世界で一番空気の読めるエレベーター

谷川人鳥

世界で一番空気の読めるエレベーター



 佐藤祐太さとうゆうたはいつものように自宅のマンションの一階で、帰宅途中で買った惣菜の入った袋をぶら下げエレベーターを待っていた。

 時刻はもうすでに深夜零時を回っていたが、世間ではIT土方と呼ばれる職種につく彼にとっては普段通りの日常だ。

 東京で一人暮らしを始めてから、もう六年が経つ。特別野心が大きかったわけでもなかったが、周囲に流されるように大学進学の際に上京し、そのまま卒業後も彼は東京に留まり続けていた。

 年に一度、正月は地元東北の実家に顔を出している。悩みらしい悩みはなかったが、しいて言えば、帰省のたびに両親から遠回しに恋人の有無を聞かれるのが鬱陶しいくらい。孫の顔がみたいだのと、ドラマや小説のような台詞をまさか実の親から聞くことになるとは彼も思っていなかった。


 古めかしい音が鳴り、ぎこちない挙動で開いたエレベーターの中へ彼は入り、疲れ切った身体を壁に寄りかからせた。

 他に利用者は誰もいない。自分の部屋がある四階のボタンを押し、気紛らしに口笛を吹く。

 高校時代は軽音楽部に所属していて、一時期は本気でミュージシャンになることを志していたこともあったはずだった。しかし、今やお気に入りのテレキャスターは実家の押し入れで埃を被っていて、ファンだったバンドのライブにもずいぶん長いこと行っていない。

 夢を諦めてしまったのがいつだったのかさえもよく思い出せなかった。


 それとなく感じる慣性が消え、再びエレベーターが扉を開けると、彼は眠気で重い瞼を擦りながら通路へ出る。

 あまり見栄えのよくない夜景を意味もなく眺めていると、どこか違和感を覚えたが、彼は特に深く考えることもなく、自室がある階の突き当りを目指す。

 さほど長くない通路にはすぐ終わりが来て、彼は部屋の扉を開こうと鍵を探した。

 

 ガチャリ。


 すると突然、目の前の扉がひとりでに勢いよく開き、思い切り彼の顔面を殴打した。


「痛っ!?」

「えっ!?」


 反射的に零れた小さな悲鳴に、若い女性の声が重なる。

 彼は何事かと痺れるような痛みと熱を感じる鼻を抑えながら前を向く。

 そこには紺のパーカーにスポーツ系のハーフパンツ姿の、髪を団子にした見知らぬ女性の姿があった。

 自分の部屋の中からまったく顔馴染みのない女性が出てきた。

 彼は困惑に思考停止することしかできない。


「あの、どちら様ですか? 私に何か用でも?」

「ぼ、僕ですか? 僕は佐藤ですけど、えーと、あなたは?」


 女性の言葉になんとか日本語の喋り方を思い出した彼は、熱の冷めない鼻に手を当てたまま、おずおずと女性が何者かを尋ねる。

 すると女性は警戒心を露わにした表情で、扉横の表札を指さす。

 

 301号室 斎藤


 ここでやっと彼は自らが致命的なミスを犯していることに気づき、顔を羞恥に紅潮させた。


「あ、す、すいません。部屋を間違えてしまいました。僕、ちょうどこの一つ上の階に住んでて。本当に申し訳ないです」

「なんだ。そうだったんですか。いえいえ。私もたまに間違えますよ。階段とかだと特に自分が何階まで来たかわからなくなりますよね」


 自分が使ったのは階段ではなくエレベーターだと言いかけたが、その事をあえて口にしても恥の上塗りにしかならないと気づき、彼はすんでのところで言葉を飲み込む。

 たしかに四階のボタンを押したはずなのに。

 納得のいかない思いに言い訳をしたかったが、する相手はどこにもいなかった。

 

「あ、鼻血」

「え?」


 ふと指に生温かい感触がすると、目の前の女性がはっと目を見開く。

 段々と口の中にも不愉快な鉄の味が広がり始め、彼は慌ててティッシュペーパーを取り出そうとするが、どこにしまい込んでいるのか、そもそも持ち歩いているのかさえわからなかった。


