第二節 残された想い

 騒々しい、目覚まし時計の電子音が聞こえてきた。

 眠りの壁の向こうから、徐々に意識が戻ってくる。

 カナミは、うっすらと目を開けた。


 自分の部屋の、ベッドの上。

 勉強机も、本棚も、クローゼットも。

 何もかもが、いつもと変わらない。


 手を伸ばして、やかましくがなり立てている目覚まし時計のスイッチを切った。

 カーテンの隙間から、陽の光が差し込んできている。

 朝だ。

 今まで通りの、カナミの日常が始まろうとしていた。


 しばらく、カナミはぼんやりとベッドの上に座り込んでいた。

 考えがまとまらない。

 昨日のあれはなんだったのだろうか。


 夢?


 そう思ったところで。

 右腕が、ずきん、と痛んだ。


 肘から下に、大きな擦り傷ができている。

 自転車で転んだときに負ったものだ。


 夢ではない。

 その事実に、カナミはひどく動揺した。


 こんなことが。

 こんなことが、現実にあるなんて。


 カナミの視線が、ふらふらと部屋の中を彷徨さまよい。

 勉強机の上を見たところで止まった。


 そこには、学校指定の鞄が投げ出したままになっている。

 学校。

 教室の隅の方で、机に向かう一人の男子生徒の姿。


 カナミは、ぎゅうっと自分の膝を抱いて丸くなった。




「はい」


 目の前に差し出された少女――小島ユウの手を、カナミはじっと見つめた。

 まだ、思考が追い付いていない。

 今ここで、一体何が起きているというのか。


 ふぅっ、と軽く息を吐くと。

 ユウはしゃがみこんで、無理矢理カナミの掌を握った。

 柔らかく、しっかりとした感触。

 ぐい、と引っ張って、ユウはカナミを立ち上がらせた。

 カナミは小さくよろめいたが、なんとか自分の脚で身体を支えることができた。


「何が・・・」

「ごめん、まだ終わってないから、細かい話は後で良いかな?」


 ユウが言い終える前に、周囲から唸り声が聞こえてきた。

 一つや二つではない。

 数えきれないほどの獣たちの気配が、カナミとユウを取り囲んでいる。


 カナミはユウにしがみついた。

 自分よりも年下らしい少女にすがるなど。

 冷静に考えてみればおかしな話だったが。

 そのときは、そうする以外には何もできなかった。


「うん、そうやっておとなしくしててくれればいいから」


 街灯の明かりの向こう。

 暗がりから、黒い何かが飛び出してきた。

 先ほどと同じ、真っ黒い、影そのものの犬。


 ユウの左手が素早く動いた。

 影の犬は分断され、その場で空気に溶け込むようにして。

 跡形もなく、消え失せた。


 カナミはユウの左手首から先が、漆黒の闇に覆われていることに気が付いた。

 影が固まって、刃の形を成している。


「この世界でもっとも厚みの無いもの――影を刃としているのよ」


 その言葉と共に、ユウは再び左手を振るった。

 物質よりも薄く、何よりも鋭利に研ぎ澄まされた刃によって。

 また一匹、影の犬が切り伏せられた。


「これ、一体、何なんですか?」


 ようやく吐き出したカナミの問いに。

 ユウは、面倒臭いとでも言いたげな無表情で応えた。


