第三節 忘れないように
クラクションの音が聞こえる。
何処からだろう、すごく近い。
ああ、そうか。この車だ。
クラクションが鳴りやまない。
ハンドルの上に頭が載っているからか。
しぼんだエアバッグの感触。
それもなんだか、ひどく不確かだ。
ライトの明滅。
これは、ハザードランプだろうか。
いや、そうじゃない。
視界全体が揺らいでいる。
明るくなったり、暗くなったり。
そうだ、こんなことをしている場合じゃないんだ。
待っているんだ。
行かなくちゃいけないんだ。
手足に力を入れようとする。
おかしい。
何も感じない。
手も、足も。
今すぐにでも起き上がって。
立ち上がって。
走っていかなければいけないのに。
どうして。
涙で、目の前がぼやける。
何かが頬を伝う感触だけは判る。
ぼろぼろと、次から次へとこぼれ落ちる。
指だけでも。
顔だけでも。
かはっ。
呼吸が、できない。
いやだ。
いやだいやだいやだ。
待っているんだ。
行かなくちゃいけないんだ。
こんなところで。
こんなところで。
そして、マチコの意識は、ゆっくりと消えて行った。
陽が長くなったとはいえ、もう辺りは真っ暗だ。
駐輪場にはほとんど人影が無い。
もうさっきから何度目か判らないが、タイキは携帯の画面を確認した。
カナミからの返事は無い。
メッセージも未読のままだ。
画面を消して、タイキはふぅっと息を吐き出した。
学校でも、カナミはずっと浮かない顔をしていた。
色々あって、不安定なのは仕方が無い。
タイキは、彼氏として少しでもカナミの支えになってやりたいと考えていたが。
カナミの方は、何一つとして触れてほしくは無いようだった。
そういうことであるならば、タイキには待つことしかできない。
時間が、少しでもカナミの心を癒してくれると、信じるしかない。
誰かが駐輪場に入ってきた。
期待を込めてそちらの方を向いたが、残念ながらカナミでは無かった。
カナミと同じ塾に通っている、クラスの友人トモアキだった。
「なんだよ、おまえかよ」
「なんだってのはなんだよ」
そう言いながらも、トモアキは笑っていた。
タイキがカナミの帰りをここで待っているのは、トモアキにとっては毎度のことだった。
がっかりされるのにも、もうすっかり慣れている。
「タイキ、カナミなら今日は休んでたよ」
「マジか」
トモアキの言葉に、タイキは目を見開いた。
そんな話は聞いていない。
真面目なカナミが、彼氏であるタイキにも一言の断りも無く塾をさぼるなんて。
タイキはまた携帯を取り出した。
やはり連絡は無い。
今日の塾に関しても、何も言ってきていない。
「サンキューな」
軽く手を振って、タイキはトモアキと別れた。
トモアキが何やら苦笑いしていたが、とりあえずは放っておこう。
カナミは、何処に行ってしまったのか。
タイキには嫌な予感がしていた。
マチコに、娘のミキコができたとき。
マチコは本当に幸せだった。
ずっと欲しかった子供だった。
自分が産み落とした、小さな命。
頼りないしわくちゃの指をつついて。
マチコは優しく微笑んだ。
自分が母親になったということが、何よりも嬉しくて。
初めのうちは、ミキコの姿を一日中眺めていた。
マチコの人生は、決して恵まれているとは言えなかった。
凡庸な家庭に、十人並みの容姿と、平凡な才能を持って生まれて。
毎日を過ごすだけで、マチコには精いっぱいだった。
そんなマチコでも、素敵だと思う誰かを好きになることもあった。
しかし、好きになってもらえる、ということは無かった。
道端に生えている雑草。
そこにあっても、無くても同じ。
マチコは、ずっとそんな存在だった。
だから、求められてしまえば、それだけで誰かに必要とされていると考えてしまった。
あっけなく蹂躙されて、捨てられる。
そんなことの繰り返しだったが。
それでも、そのときだけは自分は必要にされていると。
自分に言い聞かせて生きてきた。
ミキコの父親が誰なのかも、結局最後まで判らなかった。
だが、マチコにはそれで良かった。
ミキコは、間違いなくマチコを必要としている。
マチコがいないと生きていけない。
