第3話 怒れる巨人
がさりと風に枝を揺らす木々に、ブーツのソールが生い茂る雑草を踏みしめる音。
リーゼには聞き慣れた音だ。記憶に焼き付く過去の思い出との相違点はうだる様な暑さ。そして、治癒術の酷使による痺れる様な掌の痛みが無い事か。
だが、それでも研ぎ澄まされた直感だけは不変のものだ。戦場で染み付いた生き残る為の術は、あの殺戮と熱狂の宴を離れた今でも忘れる事は無い。あの日、銃を手に戦っていたものは、人としての情を捨て殺戮機械に己の心身を変貌させたまま今日も生きている。シセルも、クロムもあの場で死に損なった者達は全員だ。
「あいででで……チックショウ、リングレスのクソッタレどもがァ……アタイをこんな傷だらけにしやがって。絶対に全員血祭りにしてやらァ」
青々とした雑草を掻き分ける様にして出てきたのはクロムに肩を貸す状態で歩みをすすめるSONMの誇り高き巨人、リーゼだ。行方知れずとなったシセルの箒の発信機を頼りにここまでやってきたが、森を捜索している途中で一際大きな樹木の枝に胡座をかいて据わり込むクロムを見つけ何とかそこから降ろしてやったのが今から丁度数十分前の事だ。
数十メートルはあろうかという高所では当然落ちればそのまま地面への激突死は免れず、クロムは為す術も無くイジけた様に胡座を掻いて腕組みをする様な形で座り込み虚空を睨みつけていたのだが、シセルの箒から落下した時点で十分その可能性は有り得た訳なのだから、不幸中の幸いと言えるだろう。
「いつまでも文句を言ってるんじゃないよ、クロム。治せる傷は治してやった。シセルを見つけ出してさっさとこの場を離れよう、退却しないと」
こんな事になるのならば、もっと早くに退却を進言していればよかった。そうすればクロムがあの髑髏面の女に攫われる事も無ければ、箒の発信機を頼りに密林を歩き回る事もなかっただろう。リーゼは歯痒い思いを必死に胸の奥に押し込めた。頭の中で、首をもたげそうになる最悪の結末への予想を振り払う。
あの地獄の戦場を生き延びたシセルが箒から落下した程度で死ぬわけがない、否常人なら死ぬ高さだろうがシセルは常人から逸脱しているのだ。本人が聞いたら怪訝な表情をしかねないそんな思考を取り留めもなくしながら、自身の中指に嵌った指輪を眺める。
指輪の中央に嵌った点滅を繰り返す魔玉の赤い光は、シセルの箒の発信機と連動していて近づくごとにその点滅の間隔を早くしていく。その箒の傍らに居るのは、いつもの様にその白い歯を見せながら不敵な笑みを浮かべる彼女なのか、それとも光を失った眼差しのまま項垂れる魂の抜け殻なのか。早くなっていく魔玉の点滅はまるでリーゼの心臓の鼓動と共鳴しているかの様だった。
しかし心臓の脈動の音に気を取られて捜索を止めてしまうのは良くない、今はほんの数瞬の時間でさえ惜しい。リーゼは再び歩を進める。
そして丁度、その迷いを振り払う一歩を踏み出した時だった。指輪から点滅が消え、その代わりに眩いばかりの真っ赤な光が魔玉から放たれた。捜索終了の合図だ。もう目に見える位置に救難信号の発信源である箒はある筈。
「どこにある?!探せ!!シセル!助けに来たよ、生きてるなら返事しろ!」
「待て、待て待て!!あれだ、箒だ!!見つけたぞ死に損ないが!!」
クロムは箒を一際大きな樹木の根本に見つけると一気に駆け出した、シセルもそれを地面に生い茂る草に足を取られそうになりながらも追いかける。
だが、そこにあるのは箒だけだった。シセルの姿は無い。
