抵抗を止めた時のそれと姿が似ている。
「言われなくてもそうさせてもらうわよ、あんたの切り落とした首……剥製にして玄関に飾ってあげる!!!アハハハハッ!!!」
シセルの胸の奥にこみ上げる様々な感情。悔しさ、無念さ、怒り、後悔、それらの全てを嘲り一笑に伏す。耳に木霊する甲高い狂気じみた笑い声。
自らを見下ろすそのニヤついた笑みが勘に障る。
人生の最後に見る光景がこんな物だとは。
せめてもの反抗の意志表示として、シセルは右腕を相手に向けて突きだし中指を立ててやろうとしたが、残念ながらそこに指は無い。
ほんの数秒前までそこにあった指は、今はキリークの手の中だ。指輪ごと。
シセルの胸中の全ての感情を無視するかの様にキリークはその手に握ったハンドアクスをいよいよ目の前の獲物の首に振り下ろそうと、腕を上げる。
願わくば一撃で済ませてくれる様シセルは心のどこかでそんな事を考えていたが……聞こえたのは、重たい刃が首の骨を叩き折る音ではない。
突如として地下室に響き渡るドアを蹴破る音。
すかさず続くのは、銃声だ。44オートマグの空気を振るわせる様な轟音。
それと同時にキリークの持っていたその忌まわしい凶器が耳障りな金属音をたてて、弾き飛ばされる。
恐らくその銃声と共に放たれた弾丸が見事その武器に命中したのだろう。
44オートマグ。
威力は十分すぎる程にある拳銃ではあったが、その反動と特殊な機構によって廃莢不良を起こしやすく、オートジャムという不名誉な渾名さえ付いたそれ。
扱いの難しいその銃は、背に乗った者を振り落とす暴れ馬の様。それを容易く操れる者をシセルは一人しか居なかった。
「外してんじゃねぇよ、バァカ!あのクソタレの手ェぶっ飛ばすつもりで撃たねェか!」
「そのつもりでいたさ!仕方ないだろう、ハンドガンを撃つのは久しぶりなんだよ!」
その二人の声を聞くのはほんの数時間ぶりだというのに、もう何年も会っていない旧友と再開する様な、そんな気持ちにシセルはなった。
クロムティースとリーゼだ。
二人は傷だらけだった。
恐らくリングレスの警備兵達の攻撃をかいくぐってきたのだろう。ジーンズの膝は破け、リーゼに関しては肩に浅くとはいえ弾痕の様な傷さえ出来ていた。
どれほど熾烈な戦闘が起こったのか想像するのは容易い事だ。満身創痍とまではいかずとも、心身共にボロボロだった。
「お、まえら……」
遅すぎる、と続けて軽口でも言ってやろうとしたが消え失せて煙になる筈だった命の灯火が今も尚赤い光を爛々と揺らしている事への安堵感で胸が一杯になり、そんな心の余裕は生まれなかった。
何とか立ち上がろうと床に手をつこうとすると、その瞬間に右手の切断された中指にびりりと激痛が走る。思わずうめき声が漏れ表情も曇る。
その様子に何かを感じ取ったのかリーゼがシセルに視線を向けると、すぐにその右手の下に広がる小さな血溜まりに気がついた。
「貴様ァ!!!シセルに何をしたッ!!!」
普段は冷静沈着な性格のリーゼがその顔に怒気を滲ませるのは珍しい事だ。
リーゼの側に居たクロムもこれには流石に狼狽する。
びくりと肩を振るわせ『どうした?』と言いたげな顔でその横顔を見つめた。
普段怒らない人間が怒り出した時のその姿はその人間を見知った者にとっては何とも言い難い恐怖感を与える。
「何をしたですって? ふふ、あんたのお仲間ってのは揃いも揃って馬鹿ばっかりみたいね。これを見なきゃ分からないのかしら?」
キリークは、リーゼ達を一瞥するとその手に持ったシセルの中指をこれ見よがしに掲げて見せた。その中指には未だ指輪が嵌められたままだ。
倉庫の解錠の術がルーン文字で刻み込まれたそれは、自らの存在を主張するかのように光り輝いている。あれを持ち帰られれば倉庫は解錠され、中に満載された魔弾は根こそぎ奪われていってしまうだろう。
「いつまでもこんなの持ってても仕方ないわよね、サキエル様の下へと転送しておきましょう。これで心配する事は何も無くなったわ、うふふふ……」
キリークは指をパチンと鳴らすと、先ほどまで手に持っていたシセルの中指を異空間へと転送してしまう。空間がぐにゃりと歪んだかと思えば目を焼くようなまばゆい閃光と共に中指ごと指輪は何処へと消え去ってしまった。