二人で、生きていこう。
ミキコを見ていると、それだけでマチコには生きる希望が持てた。
今まで、誰からも愛されることは無かったけれど。
ミキコのことは、誰よりも愛してあげられる。
ミキコもきっと、マチコのことを愛してくれる。
頑張ろう。
頑張って生きてみよう。
小さなミキコの命を腕の中に感じて。
マチコは、自分にそう言い聞かせた。
暗闇に包まれた旧道は、まばらな街灯のスポットに照らされていた。
光の輪から光の輪へと、辿るように進んでいく。
その外には、真っ暗な森が広がるばかりだ。
この時間、この場所を歩く人間などいない。
いても、変質者か、なんらかの犯罪を企む者だ。
いや、そんな人間でも、こんな場所で待ち伏せしようなどとは思わないだろう。
何故なら、この道の続く先には、何も無い。
カナミは顔を上げて、前に続く暗闇を見つめた。
何も無いと解っているこの先にあるものとは、一体何なのか。
悲しみだろうか。
絶望だろうか。
そして、それを見届けたとして。
カナミは、何をどうしようというのだろうか。
虫の声が聞こえる。
後は、自分の足音だけ。
ずっと歩いてきた。
何分、いや、何時間かかったのか判らない。
ただ足の向くまま、気持ちの向くままに。
或いは。
誘われているのか。
目の前の闇の中から、何かが浮かび上がってきた。
黒よりも黒い、暗いアーチ型。
誰も通らない旧道に口を開けた、大きなトンネル。
その入り口にまで歩み寄って。
カナミは、ようやくその歩みを止めた。
トンネルの中からは、ひんやりとした空気が流れてくる。
そのせいなのか、周囲の温度が少し低い気がした。
流石に恐ろしくなってきて、カナミは唾を飲み込んだ。
この向こうに、彼がいる。
その想いが、どんどんと強くなってきている。
それはもう、確信だった。
ここを抜けなければいけない。
意を決して、カナミは一歩を踏み出そうとした。
「こんな時間に、一人で何処に行くの?」
驚いて、カナミの口から、ひっ、という声が漏れた。
トンネルのすぐ脇から、ふわり、と青い光が漂い出た。
その周りに、遅れて少女の姿が浮かび上がる。
夜の中で、何よりもその存在を強く輝かせる少女。
小島ユウだった。
「しかもこんなところで。女の子が一人で肝試しってわけでもないでしょう?」
ユウの言葉に、カナミはうつむいた。
ユウは全てを承知しているとでも言いたげに。
優しく微笑んでみせた。
「何か心当たりがあるのね、ヨルに?」
カナミは黙ってうなずいた。
一人でミキコを養っていくのは、簡単な話では無かった。
実家からの援助もあったが、マチコは可能な限り誰の手も借りずにいたかった。
ミキコは、自分の子供だ。
自分一人のものだ。
その思いが、とても強かった。
収入が無ければ食べてはいけない。
朝早くから、夜遅くまで。
マチコは身を粉にして働いた。
大した資格があるわけでもない。できることなど限られている。
それでも、ミキコのためだと思えば、不思議と力が沸いてきた。
どんなにつらくても、苦しくても。
ミキコの笑顔を見れば、これでいいと思えてくる。
その日。
保育所から電話があったとき、マチコは気が気ではなかった。
ミキコが熱を出している。
それも、相当ひどい様子だ。
慌てて上司に謝り倒し、車に飛び乗った。
昨日までは、今朝までは何も変わった様子は無かったのに。
いってらっしゃいって、手を振ってくれたのに。
甘えん坊で、いつも別れ際には泣いてしまって。
良い子にしていれば、すぐに迎えに来るよって言って。
指切りして、ぎゅって抱き締めてからでないと、離してくれない。
可愛いミキコ。
私の宝物。私の全て。
ミキコの誕生日には、大きなケーキを買うつもりでいた。
ミキコが大好きな、チョコレートのケーキ。
板チョコに名前を書いてもらって、四本の蝋燭を吹き消す。
おめでとうって言って。
笑って。
だから。
一刻も早くミキコのところに駆け付けたかった。
ミキコがいなければ。
マチコには、何も無くなってしまう。
自然と、アクセルを踏む足に力が入って。
トンネルの中で。