自分たちのリーダーを見つけたと喜色を顔に浮かべた二人を嘲笑うかの様に、ヘッドライトの割れた箒が倒れている地面がそこにはあった。そしてその地面には何やら引きずられた様な跡が残っていて、それは森を抜けた先……木々の合間から僅かに見える巨大な屋敷……屋根の頂点にこれ見よがしに掲げられた十字架から察するに教会だと分かるそれに続いているのだった。
「……あいつら、どうやら総長を自分たちのアジトに引きずり込んだみたいだな……」
「嘗めた真似してくれるぜェ、あたいらのリーダーにクソ嘗めた事してくれた報いは必ず受けさせてやるゥ……ケツに足突っ込んでスリッパみてーにしてやるぜ、輪無しの堕天使どもがァ…!!!」
瞳の奥に怒りの炎を揺らめかす二人の視線の先は既に教会の入口へと向いていた。信心深い者にとってはあの教会は、自らの罪を告白し神に許しを請う為の神聖なる場なのだろう。だが心の全てを罪の色で黒く染め上げた二人には、あの建造物は今この瞬間を持ってして単なる破壊対象と成った。神聖な場所を穢したと、神が二人を地獄に落とすというのならば彼女らは口を揃えてこう言う筈だ。『好きにしろ』と。
地獄は彼女達の故郷だ。
「あーあ、しかしやってられませんねぇ。来るかも分からない敵さんのお陰で入り口の警備なんて……」
「ボヤくなよ、奴らの大将取っ捕まえて監禁してるんだから何時来たっておかしくない訳だし……まぁ、たった二人で何が出来るんだって話だけどさ」
教会の入り口前に佇む二人の堕天使。片方は携えたアサルトライフルの安全装置を入れたり切ったりしながら手慰みに弄びながらも、きっちりとその両足を大地の上に立たせて警備に励んでいるがもう片方の堕天使はというと、とっくにやる気を無くしたらしく地面に座り込んで口に加えた煙草から紫煙を吹き出している。
背中から生やした天使の翼は一切の汚れの無い純白色ではあるものの、心の内部までそうかと聞かれたらその答えは否であろう。天からの使い、といったイメージとは程遠い。
「まぁ、なんだ。ボスがあの女をとっとと始末さえしてくれりゃ私達も今日はもう上がれるだろう。……あの女、目つきは正しく凶暴そのもののだったがリングレスに楯突いたのが良くなかったな。あたしらのリーダーに手にかかりゃすぐにでも―――あれ?」
ライフルを持った方の堕天使は、ふいに自身の鼻先を擽り続けていた紫煙の香りが無くなっている事に気づいた。ついに煙草でも切らしたのだろうかと、そんな思考が頭をよぎる。何せ今回ずっと一緒に警備を共にしていた相棒は相当のヘビースモーカーだ、警備の間中ずっとその紫煙を肺の中に吸い込み続けていたので、その内切らすだろうと予想はしていたのだが。
しかし、その異変に気づいて背後を振り返っても先程まであったその姿は最早どこにも見当たらない。その代わり、とでも言わんばかりに地面には空になった煙草のパッケージがぽつりと残されておりその寂しげな光景に堕天使の胸の奥にぎゅう、とゆっくり心臓を掴むような不安感が到来する。
おかしい、何か嫌な予感がする。そう思うと同時にその足は当てもない一歩を踏み出していた。もしや今自分は危険な状況に一人で居るのではないかという漠然とした不安から踏み出されるその足は、その落ちていた煙草のパッケージのすぐそばに出来ていた何かが引きずられた様な後を追っていく。不吉なそれが導く先にあるものはきっと良くないものだろう。だが、確認せねば。それが番兵の仕事なのだから。
引きずった跡は、教会入口前を横切った茂みの奥へと続いている。一歩一歩、踏みしめる様に前進していくと、そこから見慣れたブーツの爪先が見えた。先程まで相棒の兵士が履いていたそれ。悪寒が背筋を走り抜けていく。
