第四節 掌からこぼれ落ちる
高校の中休みは、いつもガチャガチャとしている。
騒々しくて、ちっとも集中できない。
そんな状況でも、ヒサシは黙って問題集と向き合っていた。
少しでも成績は高いままを保っておきたかったし。
何より、ヒサシにできることは、これしかない。
席に着いたまま、ただひたすらに問題を解く。
そのすぐ近くを、女子の一団が大声で話しながら通り過ぎていった。
うるさい奴らだ。
流行とか、恋愛とか。
そんな話題は、ヒサシには縁が無い。
似合わない、向いてない。
自分でも良く判っている。だから、手を出そうなんて思わない。
教室の片隅で、ひときわ大きな笑い声が上がった。
ちらり、とそちらに目をやると、タイキを中心にしたグループだった。
タイキは人気者だ。いつも周りには誰かしらがいる。
バレー部のエースだそうだ。それは人気があるだろう。
これもまた、ヒサシには縁の無いこと。関係の無いものだった。
ヒサシには、こうやって勉強をして、いい成績を取ることしかできない。
でも、それで良かった。
そうすることで、ヒサシはヒサシでいられた。
自分の居場所を得ることができた。
一問解き終えて、一息入れるつもりで。
ヒサシは教室の中にカナミの姿がないかと目線を泳がせた。
丁度教室の一番後ろ。
カナミは、友達と何かを喋りながら、外に出ていくところだった。
廊下へと歩いて行くカナミの背中を見送ってから。
ヒサシは再び問題集に向かった。
それ以外に、ヒサシにできることなんて何もないのだから。
真っ暗なトンネルを抜けると、やはり暗い雑木林が続いていた。
この先の旧道には、もう街灯の明かりは無い。
ろくに手入れもされていない、ひび割れたアスファルトの道。
それが、山の奥の暗闇に向かって吸い込まれていた。
先ほどまでのひんやりとした空気は。
湿度の高い、ねっとりとした肌触りに戻ってしまった。
虫の声が、より一層大きく感じられる。
昼でもほとんど人の寄りつかない場所だ。
自分の肩を抱いて、カナミは小さく身震いした。
誰も足を踏み入れることのない、寂しくて、静かな場所。
「この先?」
ユウの問いかけに、カナミは
「古い貯水池があります。そこで・・・」
次の言葉は、咽喉につかえて出てこなかった。
真っ暗なトンネルを抜けて、ここに辿り着いたとき。
果たして、彼は何を想ったのだろうか。
苦しみが、痛みが、悲しみが。
夜の闇の中で、行き場を見失って荒れ狂い。
彼は今、ヨルと化してしまっているのだろうか。
「カナミ」
背後から声をかけられて、カナミはぞっとした。
くぐもった男の声。
足音が反響している。
トンネルの中を、誰かがやってくる。
恐怖のあまり、カナミは身動きが取れなくなった。
鼓動が早くなる。
膝が震える。
まさか、本当にそうなのか。
呼吸が荒い。
背後を見る勇気が無い。
もしそれを直視してしまったとして。
カナミは、一体どうすればいいのか。
「カナミ、やっぱりこんなところに」
トンネルを抜け出て、ようやく声の主は明らかになった。
聞きなれた声色に、カナミは全身の緊張を解いて。
後ろを振り返った。
「タイキ、脅かさないでよ」
手足から力が抜け落ちる。
ぐったりとその場に座り込みそうになったカナミを。
タイキが慌てて抱き留めた。
「それはこっちの台詞だ。何でお前、こんなところに」
何の連絡もせずに塾をさぼり、メッセージも返信して来ないカナミを心配して。
タイキは、もしやと思ってこの場所を訪れてみた。
そうしたら、案の定だった。
真っ暗なトンネルの向こうで、カナミは見知らぬ少女と二人で歩いていた。
その姿を見て、タイキは急いで追いかけてきたのだ。
タイキの腕の中で、カナミは小刻みに震えていた。
カナミの細い身体を力強く抱き締めながら。
タイキはカナミと一緒にいた少女、ユウの方に目線を向けた。
ユウは何も言わず、冷やかに二人の様子を見つめていた。
何の感情も無い、あるがままを映すだけの眼。
ぞっとするほど美しいユウの貌に、タイキはしばらく我を忘れていたが。
数秒の後、はっと思い出したようにカナミに語りかけた。
「カナミ、お前やっぱりヒサシのことが・・・」
ヒサシの名前を聞いて。
カナミは表情を強張らせた。
タイキの腕を振りほどき、そっと身体を離す。
