第五節 そっとおやすみ

 算数のテストが返ってきた。

 今回はちょっと難しかったかな。

 担任の先生が、そんなことを言って笑った。


 確かに、今までのテストとは少し問題の傾向が異なった。

 先生が作ったものではないのかもしれない。


 それでも、ヒサシにとっては大した違いは無かった。

 きちんと問題の中身を見て。

 手順通りに解いていけば良いだけだ。

 点数は百点。

 返ってきた答案を見て、ヒサシは満足気にうんとうなずいた。


「ヒサシくん、すごいね」


 突然、横から声をかけられた。

 幼馴染のカナミだ。


 少し前までは、一緒に虫取りなんかをしていたカナミだったが。

 最近では、すっかり女の子らしくなってしまった。

 このときも、カナミの髪からは、ふわっとした甘い匂いが漂ってきていた。


「私、算数苦手だから」


 カナミが答案を折り曲げて、ちらっと点数のところを見せてきた。

 六十点。

 確かに良いとは言えない点数だ。


「いいな、ヒサシくんは勉強できて。かっこいいな」


 カナミの言葉が、ヒサシの胸の奥に触れて。

 どきっと、心臓が大きく跳ねた。


「そうかな」

「そうだよ。勉強できるって、かっこいいよ」


 何気ない、無邪気な一言。


 それでも、ヒサシにとっては大切な言葉だった。


 ヒサシは、勉強ができる。

 勉強ができるのは、かっこいい。


 もっと頑張って、いっぱい勉強して。

 いい成績を取って、偉くなっていければ。


 そうすれば、きっと何もかもがうまく行く。


 そう、信じていた。



 ・・・信じていたんだ。




「これ、ヒサシなのか?」


 タイキの口から、そんな言葉がこぼれ出た。

 真っ黒い巨人。ヨル。


 貯水池から重い身体を引きずり出して。

 今にもこちらに近付いて来ようとしている。


 その下には、他にも無数の黒い影。

 揃って、助けを求めるように。

 我先にと手を伸ばして。


 足掻あがき、うごめき。

 空を掴んでいる。


 ユウが、その中に飛び込んだ。

 左手が一閃し、数匹のヨルが切り払われる。

 まるで雑草か何かだ。


 何の感慨も無いまま、更に返す刀で数匹のヨルが両断された。

 夜の空気に黒い姿が溶け込んでいく過程で。


 タイキの中に、ヒサシの想念が流れ込んできた。



 バレーボール部の活動。

 ネット際に立って、ジャンプしてアタックを繰り返すタイキ。

 体育館の入り口を、ヒサシが横切るのが見えた。


 タイキはバレー部のスター選手であり、レギュラーだ。

 二年までは現役で活動していた。

 バレーばかりで、勉強なんて見向きもしていない。


 定期テストの順位も、成績も、全然大したことは無いし。

 そのことを、タイキ自身全く気にしたことも無かった。



 巨大なヨルが、ユウ目がけて腕を振り下ろした。

 ユウはするり、とその攻撃を避けると。


 その腕を、一刀のもとに切り落とした。



 タイキには友人が多かった。

 バレー部の仲間ともよく話をしていたし。

 クラスの男子ともみんな仲が良かった。

 話をしないのは、ヒサシくらいだった。


 女子とも一緒にいることが多かった。

 一年のときから、バレンタインデーには大量のチョコレートを受け取っていた。

 カナミもまた、その内の一人だった。


 女子人気が高い理由の一つとして、あまり悪い噂が無いということもあった。

 その気になれば手あたり次第、やりたい放題なのだろうが。

 タイキはそういったいい加減なことは好まなかった。

 むしろバレーボール一筋で、男女交際には興味なんて無い感じだった。



 切られた腕が、空気の中に溶け込んでいく。

 だが、ヨルの腕はすぐに再生した。

 元々実体などは存在しない。

 あるのは夜の闇と。


 ヒサシの苦しみだけだ。



 バレーにしか興味が無くて。

 彼女なんて作ろうともしなかったタイキが。


 三年になって、部活を引退して。


 受験勉強を始めた途端、急に成績が上がり始めた。

 スポーツ推薦でもない限り無理だろうと思われていた大学入試も。