「うッ……!!そん、な!!どうなってる?!」
慌てて茂みの中へと足を踏み入れれば、そこにあったのは相棒の変わり果てた姿だった。その目は未だ何が起きたか理解出来ていないかの様に見開いたまま光を失っており、喉仏は謎の存在によって食い千切られていた。ほんの、一瞬だ。ほんの数瞬目を離した隙に殺されている等とは思いもしなかった堕天使はふらりと自身を目眩が襲うのを感じた。
殺した相手は?野犬か?それとももっと獰猛な何かだろうか、思案を巡らせる……だが危険とは不意にやってくるものだ。友の亡骸のすぐ傍で隙を見せてはいけない、殺した者はすぐそこに居るのだから。
「どうなってるもこうなってるもねェんだよォ、あんたのダチの肉は超マズかったぜ」
僅かに吹く風が木々の枝を揺らす音ばかりが聞こえる夜の闇の中で、聞こえたその声に驚く間も無く何かは、目に止まらぬスピードで天使との距離を詰めその手に握り締めた大振りのサバイバルナイフを走らせた。
しかし狙いは、相手の命ではない。その肩から下がったアサルトライフルだ。肩からかかっていたライフルのスリングをぶつりと、いとも簡単に切断してしまうと本来であれば頼もしいまでの攻撃力を有する筈のそれは無力にも地面に落ちてしまう。
「う、ぐ……!お前か、こいつを殺したのは……!!」
まるで茂みの中に潜む毒蛇の如く突如としてその姿を表した相手のその凶相を見てやろうと天使は喉元にナイフを突きつけられながらも目を見開いた。
夜空に浮かぶ雲の隙間からこぼれ出た月光が、その顔を照らし出す。
頬までべったりとついた赤黒い血、クロミウムの輝きを放ちながらも今はその色を血に染め上げてぬらぬらとした光沢を持った鋭い歯……間違いなく、この相手の女が言う様に食い殺されたのだろう、状況の理解も出来ぬままにあの天使は。
「クロム、ご苦労様。ここからは私の仕事だ」
「へッ、構いやしねぇよォ。不味い肉を二回も食らってやる程、私もゲテモノ食いじゃねェ」
血にまみれた凶相の持ち主である女は新たにその背後から姿を表した長身の女に、クロムと呼ばれていた、愚かにもそこで漸く天使は相手が、自分たちが屋敷の奥に監禁している女がリーダーの組織……夜霧の姉妹達のメンバーである事に気がついたのだ。
二人は、敵の仲間の死体を利用して待ち伏せていたのだ。こんな単純な、作戦とも呼べるかどうかも怪しいものにまんまと引っかかってしまった天使は後悔してもしきれない、やりきれぬ感情をその苦々しい表情ににじませていた。このままでは、殺される。第六感が警報を鳴らして、そう警告していた。
「ま、待て……あんたら、シスターフッドオブなんたらだろ?今あたしらに捕まってる奴がリーダーの……なぁ、落ち着いて話さないか。下っ端のあたしを痛めつけたって役に立つ情報なんて一つも――――うがッ!!」
「よく回る舌だな。引っこ抜いてやろうか?」
死という最悪の結果を避ける為に、何とかこの場を収めようと説得にかかる天使だったがそれが逆に長身の女―――リーゼの気に触れた。
まだ言葉も言い終わらない内にその容赦なきまでの暴力は襲いかかる。あろう事かリーゼは相手の口の中に手を突っ込んで、その舌を引っ張り出した。舌を掴んでいるのは人差し指と親指のたったの二本であるのにも関わらず、それはまるで万力の様な力強さだった。ギリギリと舌の根が引き伸ばされる痛みに天使の目尻からは思わず涙がこぼれる。