おぼつかない足取りで数歩後ずさって。
深淵へと続く道を背にして。
カナミは、タイキの顔を暗い眼差しで睨み付けた。
「気になるよ、ならないわけないじゃん」
タイキはカナミのことを気にかけてくれている。
カナミが自分の中で全てが整理できるようになるのを、ずっと待ってくれている。
それは判っている。
判っているのに。
どうしてだろう。
いつまでも、このわだかまりが消えてくれない。
「私が」
何も悩むことなく、ただタイキのことを好きでいたいと思うのに。
「私がヒサシのことを、もっと気にしてあげていれば・・・!」
言いたくない。
タイキの前で、こんなことは言いたくない。
それでも。
吐き出さずにはいられない。
ユウの視線を感じる。
胸元で青く光る宝石に照らされながら。
ユウは、黙ってカナミの言葉に耳を傾けていた。
さぁーっという、静かなホワイトノイズのような音。
朝からずっと、学校の中はその音で満たされていた。
雨脚は少しも収まる様子が無い。
恐らく、夜になっても雨は降り続けるだろう。
誰もいない廊下を、ヒサシは一人歩いていた。
つまらない忘れ物だ。問題集の解答冊子を机の中に置きっぱなしにしてしまった。
無くても何とかなる、とはまだ胸を張って言うことはできない。
最近はどうも成績が伸び悩み気味だ。
壁にぶつかるのは成長している証、と
正直、そんな余裕は全然無かった。
少しでも勉強して。
少しでも成績を上げて。
少しでも良い順位を取る。
今までそうやってきたのだから、もうヒサシには他にやれることなんて何も無かった。
それがヒサシの唯一の存在価値だと言っても良い。
そのために努力をしてきた。
何もかもをなげうって、それだけに集中してきた。
それなのに。
眉間に力が入る。
この前の模試の順位は最低だった。
荒松タイキ。
お調子者で、スポーツマンで、社交的で、ルックスだって悪くなくって。
クラスの、いや、学年という範囲で考えても人気者だ。
タイキに色々な魅力があるということは、ヒサシにも判っている。
それがヒサシに無いことを嘆いても仕方が無い。
無い物ねだりをするほど、愚かではないつもりだ。
ただ。
受験生になったから、ちょっと本気で勉強してみちゃいました。
そんな程度の、その場限りの努力で。
タイキは、ヒサシよりも上の順位を取ってしまった。
毎日、ひたすらにそれだけを目指して。
他の何を失ってでも、それだけは譲らないと必死に喰らいついてきたヒサシ。
それが、こんな簡単に。
実にあっけなく、抜かされてしまうなんて。
今までのヒサシが、全て否定されてしまったようで。
ヒサシは、気分がすぐれなかった。
どうせまぐれだ。今回だけだ。
自分にそう言い聞かせて、変わらず問題集に向かってきたが。
どうにも調子が出ない。
今日だって、こんな忘れ物をすること自体がどうかしている。
普段ならあり得ないことだ。
放課後、もう誰もいない学校の中を悶々と歩く。
それだけで、ヒサシの気分は沈んできた。
早く解答を持って帰ろう。
何も考えず、問題集を進めよう。
ヒサシにできることなんて、他には何もないのだから。
教室の引き戸に手をかけたところで。
「タイキ、この前のテストすごかったよね」
話し声が漏れ聞こえてきた。
まだ誰かが中に残っている。
「まあ、ちょっと本気出してみました、って感じかな」
聞き覚えのある声。
「何言ってんの、スケベ心でしょ?」
「ははっ、バレたか。それでも凄くない?実際あんな順位取れちゃったわけだし」
音をたてないように、ヒサシはそうっと引き戸を薄く開いた。
隙間から教室の中を覗くと、そこにはタイキと。
カナミがいた。
「そうね。頑張ったのは確かね」
楽しそうに笑っている。
カナミの笑顔。
あんな風に嬉しそうなカナミの姿を、昔はもっと近くで見ていた気がする。
ヒサシの胸の中に、何か重いものがのしかかってきた。
カナミとは、小学校からずっと一緒だった。
幼馴染、そう言えば聞こえは良いかもしれない。
だが実際は、ただの腐れ縁だ。
少なくとも、カナミの方はそうとしか思っていないだろう。
こんな、勉強しか取り柄が無いような。
何も無い、ヒサシのことなんか。
「ほら、約束だぜ。模試の順位でヒサシを抜いたら」