 すっかり模試で良い順位を取るまでに至っていた。


 更に、タイキはカナミと付き合うことになった。

 以前からカナミはタイキにアタックを繰り返していて。

 それがようやく念願叶って、というカタチだった。



 タイキは顔を上げた。

 かつてヒサシであった、真っ黒いヨルを睨みつける。

 タイキの視線に気が付いたのか。


 ヨルもまた、タイキの方を向いた。



 雨の日の教室で。

 タイキは、カナミと見つめ合って。


 唇を重ねた。


 それが初めてのキスだった。

 付き合うとは言っても、タイキはカナミを粗末に扱ってきたつもりは無い。

 タイキはタイキなりに、カナミを大事にしてきた。


 自分のことをずっと見て、したってくれた女子だ。


 好きになって、何が悪い。


 付き合って、彼女にして。



「それが、何なんだよ、何だってんだよ!」


 タイキは大声で怒鳴った。


 確かにヒサシと比べれば、タイキは努力をしていなかったかもしれない。

 だが、何か悪いことをしただろうか。

 汚いことをしただろうか。


 期間は短かったかもしれないが、勉強はした。

 要領の違いって奴だろう。テストには運も関係する。


 カナミの方から、タイキのことを好きだと言ってきた。

 二年以上も想い続けてくれている女子のことを、好きになって何がおかしい。


「俺のやってることが、お前に何の関係があるんだよ!」


 長い間努力をしてきて。

 それが追い抜かれるのは、確かにいい気分がしないだろう。

 しかし、そんなのは良くある話だ。

 結果でしかない。


 カナミのことが好きだった。

 それは気の毒だ。

 残念ながら、カナミはタイキのことが好きだったんだ。

 勉強する以外に、カナミに好かれるために、カナミを知るために。

 他にすることがあったんじゃないか。


 そうだ。



「お前が勝手に失敗して、勝手に死んだだけじゃないか!」



 ヨルが吠えた。

 その咆哮は、悲しみと。

 痛みと。

 苦しみが一つになって。


 聞いた者の心に、深く突き刺さる。


 重くて、暗い声だった。


 ヨルがタイキに向かって、腕を伸ばした。

 影が、タイキ目がけて迫ってくる。

 丸太のように太く、圧力を持ったヨルの腕が。


 タイキの眼前にまで迫ったところで。


 ユウが、素早く左手の刃を振るった。


「あんまり挑発しないでほしいんだけど?」


 地面に落ちる前に、切られたヨルの断片は分解し。

 何も残さずに消え失せた。


 タイキはその場に尻餅をついて。

 ただ呆然と。

 胸元の青い光に照らされた、ユウの貌を見上げた。




 ヨルの咆哮を聞いて。

 カナミの頬を、涙が伝った。


 ヒサシが何を考えていたのか。

 何を想っていたのか。


 カナミはただじっと、黒い巨人の影を見つめていた。



 茜色に染まる教室。

 これは、中学のときだろうか。

 いつもと同じように、ヒサシが机に向かっている。


 教室の外を、カナミは走っていた。

 何か用事があって、急いで家に帰ろうとしていた。

 その際、ふと、一人で残っているヒサシの姿が目に入ったのだ。


 特に深い理由も、意味も無い。

 ただ、幼馴染として、友人として。


 軽い気持ちで、カナミは声をかけた。


「ヒサシ、勉強、頑張ってね」


 ヒサシが顔を上げて。

 カナミの方を見た。


 そういえば、ヒサシの顔をちゃんと見るのは、久し振りだった。

 いつも下を向いて。

 教科書や、問題集や、難しい本ばかりと付き合っている。


 だから。


 そのときは、単に笑顔が見れて嬉しいとしか思わなかった。


 ヒサシが笑顔を浮かべたこと自体が珍しいだなんて。


 考えもしなかった。



 カナミは右手を挙げて。

 ヒサシであったヨルに向かって、掌を伸ばした。


 ずっと近くにいたのに。

 一度もかえりみることの無かった、幼馴染。



 ヒサシに感化されて。

 カナミは、自分でも少しは勉強を頑張ってみようと思った。