「おいおいおい、マジで引っこ抜くつもりかよォ?スゲェ楽しそうだけどんな事しちまったら情報が聞きだせねェ、聞く事聞いてからにしようぜ。そういう事はよォ」
くつくつと込み上げる笑いを隠そうともせずに喉を震わせて笑いながら口元を拭うクロムの姿はさながら食事を終えてご満悦の悪魔の様だ。天使が目の前で壮絶な死を迎えようとも、どうも思わないらしい。
「フン……どうしてやろうか。私らのリーダーの居場所を吐けば、まぁ舌は引き抜かないでおいてやる。だけれどこれ以上手間をかけるつもりで居るなら……失うのが舌だけで済むと思うなよ……?」
ごつ、とリーゼは相手の額に自分の額をくっつける様にして睨みつける。片方しか無い目の奥に見えるのは、ほの暗い闇だ。その奥に何があるのか全く読み取れもしない。
どんなものを見てくれば、そんなに冷たい目になるのか。舌の痛みとその眼差しの絶対零度の冷たさに慄いたのか天使はついに頭を縦に振った。
その瞬間、漸く舌から指が離れる。数分ぶりに痛みから解放された天使は思わず安堵のため息をつくが事態は未だ切迫したままだ。舌を離した手は、そのまま襟首を掴んでいる。
未だ逃げ出せる様な状況にはあらず、情報を引き換えに脅されているという状況はまるで変わってない。改めて相手の要求を受け入れざるを得ないのだと否が応でも思い知らされるのだった。
「分かった、分かったよ……!!あんたらのリーダーなら今頃、尋問担当官のキリークと地下の懺悔室に居るハズだよ!」
「……尋問担当官、だとォ?」
自分の命恋しさに情報を吐き始める堕天使を冷めた目つきで見つめていたクロムだったが、相手の発言にぴくりと眉をヒクつかせた。尋問担当官、という単語を聞いた瞬間に今までの飄々としていたクロムの顔つきが変わった。
「キリーク、つったなァ?その名前にアタイは聞き覚えがあるぜ……第二次聖魔戦争の時にフラディア地方の小さな村……そこであいつがやった悪行の数々もな……」
「な、何でお前……!キリークが聖魔戦争にテンプル団側で参加してるのを知ってる……あたしらの中でも知らない奴が多い事なのに!」
そう答える天使は、明らかに狼狽している様子だった。
「知ってるも何もよォ……そのキリークってやつなんだよ、聖魔戦争の頃……テンプル団の捕虜になったアタイの歯を全部引っこ抜いたクソッタレはァ……!!尋問担当官だァ?笑わせるぜ、あいつ昔からやる事全然変わってねぇのなァ」
「……クロム、間違いないのか?」
天使の着ている衣服を掴んで、身体の自由を拘束しているのはリーゼだったが、記憶の彼方に押し込めていた屈辱的な体験を掘り起こされたクロムが再び天使の喉元にナイフの刃を突きつけそうだった。
言葉で制する意味も含めてリーゼが尋ねると、クロムは頷くでもなく同意の返事を返すでもなく只々無言を貫いた。だが、眉間に皺を寄せそのクロムメッキの歯を怒りに震わせガチガチと音を立てている様を見れば、もはや言葉など不要にさえ思える。
「面白いじゃねェかよォ、あの頃の落とし前を付けさせてやる……あの頃アタイがされた様にあいつの歯をこの手で一本ずつ抜いて、苦しめてから殺してやる。因果応報、自業自得ってヤツだ……」
その瞳の奥に狂気の炎を揺らめかせているのは別に今日に限った事ではない。常日頃からその狂気はクロムの精神の奥底に眠っている。しかし、その炎は謂わば圧搾された状態だ。次に解放される時には、その炎は更なる熾烈さを持ってして炸裂する事だろう。
骨すら残さぬ様な煉獄の炎の渦があの堕天使たちのアジトである、あの廃教会を包み込むのだろう。ここまで怒りに燃えるクロムを久しぶりに見たリーゼはため息まじりにそんな不穏な予想をするのだった。