「ヨルよ」

「ヨル?」


 一際大きな影の獣が、カナミの背後から迫ってきた。

 振り返ってその姿を見て。

 カナミが悲鳴を上げようと、大きく口を開けたところで。


 ユウの左手が閃き。


 カナミの中に、何かが流れ込んできた。



 まぶしいくらいの光の中。


 暑くも無く、寒くも無い。

 心地よいまどろみ。


 扉が開いて、誰かが見下ろしてきた。

 人間の、若い女性だ。

 にこにこと笑って、頭を撫でてくれる。

 声をかけてくれる。


 今日も「かわいい」って言ってくれる。

 とっても嬉しい。


 ご飯に。

 オヤツに。


 綺麗に毛をすいて。

 広い場所で運動して。


 たまに、親子連れがやって来る。

 子供が楽しそうにはしゃいで、抱っこしてくれる。

 ふわふわして、温かい。


 大人しくしていれば、それだけでみんな喜んでくれる。

 みんな「かわいい」って、褒めてくれる。


 とっても幸せ。


 毎日がそうやって続いて。

 いつまでも、同じことの繰り返しだって。


 ・・・そう思っていた。


 ある日。


 不愉快な臭いのする男がやって来た。

 男は、首の後ろを乱暴にひっつかんで。

 狭いケージの中に投げ込んできた。


 何をされたのか判らなくて。

 いつもの女の人を探したが。


「ごめんね」


 悲しみを含んだ声だけが、何処か見えないところから聞こえてきた。


 他にも何匹か、仲間がいた。

 みんな、自分が何が起きているのか判っていなかった。

 とにかく鳴いた。


 助けて。

 ここから出して。

 どうしてこんなことをするの。


 ケージが揺れて。

 トラックの荷台に押し込められて。


 真っ暗な中で、長い長い時間が流れた。


 だんだん、みんな疲れてきた。

 お腹もすいてきた。

 ここは寒い。

 何もかもが、今までとは違う。


 優しい女の人の顔を思い出す。

 あそこに帰りたい。

 また、撫でてもらいたい。

 オヤツを貰って。

 いつもみたいに、「かわいい」って、言ってもらいたい。


 ねぇ。


 ねぇ、何か、悪いことしたのかな?


 どうして。


 どうして、みんな動かないのかな。


 名前の無いみんな。

 まだ、「かわいい」としか呼ばれていないみんな。

 みんな、何処に連れて行かれるのかな。


 暗くて。

 臭くて。

 寒くて。


 この後、一体どうなってしまうのかな。


 トラックの荷台に、誰か入ってきた。

 臭いで判る。ここに連れてきた人間だ。


 ねぇ。


「まだ生きてるヤツがいる」


 ヤツって。

 生きてるヤツって。


 それは、僕のことなのかな?


「早く始末しておけ」


 別な声が聞こえた。

 冷たくて、無機質な声。


 どうしてそんな話し方をするの?

 もっと、喜んで。

 もっと、楽しんで。


 もっと、可愛がって。


 ねぇ、「かわいい」って、言って?


 ねぇ。


 固い感触が、首に触れる。


 ねぇ。


 息が、苦しい。

 信じている掌で。


 ねぇ。


 この後、僕はどうなるの?