 ヒサシの受ける高校を調べて。

 努力すれば届くと判って。


 カナミの中に、ちょっとだけ悪戯心が芽生えてきた。

 ヒサシを驚かせてやろう。


 そんなくらいの気持ちだった。


 合格発表の日、受験した生徒たちが揃ってぞろぞろと高校まで歩いていく。

 カナミはヒサシに、小さく手を振ってみせた。

 びっくりしている。

 その姿を見て、カナミはちょっと満足した。


 カナミだって、その気になればできるんだ。

 無事に合格していることを確認して。


 ヒサシに向かって、カナミはにっこりと笑ってみせた。


 どんなもんだ。


 そのときも。

 ヒサシは、優しく微笑んでくれた。


 そんな笑顔が、カナミにしか向けられたことが無かったなんて。


 知らなかったんだ。



 胸の奥が痛い。

 ヒサシの想いが流れ込んでくる。


 黒い人影が、にじんで見えない。


「ヒサシ」


 カナミの声に。

 ヨルが、そちらの方を向いた。


 何も無い真っ黒な顔が、カナミの姿を捉えて。


 ぴたりと、その動きを止めた。


 ヒサシは。


 幼馴染で。

 友人で。


 カナミにとっては、そこにいて、静かに本を読んでいるだけの存在。


 勉強ばっかりで。

 友達も作らないで。


 何でも良いから、話してくれればいいのにって。


 心のどこかで、さげずんでいた。


「ごめんなさい」


 右掌を握って。

 伸ばした手を胸元に引き戻す。


 目を閉じて。

 うつむく。


 そして。



「私、あなたを選べない」



 残酷な真実が、カナミの中から言葉になって飛び出した。



 ヒサシであったヨルが身をよじり。


 再び、大きな唸りを上げた。


 夜を切裂いて。

 叫びとも、呻きともつかない。


 暗く、重く。

 そして、悲しい声を轟かせた。



 答えなんて、ずっと判っていたことだった。

 一方的な夢。身勝手な妄想。


 最初から、絡み合うことなんて無かった。


 いつかは突きつけられる現実。

 たったそれだけのこと。


 それでも。


 少しでも、希望があるなら。


 掴みたかったんだ。


 届かない空を。

 そこにいる、君を。




 地面から、次々とヨルが沸き出してくる。

 痩せ細った人型が、空に向かって手を伸ばす。


 数体を一息に薙ぎ払ってから、ユウはふぅ、と息を吐いた。


「キリが無いから、ここはもう、おまかせしてしまっても良い?」


 その言葉に応えて。


 ユウの胸元で、ペンダントの宝石が妖しくまたたいた。


 小さく微笑んでから。

 ユウは目を閉じた。


 青い光が強さを増して。

 ユウの髪が、ふわり、と持ち上がった。

 生き物のように揺れ動く黒髪の向こうで。

 ゆっくりと、ユウが目を開く。


 真っ直ぐにヨルを見据えるその眼差しは。


 身震いするほどに鋭く。

 冷たく。


 先ほどまでの憂いなど、欠片も感じさせなかった。


「人づかいの荒いことだ」


 同じ声であるのに。


 そこに込められた感情は、今までのユウとはまるで異なっていた。


 左手の刃を、ユウは大きく振るった。

 先ほどとはまるで異なる、激しい影の旋風が巻き起こり。


 無数のヨルが、その一振りで消え失せた。


「悲しい想いよ、闇に還れ。静かに眠れ」


 地を蹴って、一息に跳ぶ。

 その先にいるのは、かつてヒサシであった巨大なヨルだ。


 ユウはヨルを睨みつけた。

 肥大し、荒れ狂うヒサシの想いは、もう形を固めつつある。


 この苦しみを。悲しみを。

 痛みを。


 癒してくれるものなど、無い。


 後はただ。


 夜の暗黒の底に、ヒサシを深く沈めて。


 光も音も無い、永遠の眠りの中にいざなうことしかできない。


「苦しかったな。もう、いいんだ。ここは、お前の世界じゃなくなったんだから」


 静かな声で、そう囁きかけて。


 ユウは、ヨルの眉間に刃を突き立てた。



「おやすみ」



 その言葉が、ヒサシの心をそっと撫でて。


 ユウの眼から、涙が一粒流れ落ちた。