「……さて、必要な情報は十分聞かせてもらった……どうするかね、こいつ」
「ど、どうするって!?話せば開放してもらえるって約束だっただろぉ!!」
「んな事ァ一言も言ってねぇぞッ!!オラッ!!!」
どかり、とクロムの鋭い蹴りが堕天使の腹を無慈悲に蹴り上げる。そのまま力を失って膝から崩れ落ちそうになるのを、天使を拘束しているリーゼが許さない。
「お、お願いだ……あたしは本当にこれ以上の情報を持ってない。あんたらの目的が自分たちのリーダーの救出ならあたしの殺害は不可欠って訳じゃないだろ!!後生だから逃がしてくれ……!!」
よもや天使は、自分がこんな懇願をするとは思いもしなかっただろう。なんて奴らをうちの組織は敵に回したのか。後悔の念が怒濤のように押し寄せてくる。そして、そんな思いは目尻の涙腺から滴の形に姿を変えて頬を伝うのだった。
「……良いだろう、そんなに助かりたいなら助けてやるよ」
「……本当か?」
そう問うのは、意外にも堕天使ではなくリーゼだった。仲間が相手であるが故に言葉を選んだのだろうが、その問いの意味する所はシンプルに『正気か?』といった所なのだろう。その証拠にその眉は、怪訝そうに右片方だけが吊り上がっている。
普段は、冷静かつポーカーフェイスである事が多い彼女が、ここまで露骨にその感情を表情に表す事は極めて稀だ。それだけクロムの発言が意外に思えたのだろう。
「10秒数え終わる前に失せろ……10秒経った後も姿が見えたら、その時は命は無いと思いなァ……1……2……」
クロムは唐突に死へのカウントダウンを始めた。一回数を数える毎に手の中で先ほど堕天使を脅すのに使った、スパイク付きの護拳が付いている凶悪なデザインのサバイバルナイフをくるりと器用に回転させる。
それを見た堕天使は慌てて駆けだした。自らの肉体を拘束するリーゼの逞しい腕を振りほどき、生存本能の命じるままに先ほどリーゼとクロムがやってきた方角へと走り抜けていく。
「……本当にあれで良かったのか?」
「へッ、人道主義のリーゼ様が随分珍しい事言うじゃねぇか。アタイは気まぐれでね、もうお前との付き合いも結構長くなるし分かってんだろォ?」
そういえば、確かにそうだった。リーゼは思い返す。
クロムのこの気まぐれは、今に始まった事ではない。ある日を境に普通の少女であった筈のクロムは精神に狂気を孕む様になり、それ以降は時折意図不明の奇行をする様になった。言うならばこれもその、奇行の一つなのだろう。
「それにな、あたいのやる事成す事全部に理由があるだなんて思ってたら、お前らきっと疲れちまうぜェ?大体―――10秒経ったな、死ね」
言うなりクロムは、先ほどから何も持っていなかった左手を目にも止まらぬ素早さで、左腿のスローイングナイフのシースに伸ばした。
そこから先はまるで、風に揺れた枝から葉が落ちるかの様なよどみの無い一連の動作。親指と人差し指で挟むようにナイフの柄を持つと、そのまま真っ直ぐ堕天使が逃げ出していった方角へと投擲した。
哀れな堕天使は知る由も無い。クロムの五感が、まるで飢えた狼の如く研ぎ澄まされた超人的なものである等とは。外界の数値にして表すのであれば、視力4.0という驚異的な―――千里眼とも形容できる様なそれからたったの10秒で逃れる術などあろう筈も無い。
魔力によって風属性のエンチャントが施されたスローイングナイフは、通常の倍以上の飛距離を飛んでいく。魂を刈り取る死に神の鎌の如く、茂みをかき分け木の根を乗り越え逃亡を図る敵の背後を執拗に追いかけるそれは、美しい縦回転をしながらついに堕天使の首の真後ろに突き刺さるのだった。
