最終章 郷花堅乱 PART9 (完結)
9.
四礼した後、ぱんぱんと続けて八拍叩き内宮の神様に挨拶を交わした。今年に入って二度目の伊勢参りとなる。一人で参るというのはやはり寂しいものだ。
……けれどこんな空が見れる日は嫌じゃない。
駅へと帰りの歩を進める。空は今にも振り出しそうな灰色に染まっていた。普段なら憂鬱な気持ちになる所だが、今日に限ってはそれもいい。
今日は伊勢神宮の大事な祭りの一つである、新嘗祭があった。この日から三重の人間は今年の新米を味わうことがしきたりとなっている。
ちょうど二十年前、薫と初めて出会ったのもこの祭りからだった。すでに穂が刈られた農地で様々な遊びをし、様々な話をし、共に神社の子として誇りを培っていた。
もう、あの頃には戻れない――。
そう思うだけで何故こんなにも胸を締め付けられるのだろう。すでに半年の月日が経つというのにだ。
私の心の穴はぽっかりと開いたまま一向に塞がる気配がない。それ以上に癒えない傷は拡大の一歩を辿っていく。
今日は碧と茜の三人で待ち合わせだった。仕事を終えて近所のバーで話をする予定だ。六十二回目の式年遷宮も無事に終わりを迎えることができ、お疲れ会という名目だった。
バーに入ると、先に碧が来ていた。大学生に扮していた格好とは裏腹に萌葱色のロングスカートがよく似合っている。
「こんばんは」
碧は優しい声でいった。
「久しぶりね」
「……うん」
彼女もそれに続く。
「……お姉ちゃんも」
碧はヒールの高い靴を履いており、自分より一歩背丈が伸びていた。しかし自分がハイヒールを履くのはしばらく後になるだろう。
「茜ちゃん、やっぱり遅くなるんだって。だから先に乾杯しよっか。私はビールを飲むけど……向日葵は何にする?」
碧は小さく手をあげて、ギネスを、と告げた。店員は無言で頷き、黒ビールの蓋を開ける。
「私はノンアルコールカクテルにして貰おうかな」
店の主人が黙って、メニュー表を持ってきた。結構な種類があり、それを目で追うだけでも楽しめる。吟味していると、その中に彼女の目を引くカクテルがあった。
「ラバーズドリームでお願いします」
「かしこまりました」
店の主人はシェイカーを準備し、レモンジュースに砂糖を加え、卵の黄身を投入した。
「ラバーズドリームってどういう意味なの?」
碧が口を開く。
「さあ、忘れちゃった」
彼女は首を捻った。
「とっても甘くて栄養満点なカクテルだってことは覚えてるけど」
「へぇ、そうなんだ」
店の主人がシェイクを始めた。その姿に薫の面影を滲ませる。彼のシェイク姿は本当に様になっていたなと思い直す。
「今日のスーツはシックでお洒落だね」
碧はグラスに口をつけてからいった。
「パンツスタイルも似合うじゃない」
「ありがとう」
彼女は微笑を浮かべた。
「たまには大人っぽい格好もしないとね」
そういった後、彼女は常盤色のコートを脱いだ。中のスーツは一つ大きめのサイズを着てきたのだが、もう少し大きくてもいいなとも思う。
「お姉ちゃん、知ってる? 昔の日本の喪服の色」
「うん、もちろん知ってるわよ」
碧は笑みを浮かべたままいった。
「白かったんでしょ? 穢れを払うという意味で」
「うん。中国から渡ってきたみたい。だから今でも中国では白なんだって」
「じゃあ……」
碧は彼女のスーツを見ていった。
「今日の向日葵の格好じゃどっちでも使えないね」
「……そうだね」
店の主人がコースターに乗せ、彼女の方へとカクテルを流す。二人はグラスを小さくぶつけ、乾杯する。
「今でも日本を離れたいと思う?」
「ううん、そうは思わないよ」
彼女はかぶりを振った。
「新しい目標ができたからさ……」
「……そっか」
碧は彼女に視線を向ける。
「そうみたいね」
碧はそれ以上、追求せず静かに店の雰囲気に身を委ねていた。
向日葵はグラスを傾けてカクテルを口にした。レシピ通りの組み合わせで、申し分ない配分量だ。
だけど……。
胸に掛かった太極図で出来た玉を掴む。白と黒の勾玉が合わさっており、どちらも光輝いている。
……もし彼が存在すれば、今の私はどこにいるだろう――。
何度も夢想した考えが再びよぎる。イギリスに逃亡できているかもしれないし、もしかしたらすでにこの世にはいないかもしれない。
どちらにしてもここにはいなかっただろう。
グラスを置いた後、コースターの隅に何かが書かれてあることに気づいた。そこにはカクテルの名の意味が添えられていた。
『恋人達の夢』
淡く輝くジンジャエールの中に、幾億の星の輝きが見えそうだった。今宵も彼はきっと無邪気に星を眺めているのだろう。ヒビが入った黒の勾玉から連続した光が零れる。それがまた夜空の星座を連想させていく。
彼を想うだけで、私の中に眠る夢も合わせて鼓動する。これからも生きていこうと前向きになれる。
携帯に繋がっているストラップを眺めた。そこにも太極図を描いているアクセサリーがついている。それを眺めるだけで、彼の言葉が次々と息を吹き返していく。
――これも一つの恋ですね。
彼は太極図が一つの恋だといっていた。同じ色に染まらないからこそ、愛の言葉があるといっていた。
私も同じ気持ちだよ、薫君――。
「僕は今、初めて生きたいと思いました。本当に心の底からです。葵さんと一緒にいられると思うと、表現しようのない感情が沸いて来るんです。この感情はきっと愛情だと思います」
――好きですよ、葵さん。
彼女は目を閉じて星一つない夜空を想像した。そこには彼の幻影が浮かび、純粋な笑顔が映っていた。
薫は本当に純粋な人だった。純粋に自分の意志で道を切り開き、夜空を彩る星を愛した。
迷うことがない、何色にも染まらない夜空のような黒だった。
……彼を染める色はこの世に一つしかない。
それは白だ。何色にも染まっていない白色だけが彼の色を染めることができる。
私自身、真っ当な世界で生きてきたとは思えないが、彼は私のことを純粋な白だといってくれた。彼への愛は純粋な真白色だったと思いたい。
純粋な黒に純粋な白を混ぜると、それは限りなく純粋に近いグレイとなる。
はたして、あなたは何色になるのだろうか――。
長編小説3 『限りなく純粋に近いグレイ』 くさなぎ そうし @kusanagi104
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