「何よ、これ!」


 カナミは悲鳴を上げた。

 頭の中に、誰かの、何かの思考が流れ込んでくる。

 心が痛い。苦しい。

 その場に両手をつき、カナミは激しくあえいだ。


「ヨルを、ヨルたらしめているもの。その情念よ」


 ユウがまた、影の犬を一匹切り飛ばす。

 カナミの中に、別なイメージが浮かび上がった。


 何処だろう、郊外のホームセンターの中にあるペットショップだ。

 沢山並んだガラス張りのケージに、仔犬や仔猫が並んでいる。

 みんな楽しそうに遊んだり、お昼寝したり。


 全てを信じて、無垢な瞳を向けてくる。


 その先に待つ運命なんて知る由も無く。


「酷いよ、こんなの」


 耳を塞いでも、目を閉じても。

 ユウが、影の犬――ヨルを切り捨てる度に、カナミの中にその想いが流れ込んでくる。


 そんなカナミには目もくれず。

 ユウはただ、黙々と襲いくるヨルに向かって刃を振るい続けた。


「行き場の無い想いが、ヨルを作り出す」


 痛い。苦しい。悲しい。

 様々な負の感情が、カナミの中で荒れ狂った。

 涙が。吐き気が。

 次から次へと込み上げてくる。


 なんで。


 なんで、こんなことができるんだ。


「どうやら、次で終わりみたいね」


 ユウの言葉に、カナミは顔を上げた。

 ゆらり、と大きな影が一つ、二人の前で揺れている。

 今までより一際目立つ、見上げるほどにたくましい四足獣の影。


 ヨル。


 暗く、何も見通すことの出来ないその姿は。

 とても恐ろしいと感じるのと同時に。


 カナミには、ひどく哀しいものに思えてならなかった。


 ユウが左手を上げる。

 影の刃の切っ先を、ヨルに向けて。


「さあ、おやすみなさい。もう苦しまなくて良い。ここは、あなたたちの世界ではないのだから」


 静かな声で、ユウはそう宣告した。




 朝の光に包まれた道路を、がやがやと多くの学生たちが歩いていく。

 学校までの通学路。

 人の流れにまぎれながら、カナミはぼんやりと昨夜のことを考えていた。


 悲しみが影となって人を襲う、ヨル。

 暗闇の中に浮かぶ、恐ろしいほどに美しい少女、小島ユウ。

 影の刃で、次々と倒されていくヨルと。

 その度にカナミの中に流れ込んでくる想念。


 怪我をした右腕を、カナミはまじまじと眺めた。

 見た目がひどいだけで、傷自体は大したことは無い。

 ただ。


 痛みと共に、あの場所で起きたことが思い返されて。


 胸の奥に、どうにも止めることのできないうずきが生じてしまっていた。


「カナミ、おはよう」


 学校の校門が見えてきた辺りで、タイキが笑顔で声をかけてきた。


 昨日の夜にも会っていたはずなのに。

 何故か、懐かしくすら思えて。

 心の底から安心して、カナミは身体中からふっと力が抜け落ちるのを感じた。


「おはよう、タイキ」


 笑顔で応えて、手を振ってみせる。

 途端に、タイキの顔色がさあっと変わった。


「お前、その手、どうしたんだよ?」


 はっとして、慌ててカナミは右腕を隠した。

 だが、もう手遅れだった。

 タイキはカナミの手首を掴むと、痛々しい擦り傷を見て顔をしかめた。


「自転車で転んじゃって」


 嘘は言っていない。

 アスファルトに投げ出されたときにできた怪我だ。


 カナミの目をじっと見て、タイキは何かを言おうとしたが。


 結局、少し不機嫌そうな顔をしただけで。

 残りの言葉は、ぐっと飲み込んでしまった。


 カナミの手を離して、タイキはカナミの身体を見回した。


「大丈夫か?他に怪我はしてないか?」

「うん、大丈夫。ごめんね、心配かけちゃって」


 カナミが正直に昨夜の出来事を話したところで。

 おそらく、タイキは納得してはくれないだろう。

 カナミ自身、あれが本当にあったことなのかどうか、今一つ自信が持てないくらいなのだ。


 しかし、それでも。


 カナミの中では、ずっと何かがわだかまっていた。


 ユウのこと。いや。


 ヨルのこと。


 苦しい想い、悲しい気持ち。

 それが、あんな形になるなんて。


 カナミは、大きく首を左右に振って。


 自分の中に沸いた嫌な考えを無かったことにして。

 今目の前にある現実の世界に、無理矢理にでも帰ってこようとした。




 最後のヨルを切り伏せて。

 ユウは、左手を軽く振った。


 影の刃がつながりを失い、夜気の中に溶け込んで消えていく。

 後には白くて小さい、繊細な指先だけが残された。


「さて、大丈夫かしら?」


 カナミを見下ろして微笑んだユウの胸元で、青い光がきらめいた。


 腕を擦り剥いた以外、カナミの身体に特に異常は無さそうだった。

 ただ、腰が立たない。

 あまりにも現実離れしたものを見て、気が動転しているのだろう。