もはや、声も出ない。口から大量の血の涎を吐き出しながら、駆けていた時の勢いもそのまま肉体は脱力し、地面の泥水の中に倒れ込む。
息をしようと必死に藻掻くが、もはや喉を通じて酸素が肺に送り込まれる事は無い。ただ、血と泥が混じり合った死の最後に味わうにはあまりにも悲惨な味覚が、口内に染み渡る様に広がるのみだ。
がぼがぼ、と肺に残った最後の息を鮮血と汚泥の混合物の中に吐き出して幾つかのあぶくを作りながらついに哀れな堕天使は、息絶えた。もはやその瞳の中に光を灯す事は無いだろう。
「10秒やったのになァ。トロい事してっとこういう事になるんだよ、間抜けな野郎だ」
くつくつと、喉を転がす様にして笑うその姿は極めて純粋そのもので、その表情を浮かべている時だけは年相応の少女だ。その姿を見慣れた筈のリーゼでさえもそれを見つめている時だけは、肌が栗立つのを感じる。狂気の片鱗。ゆがんだ精神の欠片が心の内部から出でて、その様な表情をさせるのだとリーゼは感じた。
「悪趣味だな、本当にお前は」
「人を殺すのに良い趣味も悪い趣味もねェだろう、おかしな事を言う奴だぜェ」
「私ならそんな殺し方はしない。手間暇かけずに一瞬だ……それが一番良い、誰にとってもな」
殺し自体を咎めているのではない。本来踏む必要の無い手順を通しての、回りくどいやり方にリーゼは苦言を漏らしているのだった。そういった意味では彼女も立派なSONMの一員なのだろう。目的の為ならば手段は問わない。SONMが数あるギャングやマフィアといった犯罪組織の中でも特に注意すべき存在とされているのは、それが理由の一つでもある。「素手で何十人も殺す様な馬鹿力女がんな事言うたァ驚きだねェ」
「……お喋りはここまでだ、必要な情報は聞き出し障害になりそうな門番二人も始末した……時間が惜しい、ここは一気に正面突破で行こう」
すでにここにやってきて、小一時間経とうとしている。シセルの身の安全の事を考えるならばこれ以上の時間の浪費はなるべくなら控えたい所だ。
「良いねェ~!!こういう展開を待ってたんだよ、いい加減喋って、脅してってのは飽きちまったぜ」
「奇遇だな、私も同じ事を考えてたよ。いつまでも私たちのリーダーを待たせていちゃ悪いからな……それじゃ……行こうか」
「……う……」
シセルは数十分ぶりに目を覚ました。箒から堕落し、堕天使たちの親玉であるサキエルにこの地下室に連れ込まれてからもうどれぐらいが経っただろう。
顔をしこたま殴られたお陰で目を少し開こうとするだけでも痛みが走る程だった。
それでも何とか目を開こうとすると、否が応でも視界に入るのはキャスター付きの金属の長テーブルだ。その上に置かれた金属のトレイには綺麗にメスや注射器が並んでいる。一見すると手術具のようだがその用途はまるで違う。その証拠にそのすぐ隣のトレイにはペンチ、釘、レンチといった工具が並んでいるのだった。
これは、拷問のための道具だ。残念な事にここにあるすべての道具が本来想定されている筈の用途の為に置かれているのではない。爪を剥がし、肉を貫き、皮膚を切り裂く為に態々用意されているものだ。
丹念に研がれた刃物達は、シセルをあざ笑うかの様に天井につられた照明の光をぎらぎらと反射させている。その刃に写るのは、左の瞼を青痣で腫れ上がらせ唇の端から血の筋を一本垂らしている無様な自分の姿だ。