「とりあえず入ってください。血、抑えないと」

「あ、いや、大丈夫ですよ。僕の部屋、すぐ上なんで」

「駄目ですよ。だいたい、その鼻血、私のせいですよね?」

「そんなことないですって。ほんとに大丈夫なんで。気にしないでください」

「そうですか?」

「はい。そ、それじゃあ、僕はこれで。本当にすいませんでした」


 鼻頭を抑えたまま、彼は逃げるように通路を引き返す。

 間抜けとしか言いようのないヘマに、痛みを忘れるほどの恥ずかしさを感じていた。

 いつものくせでエレベーターのボタンを押す。実際は一階上なので、階段を使った方が早いが、どうしよもなく焦燥していた彼はそのことに気づけなかった。

 最上階まで行っていたのか、エレベーターは中々こない。


「あの、これ」

「え?」


 気づけば隣りには先ほどの女性がいた。よく考えれば、元々彼女は外に出ようとしていたので、それは当然のことだった。彼女もまたエレベーターを使うのだろう。

 そしてそんな彼女からなぜか汗だくになっている彼に差し出されたのは未使用のポケットティッシュだった。


「よければ、使ってください」

「あ、ありがとうございます」


 独特の硬質な鳴き声を上げて、エレベーターの扉が開く。

 それは降下方向で、彼を残り女性だけが一人乗り込むことになった。


「おやすみなさい」


 そして笑いを堪えるように軽く礼をする女性を乗せて、エレベーターは去って行く。

 静けさが戻った通路で立ち尽くす彼は、やっと階段を使った方が早いと気づき、手渡されたポケットティッシュをポケットにしまい込み、今度こそ自分の部屋へ帰って行った。


 そしてやっと自分の部屋に辿り着くと、彼はなんとなく安堵の溜め息を吐く。

 鼻血はもう固まり始めていて、洗面台で顔を洗い、軽くうがいをすれば鉄臭い口の中もだいぶましになった。

 惣菜を電子レンジで温めながら、お湯を注ぐだけですむ味噌汁を準備し、水分が飛んでかたくなった米を茶碗に盛る。

 なんとなくテレビのスイッチをオンにしてみたが、一通りチャンネルを回すと消してしまった。


「それにしてもずいぶんと久し振りに女の人と喋ったなぁ……」


 少し味が濃すぎる惣菜をおかずにご飯を食べ終わると、満腹感と、それとはまた別の充実感にぼんやりとする。

 それでも時計を見ると重い身体を持ち上げ、風呂場へ向かった。明日の朝も早い。風呂から上がったらさっさと寝てしまうつもりだった。

 本当は湯船に入りたかったが、そんな暇はないし、水道代も無駄な気がした。

 シャワーで汗を流すだけにして、すぐに風呂から上がる。

 部屋着として普段使用しているバンドTシャツを羽織ると、髪を乾かすのも面倒臭がり、歯だけ磨くことにする。

 すると、ふと顔の中央付近に違和感を感じる。

 鏡を見てみれば、止まったはずの血がまた鼻から流れてきていて、彼は慌ててティッシュペーパーを鼻の穴に差し込んだ。


 そういえば、風呂に入ると血管が拡がって血が流れやすくなると聞いたことがある、そんなことを思い出しながら、彼は寝つきが悪くなりそうだと頭を掻いた。

 歯を磨き終わると、彼はコップ一杯の水を最後に飲み、電気を消しベッドに入る。

 しかし、彼の想像通り、鼻に詰まったティッシュが気になり、中々寝付けない。

 そうなってくると、今度は窓の鍵は閉まっているかだの、部屋の扉の鍵は閉め忘れていないかだのと、余計なことばかり気になってくる。

 一度気になると、もうその事が頭から離れない。

 彼はどうせ寝付けないからと、誰にともなく言い訳をし、また電気を付けて、まず窓を確認する。なにも問題はなかった。

 ついでにと、玄関扉のところまで行く。するとなんと、鍵自体は閉めてあるのに、扉が半開きの状態になっていた。

 扉が閉まり切る前に鍵を捻ってしまい、掛け違いのような形になってしまったのだ。


「ああ……」


 帰って来る時は、そういえば少し気が動転していたなと、彼はひとり納得する。

 そしてあの程度の出来事で、戸締りも忘れるほど焦るなんて、自分もまだまだ若いなと変に嬉しい気持ちにもなった。

 鍵を閉めようと、彼は手を伸ばす。


 ガチャリ。


 その時、彼の手が扉に届く前に、ドアノブが勝手に傾く。

 軽い貧血と就寝前のリラックス状態ということもあって、咄嗟のことに対し彼はいとも簡単にフリーズを起こした。


「……え?」


 掠れた音を立てて開いた扉の向こう側から顔を出したのは、見覚えのある女性の困惑に満ちた顔で、目を真ん丸にして気の抜けた声をした。

 

「あ、あれ? うそ。もしかして私も……うわ! 超恥ずかしい! え、え、なんで! 私絶対三階押したのに!」

「あ、えーと、斎藤さん、でしたっけ?」

「ご、ごめんなさい! 私、その、階を間違えちゃって……さっきのさっきなのに、お恥ずかしいです」


 顔をみるみるうちに紅く染め上げて、女性は完全に取り乱した様相を見せる。

 そこにいたのは、少し前に彼が部屋を間違えた一つ下の階の女性だった。

 自分がミスをした時は、凄まじく慌てたが、案外立場が反対になると冷静でいられるものだと、彼は不思議に感じていて、立場が反対になったことの影響は、女性の方もまた大きく受けているようだった。