湿った路面に、ハンドルが取られて。
後には。
痛みと。
悲しみだけが、残った。
トンネルの地面を覆い尽くしているのは、無数の手だった。
何かを探して、まさぐっている黒い手の群れ。
ユウがそれを切り捨てる度、カナミの中に誰かの想いがなだれ込んできた。
一歳の誕生日。
優しく撫でる手。強く抱きしめる感触。
「なんで」
カナミは思わず声を出した。
初めての言葉。
まま、という響き。
心が、温かい気持ちで満たされる。
「なんでよ」
ユウの左手が振るわれる。
青い光が、トンネルの闇を切り裂く。
ハッピーバースデーの歌。
まま、おたんじょうびおめでとう。
これからも、ミキコといっしょにいてください。
「なんでなのよ!」
カナミの叫びが、トンネルの中に反響する。
黒い影が。
女の姿をしたヨルが、むくり、と身体を起こした。
しきりに手を伸ばして。
何かを掴もうとしている。
そこにはいない何か。
もう絶対に届くことの無い。
彼女の、たった一つの生きがい。
ユウが踏み込んだ。
影の刃が、ヨル目がけて鋭く繰り出される。
ミキコ。
私の、大切な、たった一人の、娘。
「もうおやすみなさい。これ以上、悲しまなくて良いから」
ユウの言葉と、一閃を受けて。
ヨルは、ゆっくりと崩れ落ちた。
地面から伸びた無数の腕も、力なく
その様子を、カナミはただ呆然と見つめていた。
意識が消えていく。
マチコは、自分がもう助からないと判っていた。
それでも、もう一度、ミキコに会いたかった。
この手で、あの小さな掌を握って。
二人で、いつか見た
ぎんなん、臭いねって。
笑いながら話して。
高い空、青空を見上げて。
寒い寒いって、身体を寄せ合って。
お互いの暖かさを感じて。
幸せだなって、思いたかった。
ミキコ、ごめんね。
お母さん、行けなくてごめんね。
約束、守れなくてごめんね。
ごめんね。
トンネルの丁度真ん中辺り。
壁沿いに、ひっそりと花が供えられていた。
さっきのヨル――マチコが息を引き取ったのは、この場所だった。
もう枯れて、すっかり色褪せた花束の前に、カナミはしゃがみ込んだ。
最後まで、自分の娘を想い続けたマチコ。
彼女の無念が、想いが。
ヨルとなって、ここに留まっていた。
たった一人で、娘との小さな幸せだけを願って。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
残された娘は、ミキコはどうなってしまったのか。
カナミは、胸が苦しくなった。
「この人、結局娘さんには会えなかったんだよね?」
カナミの問いかけに、ユウは感情の無い声で応えた。
「そうね」
ぐっと、カナミは奥歯を噛みしめた。
ユウを責めるのは間違っている。
ユウには何の罪も無い。
ユウはカナミを守ってヨルと戦い。
その想いを鎮めただけだ。
それでも。
「死んだ人間には、もう生きている人間の世界をどうこうすることはできないわ」
ユウの言葉を聞いて、カナミは振り返った。
静かに立っているユウを、きつく睨み付ける。
「じゃあ、残った人間はどうすればいいの?」
ユウに食って掛かっても仕方が無い。
それは判っている。
「こんな、こんなことがあったって知って、知ってしまって」
判ってはいるが。
「私は、どうすればいいって言うのよっ!」
カナミは、そう叫ばずにはいられなかった。
ユウにも見えていたはずだ、聞こえていたはずだ。
ヨルが、なぜ生まれたのか。
何を想っていたのか。
だから、ヨルを切り裂くとき、ユウは優しく語りかけている。
もう、苦しまなくて良い、と。
悲しまなくて良い、と。
「覚えておいてあげて。こんな人がいた、こんな想いがあったって」
ユウは微笑んだ。
全てを許して、全てを包み込むような笑顔。
今まで、ユウがどれだけのヨルを
どれだけのヨルの想いに触れてきたのか。
ユウが見てきた痛みの、悲しみの数は、計り知れない。
・・・そうか、それがこの子の憂いなのか。
得心して、カナミは両掌で顔を覆い。
声を上げて泣いた。
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