腹立ち紛れに腕を振り上げその道具たちを払いのけてやろうとするが、その刹那に暗い地下室に響くのはじゃらりとした重たい金属の音。シセルの両手を戒める天井から伸びた太い鎖の音だ。
あぁそういえば、と思い出す。ここに連れてこられ、尋問という名の暴力行為を受け始めた頃に上半身の服は脱がされ、両手は鎖によって拘束されたのだった。
おまけに魔術を使えなくする特殊な薬剤をご丁寧に消毒の後に、注射してくれた為にお陰で摂氏二千度以上を超えるシセルお得意の煉獄の炎を手のひらから発する事も出来ない、そんじょそこらの金属ならば溶かしてしまう事など容易い筈のそれが無ければ、もはや手も足も出ないのだ。
「へっ……こんなもんだけで、アタシをどうにか出来ると思ってんだったら……大間違いだぜ……」
だがシセルは余裕だった。思わず、ふっと笑みがこぼれてしまう。服を脱がして半裸の状態にしたのは恥辱でも与えて口を割りやすくするつもりでいたのだろうが、生憎とシセルはそんな程度の低い事で恥じらいを覚える程初心でもない。
「あら~、やっぱりそうだったのねぇ?私もまだまだあなたをいたぶりたりないと思ってた所だったし……中々倉庫の鍵の隠し場所、教えてくれないんだもの」
ふと、女性の声が聞こえる。ややハスキーな色気のある声だ。
シセルがその声の方向に視線を向けると、そこには一人の女性が立っていた。毛先を切りそろえた黒髪のボブカットに若干ツリ目がちなその目つき。右の目尻に黒子が二つならんでいるのが特徴的なその女性こそが尋問担当官キリークである。
全身をブラックレザーのレディーススーツに身を包んだ彼女は、さながらボンデージSMのミス・トレスの様だが恐らくそう感じさせるのはその服装だけが原因ではないのだろうと容易に想像できる。
彼女の背後の壁には十字架にかけられた神の彫像が飾られている。しかし、それを全く意に介さずに蠱惑的な衣装に身を包んだ彼女からは神をも恐れぬ様な傍若無人ぶりが窺えて見える程だ。
「へッ、そんなに中の物が欲しけりゃあたしに鍵のありかなんざ聞かないで爆薬なり何なり使ってフッ飛ばしゃ良いんじゃねぇのかぁ?」
「……あんまり人を嘗めんなよ、クソガキが」
しかしこの様な状況であっても、シセルは相手を挑発しつづける余裕を見せた。が、どうやら相手はそれが気に入らなかったらしい。先ほどまで微笑を湛えていたその顔を怒りの表情に一変させ、その黒革の手袋に覆われた指でシセルの髪を引っ掴んだ。
そして強制的に自分の方を向かせるが、シセルはというと痛みに顔をゆがませながらもそのニヤついた笑みを顔から消す事は無い。まるで何をしても無駄だと言わんばかりに。
「爆薬なんかでどうにか出来るもんならそうしてるよ、トボけちゃってぇ……あの倉庫にに高度な防御魔法が組まれてる事ぐらい知ってるよ……そして、あの扉を開ける為には、特殊な鍵が必要な事もね。全部下調べ済みなんだから」
先ほど一瞬だけ浮かべたあの怒気に満ちた表情を誤魔化す様に、再びそのふんわりとした微笑を顔に浮かべるがもはやその表情の奥に潜む凶暴さを隠しきる事は出来ていない。
「そこまで分かってるんだったら、もうショボい演技で誤魔化すのも無駄だな……だが教えてやらねぇ。教えてやる訳がねェんだよ、ババアが。どうしてもありかが知りたいならアタシから無理矢理にでも聞き出すんだな……!それとも、尋問担当官なんて偉そうな肩書きはお飾りだったりするのか?」
「貴様……!」
先ほど漸く落ち着きを取り戻したばかりのキリークの顔に再び怒気がにじむ。その様子にシセルは、またもや余裕の表情を見せるのだった。