チッ、と小さくなるのはそれを見つめていたシセルの舌打ちだ。
「おい、テメェ……さっきから黙って聞いてりゃ調子に乗りやがってェ……!!」
「……あら、貴女……その顔……」
キリークの人を小馬鹿に仕切った態度に思わず口を出したクロム。
しかしクロムの顔を見たキリークはその表情を一変させた。嘲笑的な表情がより嗜虐的なものへと変貌していく。
「忘れたとは言わせねェ!!お前が聖魔戦争の時に拷問にかけた12名の兵士達……!あたいの仲間を!!部下を!!お前が手慰みに命を弄んで殺した誇り高き兵士達の哀悼の意の表明としてテメェの首を持って帰ってやらァ!!!」
「アハハハハッ!!!思い出した思い出した!!クロエ・エルヴァイラ軍曹!!私が引っこ抜いた歯の代わりが見つかった様で安心したわ。元気そうじゃない?」
クロエ・エルヴァイラ。
クロムが狂気に蝕まれ、その歯をチタン合金製の金属の上からクロムメッキを施した物に換える前の名である。
狂人が誇り高き兵士であった頃の名。
「その名前であたいを呼ぶんじゃねェ!!クロエ・エルヴァイラは死んだ!!あたいの名前はクロムティース、テメーに死の制裁を与える者なりってなァ!!!」
叫ぶなりクロムは腰の背後のシースに納められた二刀一対のククリナイフを引き抜くと一気に駆け出しキリークとの距離を詰める。
クロムはその鋭利な刃で喉を掻き斬ってやろうと、身を捻って体を回転させる様に斬撃を繰り出した。だがキリークはとっさの判断で先ほどの銃撃で弾かれたハンドアクスを足でクロムのもとへと蹴り上げる。
ククリナイフの刃がハンドアクスを弾き、その間に再びバックステップでクロムと距離を空けた。
拷問担当官という肩書きから人を一方的に痛めつけるしか能の無い人間だとキリークは思われがちだったが、この動きを見れば彼女が相当戦闘にも熟練した手練れなのだと理解できる。一筋縄ではいきそうも無い。
「シセル!!こっちへ!!」
「待て、待て……!!ベストとあたしの銃を!」
キリークが後退した事により出来た隙をリーゼは見逃さない。
素早い動作で駆けだしシセルに肩を貸して立ち上がると安全な場所まで距離を稼ぐ。
その際、シセルが言った様にベストとエヴィエニスを回収する事も忘れない。
これはシセルにとって命の次に、否命よりも大事にしているものだ。命惜しさにこれを置いていくなんていう事は有り得ない。
魂を置き去りにして肉体だけ持ち帰る様な物だ。
いつまでも半裸のままでは、流石に可哀想でリーゼは先ほど回収したベストをシセルの
上半身に羽織らせる。
と言うのも静かに思いを寄せている相手の半裸をいつまでも眺めていられない程にリーゼは初心だったのだ。真っ赤に染まった顔をどうか見ないでくれる様に心の中で願いながら、オートマグのグリップを握りしめる。
脱出しなければ。シセルの安全を確保した今、取るべき選択肢はそれしか無い。
危険は去った訳ではない。未だに自分たちの眼前にあった。
こうして地下室で戦闘が起こっている現在でも尚、依然として姿を見せないリングレスのリーダー、サキエルの存在とまだまだこのアジトに居るであろう残存勢力を考えたら戦略的撤退こそが最優先事項だ。
こういった危険な状態での判断は基本はリーダーであるシセルの仕事であったが、リーダーが危険な状態では、それは右腕であるリーゼのものにもなる。
「クロム!退却するよ!!」
「ざけんなァッ!追ってた獲物が思いも寄らぬ所で顔出したってのによォッ!」
「指輪を持って行かれてしまった以上、私たちにこのまま戦い続ける利点は無い!!退くんだよッ!!!」
怨敵の首を持って帰る千載一遇の好機を逃すまいと、クロムは抗議の声を上げる。
こうなってしまったクロムは中々冷静さを取り戻す事が出来ない。
シスターフッド・オブ・ナイト・ミストのメンバーの中で最も冷静さとは縁の遠い女である。だが驚くべきはその動きの俊敏さだ。
確かにその言動においては冷静さなど微塵も感じられないが、その戦闘の動作には一切の迷いが無い。ナイフを手に繰り出される動作の一つ一つが命を刈り取る死に神の大鎌の如く肌を切り裂こうとしている。