 ヒサシには、勉強の他にできることなんて、何も無い。


 ずっとあきらめていた。

 うらやましいと思っても。

 すぐに無理だと悟って、手を離してしまっていた。


 できなくても、別に構わなかった。

 何故なら、ヒサシには勉強があったのだから。


 それだけ頑張っていれば、カッコいいって言ってもらえる。

 いい成績が取れれば、きっと振り向いてもらえる。


 カナミは、努力しているヒサシのことを、ちゃんと見てくれている。

 気にしてくれている。


 今よりも頑張って。

 もっとずっと、誰よりも勉強ができるようになれば。


 カナミはきっと、ヒサシの方に振り向いてくれる。



 ・・・でも。


 ヒサシは、タイキに負けてしまった。


 カナミは、タイキに取られてしまった。


 ヒサシにはもう、何も無い。


 ヒサシの世界は、終わってしまった。



 頑張っても、何も手に入らない世界。


 ここにいても、どうしようもない。


 冷たい水の中に身体を沈めたとき。


 ああ、これで、何も考えなくて良いんだって。


 頑張らなくても良いんだって。


 ヒサシはむしろ、ほっとした。



 おやすみ、カナミ。


 おやすみ、世界。


 おやすみ、ヒサシ。


 おやすみ。



 いい夢を見ようね。



 暗くて静かで。

 優しい夜が、ヒサシの身体をそっと包み込んだ。




「じゃあ、どうすれば良かったのよ!」


 カナミが泣き声を上げた。

 四つん這いになって、ぼろぼろと涙をこぼす。


 その横で、タイキが所在無げに立ち尽くしていた。


 夜の貯水池は、静寂に包まれている。

 虫の声もしない。


 ただひたすらに静かに。

 そこに眠るものを、夜の闇が抱き締めていた。


「別に。あなたが生きたいように生きなさい。正解なんて無いんだから」


 ユウの声色は、突き放すようだった。


 カナミが嗚咽を漏らし。

 タイキが、激昂してユウを睨みつけた。


「何だよ、俺やカナミが間違ってるって言うのかよ」


 タイキの視線を、ユウは涼やかに受け流した。


「勝手に失敗して、勝手に死んだ」


 タイキがヨルに向けて放った言葉。

 それを繰り返して、ユウは肩を落とした。


「強者の理論ね。あなたが何かに失敗したとき、誰かに同じ言葉を言われないと良いわね」


 全ての努力が報われるわけでは無い。

 全ての想いが通じるわけでは無い。


 どんなに足掻あがいても、努力しても。

 掴むことのできないものがある。


 誰もが幸せである世界など、存在できるはずも無いのだから。


 みんなそうだ。

 買い手の付かなかったペットたちも。

 ミキコの下に辿り着けなかったマチコも。

 カナミに届かなかったヒサシも。


 みんな自分に与えられた環境の中で精いっぱいに生きて。

 そして死んでいった。


 それを見くだして。

 勝手に失敗して、勝手に死んだとは。


 自分のいる場所が高みであると信じて疑わない。

 滑稽こっけいな、自称強者の戯言たわごとだ。


「安心して。たとえあなたがそうなったとしても」


 ユウの胸元で、青い輝きがきらめいた。



「夜の闇は平等よ。全てを許して、優しく包み込んでくれるわ」



 ユウはきびすを返した。そのまま足を踏み出す。

 もうそこには用は無いとばかりに。

 振り返る素振りなど、まるで感じさせなかった。


「・・・何処に行くの?」


 ユウが立ち去ろうとするのを気配で察して。

 カナミが問いかけた。


「寝た子を起こして回っている困った奴がいるからね。それを追いかけないと」


 ひらひらと手を振って。


 暗闇の中に、ユウは消えていった。


 後に残されたカナミは。

 黙って、貯水池の濁った水面を見つめていた。

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ヨルを狩る者 NES @SpringLover

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