タイキの口から自分の名前が出て、ヒサシはびくっと反応した。
カナミの顔が。
「別にいいけど。今、ここで?」
赤く上気している。
見たことの無い。
そして、いつかは見たいと思っていた。
初めての表情。
タイキがカナミに近付く。
タイキの手が、カナミの肩に触れている。
優しく。
それでいて、力強く。
「そ、ここで」
カナミは抵抗しない。
むしろ、うっとりとタイキを見つめている。
「ばか」
二人の唇が触れるのを。
ヒサシは、じっと見ていた。
見ていることしかできなかった。
目を離すことも。
その場から立ち去ることも。
何もできなかった。
ヒサシには、もう何もできなかった。
掌から、何もかもがこぼれ落ちていく。
ヒサシを、ヒサシでいさせていた、何もかも。
雨の音が、全てを洗い流していく。
何も無い。
何も残らない。
気が付いたら、ヒサシは雨の中をずぶ濡れで歩いていた。
鞄も、その中の問題集も水
でも、もういい。
気にしなくていいんだ。
どんなに頑張ったって。
どんなに努力したって。
手の届かないものがある。
自分には、これしかないと思っていても。
自分よりも運や才能のある者が。
あっさりと追い抜いて、前へ前へと行ってしまう。
ヒサシなんて、元から何もできないんだ。
ただ
ひょっとしたらなんて、勝手な夢を見て。
沈んで、消えていくだけの存在。
もう、いいんだ。
努力するのも。
うらやましいって気持ちをごまかすのも。
もう、疲れたんだ。
「ヒサシは、貯水池に飛び込んで、自殺しました。遺書が残ってました。自分には、もう何も無いって」
遺書には、模試の順位のことが書かれていた。
通夜に参列したとき。
久し振りに会ったヒサシの両親が、カナミに一通の封書を渡してきた。
それは、ヒサシからカナミに宛てた手紙だった。
手紙には、ただ切々と、ヒサシのカナミへの気持ちが
ヒサシが、ずっとカナミのことを好きでいたということ。
その気持ちが、カナミには迷惑であろうということ。
それでも。
カナミがタイキと付き合っているという事実に耐えられなかったということ。
最後に。
勝手に想って、勝手にカナミのせいにするような手紙を書いてしまって申し訳ない。
そんなつもりは一切ない。ただ。
気持ちだけ、判ってほしかった。
そう締められていた。
カナミにとって、ヒサシは幼馴染だった。
勉強ばかりしていて、もっと友達でも作れば良いのに、と常々思っていた。
恋愛の対象としては、残念ながら該当はしていなかったが。
それでも、カナミはヒサシの友人のつもりではいた。
悩みがあるのなら、話してもらえると信じていた。
「私が悪いんです。テストの順位で賭けとか、それもくだらない」
タイキと付き合い始めたころは、カナミもだいぶ舞い上がっていた。
模試の順位がヒサシよりも上だったら、キスしてあげる。
他愛もない、軽い冗談のつもりだった。
だがそれをヒサシが知ったら、どう思うだろうか。
ヒサシの気持ちなんて、カナミは何も考えたことが無かった。
そして実際に、タイキがヒサシよりも高い順位を得て。
ヒサシは、どれだけ苦しんだだろうか。
手紙には、教室でカナミとタイキがキスしていたところを見てしまった、と書かれていた。
盗み見るつもりは無かった。許してほしい。
震える文字が、ヒサシの複雑な気持ちを表していた。
そんなカナミに、ヒサシが悩みを打ち明けることなど、あるはずがない。
いっそ、責めてくれればいい。
罵ってくれればいい。
それなのに。
気持ちだけ判ってほしいって。
「気にするなって、そんなの無理だよ」
カナミの眼から涙が落ちて、アスファルトの上に染みを作った。
身勝手だ。
自分の心無い言葉が、ヒサシを追い詰めていたなんて、考えもしなかった。
近くにいるから、何でも話してくれると思い込んで。
教室の隅で、いつもと同じように座って、勉強しているって。
ずっと、そのままだと。変わることなんて無いのだと。
「カナミ、もういい。俺も悪かったんだ。調子に乗ってた。浮かれてたんだ」
タイキがカナミの肩に手を置いて。
そのまま、そっと抱き寄せた。
カナミはタイキの胸元に横顔をうずめて。
小さくしゃくりあげた。
「それから、貯水池には近付かないようにしてたんです。でも」