今度は素早い二刀の突きを交互に繰り出し、相手の皮膚の下の臓物をぶちまけてやろうとするがキリークは再びバックステップで回避する。しかし今度は回避だけには終わらなかった。
拷問台から離れる時にしこたま回収していた何本かの医療用メスを慣れた手付きでクロムへと向かって投擲したのだ。
4、いや5本か。本来外科医療で用いられる鋭利なそれは一本の殺傷力は低いとはいえこれが数本ともなると厄介なものになる。
5本の内、3本がクロムの見事なナイフ裁きにより弾き落とされ、一本はクロムの頬をかすめて僅かな掠り傷を負わせて部屋の隅へと飛んでいく。そしてもう一本は深々とクロムの左肩へと突き刺さった。ざくりと皮膚と脂肪とその下の筋肉繊維を突き刺しながら鋭利な刃を鮮血が濡らす。
「ぐッ!てめェ……!」
「あはは、あの大きなお友達の言うとおりここは退いた方が身の為じゃないかしら?」
その耳障りな笑い声にイラついたクロムは、大声を出して罵り言葉を投げつけてやろうとするが声を張り上げようとした瞬間に肩の傷口がずきりと痛む。
肩に突き刺さったままのメスを伝って鮮やかな赤色の血が地面に落ちていく。
思った以上に深いらしい。このまま止血をする事が出来なければ失血死は免れないだろう事は明白だった。
「クロム……、ここは一度退こう」
「……畜生、分かったよ……!」
今度、退却を命じたのはシセルだった。中指を失った彼女もまた失血の量は多い。
青ざめた顔で唇を震わせながら言う姿は必死で、これをみたクロムはリーダーに対するふがいなさを感じながらも従わざるを得なかった。
何せ今は自身も手負いの状態なのだ。これ以上の深追いは危険。仲間や自分が追い込まれている状況を見て漸く冷静になり苦々しい表情を浮かべながらも最後には同意した。
両手のククリナイフをきつくにぎりしめ、悔しさを顔に滲ませながらクロムは、キリークを一瞥すると自身もシセルのもとへと駆け寄って肩を貸して立ち上がらせるのを手伝った。
「待ちなさい!!私がそう簡単に返すとでも思っ―――ッ!!待て!!」
当然キリークもこれを見逃す筈が無い。まだ手の中に残っていたメスを再び投擲しようとするが、それをリーゼのオートマグの轟音が遮った。
一発、二発、三発。立て続けに放たれる弾丸は、キリークの足下の床にいくつも弾痕を穿たれていく。
支援射撃の意味が強く相手を行動停止に追い込むことを目的とした精密射撃とはほど遠いが今はそれでも良いのだ。
相手をその場に釘付けにして自分たちがこの場から逃げ出す時間さえ稼げれば良い。
キリークが怯んだ一瞬の隙を逃さず、シセル達は開け放たれたままだった出入り口へと向かって駆けだしていく。
「おい、リーゼ何してんだァ!」
「あいつに着いてこられたら困るだろ!」
部屋を出る折にすぐ側にあった重厚感のある木製の棚をリーゼは出入り口のドアの前へと横倒しにした。
戦闘能力は中々だったがリーゼほどの力は無いであろうキリークは、恐らく棚を押しのけてドアを開ける事は中々難しいだろう。念には念を。
切れ者であるリーゼだからこそ出来たとっさの判断だ。
地上階へと続く階段を駆け上っていき、礼拝堂へと繋がるドアを蹴り開けると、その先に待ち構えていたのはまたしても逆境だった。
「……クソ、万事休すか。お前ら偉くボロボロだったが何人殺ったんだ?」
「……リーゼとあたいとで、10数人は殺した。まだこんなに残ってやがるとはな」
迷える子羊たちが集う場所。そこは礼拝堂だった。
しかしそこでシセル達を待ち構えていた者達に迷いは無い。背中から生えた翼。雪のように白い肌。
一見神秘的だがある者はその肌にタトゥーを刻み、ある者は口に煙草を咥えて紫煙を愉しんでいる。それはかつて呼ばれていた総称とはほど遠い姿だ。
そしてその手に携えられたオートショットガン、アサルトライフル、ハンドガン、リボルバー……統制の取れていない不規則的な武装は思いの思いの自分のお気に入りの得物を持ってきた結果だ。
リングレスのこのアジトの残存勢力である。
「エヘヘヘッ、せんぱぁいこいつのタマはあたしがいただきやしたよ!」
「ざけんな、バカッ!こいつら殺しちまったら褒賞が手に入んねぇだろが!!」
「貴様ら動くな!!五体満足でいたければ大人しくしているんだな!!」