「いえいえ。よくあることですよ。僕が言うと説得力があると思うんですけど」

「ふふっ、そうですね。凄い説得力です。……でも、鍵の閉め忘れなんて、不用心ですよ」

「はい。気をつけます」


 先ほどとは違ってすらすらと出てくる言葉に、彼は気をよくしていた。

 女性はまだ照れが顔に若干残っていたが、彼よりは回復力が早そうだ。


「鼻血、まだ止まってないんですか? 本当に申し訳ないです」

「あ、いや、全然大丈夫なんで。実際さっきまで止まってたんですけど、僕、お風呂に入っちゃって、それでまた」

「それじゃあ、お詫びに、これ」

「……いいんですか? ありがとうございます」

「いえ」


 女性はコンビニでも行ってきたのか、レジ袋からプリンを一つ取り出した。

 貰ってばかりだなと彼はなんだか申し訳ない気持ちになってきたが、反対に渡せる物にも覚えがなかったし、渡す理由も思いつかなかった。


「……あ、それ、アジフーですね」

「え? あじふー?」

「はい。そのTシャツ」

「あ、ああ、はい、そうです。アジフーですよ。僕、好きなんです、このバンド。前はよくライブとかも行ってました。最近はあんまり行ってないんですけど」

「私も音楽けっこう好きで、この前アジフー知って、今ちょっとハマりかけてるところです」

「そうなんですか。お勧めですよ」

「いいですよね、アジフー。音源持ってなくて、ユーチューブでしか聞いたことないんですけど、あのでっかいエビが出てくる曲とかめっちゃ好みでした」

「ああ、あのシンクロナイズドスイミング中に乱入してくるやつですか? エビが?」

「はい、それです。他にもソラニンとかも気に入ってます」

「ソラニンはいいですよね。実は映画とか原作の方は見たことないんですけど」

「えー、それはもったいないですね。そのプリンと同じくらいお勧めなんで、是非観てみてください」

「了解です。観てみますね」


 最初女性の言う、アジフーが何を指しているのかわからなかったが、Tシャツと言われてようやく理解した。

 あまりメジャーではなく、どちらかというとマイナーな方の略称を使うので、すぐに今身に付けているTシャツのバンドのこと言っているのだと気づけなかったのだ。


「それじゃあ、私、もう行きますね。本当にお騒がせしました」

「いえいえ。お互いさまですから」

「ふふっ、たしかにそうですね」


 そして簡単な挨拶を最後に女性はまた去って行った。

 扉を閉め、今度こそ鍵をかけ、彼はベッドに戻る。

 だがそこまで来たとき、ある一つのアイデアが閃いた。

 枕の傍にある小さな棚を急いで漁る。すぐに目当てのものは見つかり、彼は息を荒げながら、大慌てでまた玄関の方に向かった。

 

 さすがにまた部屋まで行くのは気持ち悪いよな。もしもう下に行っちゃってたら諦めよう。まあ、たぶんもう行ってると思うけど。


 ほんの一握りの希望と大量の言い訳を用意しつつ、閉めたばかりの鍵を開け、彼は弾かれるように通路へ飛び出す。

 するとまだエレベーターの前で涼し気な表情をして立っているさっきの女性を見つけ、彼は鼻に詰めたティッシュが落ちることにも気づかず走り出した。


「あ、あの!」

「……佐藤さん?」


 いきなり息を切らして駆け寄ってきた彼に驚いたのか、女性は呆気にとられたようにしている。

 そんな女性に、彼は自分で奇妙だと自覚できる、崩れた笑顔で胸に抱え込んだ数枚のディスクを差し出した。


「これ、アジフーのアルバムです。たぶん、全部揃ってるんで、よかったら」

「あ、ありがとうございます。……じゃあ、遠慮なく借りさせてもらいますね」


 二、三枚では収まらない数のCDアルバムを手渡して初めて、もしかしたらお節介だったかと後悔したが、もう全ては遅い。

 それでも女性は心底嬉しそうに、というよりはおかしそうに笑っているので、彼は少しだけ安心した。


「……今度、一緒にライブとか行けたらいいですね。私もそのTシャツ欲しいです」

「え? あ、はい。そうですね。機会があれば是非。まだこれ売ってるかちょっとわかんないですけど」


 灰被りの電子音を鳴らし、そこでやっとエレベーターがやってくる。

 階段を使った方がどう考えても早かったが、そのことに女性もまたエレベーターが来てやっと気づいたようで、会釈して乗り込む際の頬が仄かに桃色に染まっていた。


「ふふっ、それじゃあ、今度こそ、おやすみなさい」

「あ、はい。おやすみさない」


 まるで彼の返事を聞き終えるのを待っていたかのように、ちょうどのタイミングでエレベーターの扉が閉まる。

 彼はふと鼻に詰めていたはずのティッシュがなくなっていることに気づき、慌てて指を当てる。

 しかし、そこに若干の違和感は残っていても、不愉快な粘液の感触はしない。


 もうとっくのとうに鼻血は止まっていて、感じられるのは仄かな温もりだけだった。




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