「ヨルになってる。そう思うのね?」
ユウの言葉に、カナミはうなずいた。
それまでじっとカナミの話を聞いていたユウは、ふむ、と考え込む素振りをした。
「ヨルって、何の話だよ?」
タイキが、意味がわからないという顔をしている。
ユウは肩をすくめてみせた。
「行って、見てみれば判るわ。口で説明しても、どうせ信じないでしょう?」
まだ何か言いたげなタイキを尻目に。
ユウはさっさと道を歩き始めた。
この先に、貯水池がある。
一ヶ月ほど前、一人の高校生が自らの命を絶った場所。
タイキはカナミの顔色を
カナミは、怯えていた。
「ねえ、タイキ、私、間違ってないよね?大丈夫だよね?」
歯の根が合っていない。
カナミは震えている。
ヒサシが。
かつての幼馴染が。
ヨルと化していることを、恐れている。
「ああ、大丈夫だ。カナミは間違ってない」
タイキはカナミの手を力強く握った。
水の中は、暗くて冷たい。
熱く火照った身体と心を鎮めてくれる。
苦しみも。
痛みも。
悲しみも。
もうどうしようもない。
とりかえすことなどできない。
人の気配がする。
無理に起こされてから、妙に気分が
どうしてそっとしておいてくれないのだろう。
水面から、顔を出す。
来訪者の姿を確認する。
人影は三つ。
一人は、知らない誰か。
何故だろう、その小さな少女を見ていると、妙に心の中がざわついてくる。
こいつは、何だ?
もう一人は。
胸の奥で、焔が
熱くなる。
焦がれる。
どうして。
どうして、カナミがここに?
自分を訪ねてきてくれたのだろうか。
少しでも、想いは通じたのだろうか。
そう考えたところで。
更にもう一人。
カナミに寄り添って立つ、男の姿。
荒松タイキがいるのが、判った。
・・・ああ、そうなんだ。
焔が、暗くなった。
胸の奥に、闇が広がって行く。
もうそこに、自分の居場所なんて無い。
自分だけがいない世界。
みんなそこで、楽しく生きている。
カナミも、タイキも。
愉快に暮らしているんだ。
苦しんでいた誰かがいたことなんて、思い出すことも無く。
愛し合って、唇を重ねて。
身を寄せ合っているんだ。
自分が一生懸命喰らいついて、かじりついて。
それでも、何一つ手に入れられなかった、その場所で。
ほんの少し。
軽い気持ちで手を伸ばすだけで。
いとも簡単に、何もかもを持って行ってしまう。
どうしても欲しかった全てを。
大切にしていた何かを。
汚して。
好きにして。
欲しいものを手に入れて。
思うさまに生きて。
目の前から全部を、奪い去って行く。
悔しい。
苦しい。
身体が熱い。
熱くて、冷たい。
今更。
どうして。
どうして、僕の気持ちを無視するんだ。
何も考えずに、踏みにじって行くんだ。
どうして。
僕を、捨てていくんだ。
貯水池と呼ばれている場所は、ただの薄汚い沼だった。
申し訳程度のフェンスで囲まれた中に、濁った水面が揺れている。
今はそれよりも、貯水池から身を乗り出してきたもの。
暗く、見上げるほどに巨大な人影。
ヨルの方が、問題であった。
「これが・・・」
タイキはヨルの姿を見上げて、言葉を失った。
夜の闇よりも暗い、漆黒の影。
沼から這い出そうとしている、大きな人間の上半身。
タイキを見下ろす、何も見通せない真っ暗な顔が。
タイキには何故か、ヒサシのものに思えてならなかった。
「大当たりね。これはすごい」
ユウが左手を振るった。
影が巻き付き、掌を覆って。
この世で最も薄く、鋭利な刃が形作られる。
前に出ようとするユウの眼前に。
地面を突き破って、人型のヨルが掴みかかってきた。
ユウは無言でヨルを切り飛ばした。
それを皮切りにして。
そこかしこから、黒い人影、ヨルが沸き出し始めた。
ヨルたちは地面から上半身だけを突き出して。
みな
手に入らない何かを求めて。
耐えきれない痛みに呻いて。
声も無く、ただ空を。
自分のいない世界を、掴み取ろうとしていた。
「ヒサシ、こんなの・・・」
震える声でそう呟いて。
カナミは、がっくりと地面に膝をついた。
その眼前で。
かつてヒサシであった巨大なヨルが。
助けを求めるように、その手を伸ばしてきていた。
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