 カナミに肩を貸して、ユウはすぐ近くにあるバス停に移動した。

 錆びの浮いたバス停の脇には、古びた木製の東屋とベンチがしつらえてある。

 カナミをベンチに座らせた後、ユウは自転車も引っ張って来てくれた。


「特に壊れてるところは無さそうだし、動けるようになったらこれで帰ると良いわ」

「ありがとう」


 自転車のスタンドを立てるユウの姿を、カナミはぼんやりと眺めていた。


 何処にでもいるような、中学生くらいの女子。

 違いがあるとすれば、その辺のアイドルなんか目ではないくらいの美貌だろうか。

 およそ、十代前半の女子とは思えない、憂いを帯びた表情。

 吸い込まれてしまいそうな黒い瞳。


 そして、ペンダントについた青い宝石。


「一応落ち着くまではいてあげるつもりだけど、何か聞いておきたいこととか、ある?」


 ユウの言葉に、カナミははっとした。

 そうだ、訊きたいことは山のようにある。

 カナミの様子を見て、ユウはくすっと笑った。


「じゃあ、とりあえず私の名前。小島ユウ、です」


 無邪気で。

 それでいて、温かくて。

 全てを包み込んでくれるような。


 そんなユウの笑顔に、カナミはまたぼうっとしてしまった。



 ユウはヨルについて語ってくれた。

 ヨルとは、負の想念が夜の闇に混ざって、形を持ち始めたものだという。


「形を、持ち始めた?」

「正しくは、まだ形を得ていないのよ。形と名前を得て、ヨルは怪異となるの」


 影が凝固して、動物の姿を模していたヨル。

 カナミや他の人間たちを襲うことで、ヨルはその存在を強固なものにしていく。

 そうやって、自らの存在をゆるぎないものとしたとき。


 ヨルは、妖怪や、怪物、そういった怪異としての実在を得るに至る。


「私は、そうなる前にヨルを鎮めているのよ」


 そう言って、ユウはにっこりと笑った。

 真正面からその笑顔を見ると、また意識を持って行かれかねない。

 カナミはユウの顔からわずかに視線を逸らせた。


 それにしても。


「あの、さっきの動物のヨルは・・・」

「うん。ここには、ペットショップにいた動物たちの死体が遺棄されていたみたいなのね」


 カナミの中に流れ込んできた想い。

 あれは、人に飼われていた動物たちのものだった。


 いや、正しくは、人に飼われるはずだった動物たち。

 幸せに包まれて生まれて。

 育てられて。


 いらなくなったから、捨てられた。


 なんという身勝手さだろう。

 カナミは、自分が感じた動物たちの悲しみと。

 絶望を思い出して、ぶるっと身体を震わせた。


「最近、この辺りにヨルが多く出るって聞いてね」


 行き場の無い悲しみが、ヨルを作り出す。

 カナミの中で、形容の出来ない不安がゆっくりと頭をもたげてきた。


「あなたもあまり、遅くには出歩かないようにね」


 小さな声で「はい」と返事をして。


 ユウの顔を見ずにうつむいたまま。

 カナミは、強く両掌を握りしめた。




 学校が終わって、カナミは昨日ユウと別れたバス停にやってきた。


 まだ陽が高い時間だが、辺りにはまるで人の気配が無い。

 周囲には、やかましい蝉たちの大合唱が響き渡っている。


 東屋の中に入り、カナミはベンチに腰掛けた。

 斜めに差し込む陽光が、カナミのむき出しの手足をじりじりと焼いてきた。

 汗が噴き出して、頬を伝って顎の先から垂れて落ちた。


 悲しみ。

 苦しみ。


 絶望。


 胸の奥が、やかましいほどにざわめいている。

 判っていても、どうしようもないこともある。

 自分にずっとそう言い聞かせてきた。


 だが、それはカナミにとっての問題でしかない。


 絶望を受けた本人はどうなのだろうか。


 耐えられないほどのきずを心に負って。

 夜の闇と一つになって。


 ヨルと化していたら?


「まさか、ね」


 カナミは自分の中にある考えを否定した。

 そんな訳は無い。あるはずが無い。


 確かに昨夜の出来事は常軌を逸していた。

 小島ユウという少女は、この世のものとは思えなかった。


 だが、それはもう終わったことだ。

 朝が来れば、腕の怪我だけを残して全ては消え失せた。


 何もかも、終わったんだ。


 自分自身にそう言い聞かせたとき。



「カナミ」



 突然誰かに呼ばれた気がして、カナミは驚いて顔を上げた。

 目の前には、無人の道路があるだけだ。

 焼けたアスファルトから、陽炎かげろうが立ち昇っている。


 その先には、雑木林。

 うっそうと茂る緑の奥に。


 カナミは、確かに何かの気配を感じた。

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