リングレスの堕天使達が口々に声を上げる。構えたライフルのレーザーサイトがシセル達に狙いを付けて三人の体の上を赤い光点が這い回っていた。
SONMのメンバーを生かして捕らえれば昇進は間違いない。
かつては人を導く存在であったとは思えないほどの野心を胸に宿した彼女たちはゆっくりとシセル達へと距離を詰めていく。
シセル達が上がってきた階段の下からはキリークが何やら口汚く罵声を上げながらドアを蹴りつけ強引に蹴破ろうとしている。少しずつではあるものの押さえとなっている棚も動き始めていて正しく前門の虎、後門の狼といった様相だった。
「……とことん、ツイてないな。あたし達」
「オメーの普段の行いが悪いからじゃねぇかァ?!」
「テメーがそれを言うか、この野郎!!」
漸く口喧嘩が出来るぐらいの余力を取り戻したシセルだったが、ほんの少しの元気を取り戻した所でこの逆境を打破できる訳も無い。
心の中で何か、奇跡でも起きないかと念じた。どんな、どんな些細な事でも良いと。
居もしない神に、大っ嫌いな神に今日ばかりは祈る。自分が魔女なのは承知の上で。
「……おい、何の音だ?」
「えぇ?何も音なんか聞こえませんけどねぇ」
「バカ、聞こえるだろ?何か音がするんだって、ほらデカくなってき―――」
堕天使達の会話はそこで途切れた。
彼女たちの背後にある教会の外へと続く礼拝堂の正門を、何かが突き破って突入してきたからだ。黒い鉄の塊。
突如重厚な木製の扉をぶち破ってその姿を現したのは、漆黒のワンボックスカーだ。バックした状態で外から突入してきたのである。
シセル達を追い詰めていた堕天使達は突如として現れた鉄の獣に背後から撥ねられ、轢かれる事となった。
衝撃を物ともせず、車体には歪み一つ無い頑強な作りのその車はシセル達にも見覚えの無いものだったがサイドドアには白いペイントで額に弾痕を開けた頭蓋骨に留まる鴉の姿が描かれている。
SONMのエンブレムだ。
「姐さん!!俺らが新人だからって置いてくなんて酷いッスよォ!!」
「そうですわ!水臭いじゃありませんか!いいですこと、わたくし達も立派なメンバーの一人ですのよ。軽んじられては困りますわ!」
「……お前ら……スカー、エイジェイ!」
堕天使達を轢き殺した車のバックドアを開けて中から二人の女が飛び出てくる。
片方は美しい縦ロールのブロンドの持ち主で、肌は陶器の様に滑らかで透ける様な白さだった。
顔立ちもまるで作りの良いビスクドールを思わせるかの様な端正なものだ―――その顔をズタズタに切り裂く様な傷跡さえ無ければ、の話ではあるが。
何せその傷をふさぐ為に無理矢理に医療用ホチキスを幾つも傷跡の継ぎ目に打ち込んでいるのだ。高貴な振る舞いと生まれとは裏腹の熾烈な本性を持つ彼女の名はスカー。
読んで字の如く傷跡を意味する渾名である。
スカーは、車を降りるなり白黒ボーダーのロングTシャツの上に羽織ったバイカーベストのポケットからS&W M49を引き抜いた。
その小型のリボルバーは、シセルのエヴィエニスやリーゼの44オートマグと比べて威力が無さそうに見えるが息も絶え絶えになった堕天使の頭蓋を打ち抜くのに丁度良いぐらいの威力は持っていた。
まだ息のある堕天使へと銃口を向けると、スカーは視線をそちらにやる事もせずに4回立て続けに発砲した。
当然堕天使の頭部は見るも無惨な有様となったが、気にしない。
「シセル姐さん、大丈夫ッスかぁ? あ、あ、あ、なんて格好を……ともかく、中に入ってください!」
シセルの裸同然の姿を見て動揺しているのはこのシスターフッド・オブ・ナイトミストで最若手の新人エイジェイだ。
前面部分にスカルデザインのプリントがされたニットキャップをかぶった彼女は、その顔立ちの幼さも相まってまるで少年のようだがれっきとした女性である。
慢性的な鼻づまりに悩まされる彼女は常に鼻の柱に鼻づまり解消用の鼻腔拡張テープを貼っておりそれがより一層彼女の子供っぽさに拍車をかけているのだろう。
あこがれの先輩の裸体をまさか拝む羽目になろうとは思いもしなかったエイジェイは顔を真っ赤に染め上げながらもシセル達を車内に引き入れる。
色々気になる事はあるがまずは脱出が最優先だ。