シセルのここまでの心の余裕には理由がある。右手の中指に嵌められた指輪がその根拠と言えるだろう。その指輪の中央に飾られた赤い珠玉。それは単なる装飾ではなく、魔力が込められた代物なのだ。封印の魔術―――シセル達がそう呼ぶそれこそが、今目の前のキリーク達が追い求めている倉庫の鍵となるのである。
「フン、よくもそこまで虚勢を張れたものねぇ?あんたのお気に入りのベストも!愛銃も!!全部こっちの手の中にあるのよ?!絶望的な状態なのよ?!!大っ嫌いだよ、あんたみたいに余裕ばっか見せつけて勝ったつもりでいるクソガキはァ!!!」
怒りに髪を振り乱す程にキリークの毛先の切りそろえられた美しい黒髪は乱れていってしまう。
自分の意のままに相手を翻弄する事を至上の喜びとするキリークにとって、全く思い通りにいかないシセルはもはや嫌悪感の塊でしかなかった。ヒステリックに喚き散らすその様にもはや先ほどまでの蠱惑的なまでの美麗さはどこにもない。
「アハハハハハッ!マジ切れしてんのかよォ、キリークさんよぉ!アタシにムカついてるのかぁ?だったらどうすんだ!!アタシの腕の一本や二本折ってみせろよ!!」
シセルの攻撃性に満ちた言葉がキリークの怒りを煽り立てる。
怒りは自らに盛る毒だと、誰かが言っていた様な気がする。シセルの脳裏をそんな思いが駆け抜けていった。これは、目の前の怨敵に盛ってやる毒なのだ、と。
事実その毒は見事相手の体内を循環している様だった。怒りに精神を蝕まれたキリークは徐々に冷静さを失っていく。動けば動く程にその毒は神経を侵し、やがて訪れる破滅へと着実に向かっていくのだろう。気づいた頃にはもう手遅れだ。
「上等だよ……そこまで言うならやってやろうじゃないの、今更後悔してももう遅い!」
シセルの思惑通りに事は進んでいた。
相手が自分の挑発に見事乗ってきたとなれば、まずしなくてはならないのは腕を折る為に両手を鎖の拘束から解放する事である。腕が鎖で吊られたままでは、非力なキリークでは折るどころか打撲痕の一つも付けられないだろう。そして腕が解放された所を狙って一気に反撃に出る。相手も多少の抵抗を予想しているだろうから早急に蹴りを付けなければいけない。故に解放された直後に狙うは拷問器具の並んだ金属製トレイの隣……自身から脱がされてしまったSONMのバイカーベストの上に置かれた愛銃エヴィエニスである。強力無比な殺傷力を誇るそれさえ手に入れば後は怖い物なしだ。
拷問という道具に頼り切りの一方的な暴力に慣れきった相手だからこそ犯してしまうミスを狙う。相手が怒りで冷静な判断が出来ないのを狙った賭けに近い行為だ。
そしてこの賭けには当然リスクを伴う。例え鎖から解放されたとしても魔術は使えないままだ。エヴィエニスを手に取れなければほぼ確実に殺されるといっても過言ではない。 能力を失った今のシセルは、もはや魔女ではなく強力な銃だけが頼りの負けん気の強いじゃじゃ馬女なのだから。
頭の中で勇猛果敢かつ無謀な反撃作戦の構図を練る。
ドゥ・オア・ダイ、殺さなければ殺されるのは自分だ。死に神が陰の狭間から手招きしてきた事など今までに何度もあった。その度アタシはそいつの頭に鉛弾をたたき込んできてやった、だから死ぬのは今日じゃない。死ぬのは全てを成し遂げてからだし、無名の墓標を立てるのはクラブハウスの裏にある黒薔薇の花園の中にと決めているのだ。
―――こんな場所で死んでたまるか。
反撃が、始まる。
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