「お前らにはクラブハウスで待機してろって言った筈だったがな、でも、まぁ……助かったぜ。ありがとう」
「え、えへ。どういたしましてェ~!」
シセルが普段見せる事の優しい笑顔を浮かべて、エイジェイの頭にぽんと触れてやるとそれがよほど嬉しかったのかエイジェイは顔をニヤけさせながら言った。放っておけばうれしさのあまり踊り出しそうな程だった。
「ってか、こんなもんどっから持ってきたんだよォ? んなもんガレージの中に置いてあったかぁ?」
「新人だからという理由で自分の箒を持たせてもらえないエイジェイが、廃棄されてた外界の乗り物を改修して作ったんだそうですわ。先輩であるあなた方にばれない様にコッソリと……そうでしたわよねぇ?」
「う゛、そ、それ今言わなくても良いじゃんよ~! こっそりこんなもん隠れて作ってたのは謝ります、でも役に立ったでしょ?! 勘弁してくださいよぅ!」
クロムの当然の疑問に答えたのは、エイジェイではなくスカーだった。
そのライトブロンドの前髪を後ろになでつけ、額を出したヘアスタイルはただでさえ気が強そうなのに意地の悪そうな笑みを浮かべながら、ちくりとエイジェイの隠していた事実を暴露するその姿は悪魔的でさえあった。
ぴく、ぴく、と瞼が二回痙攣するのは切り裂かれた顔の傷跡の後遺症によるものだ。
顔の傷を滅茶苦茶にホチキスで留めていればそんな後遺症が残っていても仕方ない。
「ともかくもう出しますよ? いつまた奴らがやってくるか分からないんですから」 自分に不都合な話を切り上げる様に運転席に座りシートベルトを締めるエイジェイを誰も責める者は居ない。
理由はともあれ、彼女のお陰でこの窮地を脱する事が出来たのだから当然だ。
「……お前らがあたしの命令を無視したのは正直気にくわねぇ、けど……その無鉄砲な行動のお陰で助かったのも事実だ……助かったよ」
「へッ、シセルらしくもねェや。こいつらに礼を言うなんてよ。指落として大量出血したお陰で、普段お盛んな血の気が引いてんじゃねぇのかァ?」
「クロムッ!!!!!」
珍しく後輩達に例の言葉を言うシセルを茶化したクロムだったが、それをリーゼが語気を荒げてしかり飛ばす。メンバーの中で最もシセルの身を案じている者はリーゼだと言っても過言ではないだろう。
流石の気迫にびくりと肩を大きく竦ませたクロムを見たスカーがころころと喉を転がして笑う。
「……クラブハウスに戻れば、私の部屋に治癒術キットがある。そいつを使えばシセルの指を元に戻せる筈だ。とはいえ、あまりゆっくりはしたくない。細菌が入ればそれだけ治癒にも時間がかかるからね」
「う、ぐ……あたしもいつまでもこの状態は御免被りたいね、さっさと行こう……箒には自動帰投の術をセッティングをしてある。あたし達がここを離れる頃には……クラブハウスの駐車場に戻ってるだろう……」
リーゼはベストのポケットから取り出したハンカチをシセルの失った中指の傷口に止血のために柔く押し当てる。
早く行こう、とシセルの声を聞いたエイジェイは無言で頷くとキーを回してエンジンを作動させた。ライトバンは走り出し、ついに死体と血ばかりの廃墟と化した教会を脱出した。
がたがたとした森の獣道を進んでいき、数時間もすれば愛しの我が家に帰れる筈だ。
だが、問題は山積みだ。無事地獄からの生還を果たした所でそれらが解決する訳ではない……魔弾の売買取引は目前まで迫っているし、倉庫は今頃リングレス達に指輪で解錠され中身は空になっている事だろう。
クラブハウスに僅かに残された在庫で手を打たなければならない……。
考えなければいけない事は山ほどあるが、取り敢えず今は……今だけは休んでも良いだろう。ずっと戦い続けていたシセルの疲労はピークに達していた。
失った中指が今もそこにあるかの様な、焼けるような幻肢痛に耐えながらシセルは目を閉じる。
だがこの痛みは決して無意味な痛みでは無い。
ノーペイン、ノーゲイン。
痛み無くして得るもの無し、この痛みの代わりに大きな成果を得る事を決意してシセルはしばし休息するのだった……。
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