ヨルを狩る者

NES

night goes on

第一節 夜を旅する

 遥か遠くで、光が揺らいでいる。ゆらゆら、ゆらゆら。

 まぶしい。光なんていらない。自分を照らし出すもの。

 自分って何だ。そんなもの、もう必要ない。


 もっと沈もう。もっと深く。何処までも、深く。


 暗闇が広がる。ここには何もない。

 何も見えないし。何も聞こえない。

 それはとても心地良い。こうしていれば、もう何も考えないで済むのだから。


 自分が誰だったのか、何だったのか。

 すべてが曖昧になる。それが気持ち良い。

 熱かった胸の中が、ひんやりと冷たくなる。

 ああ、良かった。


 これで、終わったんだ。


 ここにいれば、二度と心が騒ぐことは無い。

 身体の奥にまで、暗い水が流れ込んでくる。何もかもが満たされてくれる。

 肺の中には、もう一握りの空気ですら残されていない。


 もがく必要も無い。ただじっとしていれば、どんどんと沈んでいく。

 底なんて無い。無限の暗黒。深淵。

 後はそこで、静かに眠りにつくことができれば。


 それで良かったのに。


 誰かの声がした。

 明らかに、自分を呼ぶ声。

 どうしてそんなものが聞こえるのだろう。

 耳の中は、もう暗い水でいっぱいのはずなのに。


 呼んでいる。

 何故、そんなことをするのだろう。

 もう済んだ。できることなんて、何も無い。


 光が揺らぐ。ゆらゆら、ゆらゆら。


 失ったままでいいのか。

 このままでいいのか。


 水の溜まった心の中に。

 ぽうっ、と、小さな種火がともった。


 暗くて、熱くて。

 じりじりと、身を焦がす炎。


 このままでいいなんて、そんなことはない。


 ・・・ああ、感情だ。


 心が動いた。

 自分が、急速に帰ってくる。

 身体が、判る。

 水の中で、もがく。うごめく。


 手が、伸びる。

 上方で揺らめいている、光に向かって。

 何かを求めて。掴もうとして。

 ゆらゆら、ゆらゆら。


 がばっ、と音がして。

 水飛沫しぶきが上がって。

 口腔から、黒いおりあふれ出すのを感じて。


 自分が、空気の中に躍り出たことを知った。


 世界。

 かつて、自分がいた場所。

 そして。


 かつて、自分が絶望した場所。


 頭上にきらめくのは、夜を照らし出す月の光。

 揺らめいていた光。

 誘う光。


「やあ」


 声がして。


 ヒサシはそちらの方を向いた。




 夏が近い。

 肌に絡みつくような、闇。夜の空気は、ねっとりとした湿気を含んでいた。


 そこかしこから虫の声が聞こえてくる。

 梅雨の恵みを受けて伸びた下草は、膝丈を越えて勢いよく空を目指している。


 町はずれの雑木林は、そのまま山の方へと続いていた。

 目線を上げれば、星空を隠すようにして黒い稜線が伸びあがっているのが判った。


 雑木林の脇を、舗装された道路がかすめていた。

 寂しい田舎町の国道。

 申し訳程度の街灯の明かりに、湿ったアスファルトが浮かび上がる。

 日中にはそれなりの本数の路線バスが通るのだが。

 夜半近くともなれば、人通り自体が途絶えてしまう。


「う、うわぁ、あああっ!」


 突然、悲鳴と共に、若い男が灌木かんぼくの茂みから飛び出してきた。

 がさがさという音に続いて、今度は若い女が姿を現した。


「ちょ、ちょっと、今の、何!?」


 二人は同時に道路の上にへたり込み、お互いの顔を見合わせた。

 呼吸が荒い。

 信じられないものを見た。

 そう言いたげな表情を浮かべて、ごくり、と唾を飲み込んだ。


 そのとき。


 二人のすぐ近くで、獣の遠吠えが聞こえた。

 大気を、そして聞く者の魂を震わせる、低くて鋭い鳴き声。

 長く尾を引き、余韻を残すそれに、二人はじたばたと慌てて立ち上がると。


「いやぁ、助けて!」

「た、助けてくれぇ!」


 口々に助けを求め、叫びながら走り去って行った。



「やれやれ。まあ、逃げてくれた方が都合が良いか」


 雑木林の中に、きらり、と青い輝きが閃いた。

 国道の街灯の下に、ゆっくりと歩み出てきたのは。


 一人の、少女だった。


 長い黒髪が、ふわり、と空気の中を踊る。

 その下から覗く、やはり漆黒の瞳と、透き通るような白い肌。

 年の頃は十三、四といったところだろうか。

 まだあどけなさの残るその表情には。


 見た目にそぐわぬ落ち着きと。

 かすかな憂いが含まれていた。


 いや、それだけではない。


 少女は、美しかった。


 見た者の心に、その存在を刻み込むほどの美貌。

 そして、全てを包み込むような暖かさ。


 夜の暗がりの中に、優しく灯る淡い輝き。

 月よりも明るく、それでいて、穏やかで。


 少女はまるで、闇夜のしじまそのものを思わせた。


 街灯の光を反射して、少女の胸元で再び青い光がきらめいた。


 首から下げられたペンダントに、青い宝石がつけられている。

 透き通った青い宝石から放たれる、凛として冴えた輝きが。

 少女の顔を妖しく照らし出していた。


「それにしても、数が多いわね」


 ため息交じりにそう呟くと、少女――小島ユウは背後の雑木林を振り返った。

 暗闇の中に、何かがいる。

 ユウは目を細めて、じっとその様子をうかがった。


 息を潜めている。

 その気配は、一つではない。

 道路の反対側、伸び放題の雑草の陰にも、ユウを付け狙うものがいる。

 目だけをそちらに動かして。

 ユウは、自分が包囲されていることを理解した。


「面倒になる前に、ちゃっちゃと終わらせましょうか」


 そう独りごちると。

 ユウは左手を胸元まで持ち上げて。

 さっと、勢いよく一振りした。


 左掌に巻き付くようにして、黒い影がまとわりつく。

 影はユウの手に沿って、長い一直線の形を取り。

 そのまま、固まった。


 影の刃。

 切っ先を見下ろした後、ユウはゆるり、と周囲を見渡した。

 どうやら相手はやる気らしい。それなら、することは決まっている。


「じゃあ、始めましょう」


 ユウのその言葉を待っていたかのように。

 無数の黒い影が、ユウ目がけて一斉に飛びかかってきた。




 塾の講義が終わって、カナミはふぅ、と息を吐いた。

 すでにだいぶ遅い時間だ。それでも結構な数の生徒たちが残っている。

 受験勉強というのも楽ではない。


 高校も三年、夏休み前ともなれば、みんな空気がピリピリとしてくる。

 カナミ自身、そんなに成績が良いわけでは無いのだ。

 うかうかとはしていられない。


 それに、今は勉強でも何でも、他のことに集中していたかった。


 荷物をまとめている間、教室の隅でひそひそと話している声が聞こえてきた。

 何の噂かは、見当がついている。気にしたら負けだ。

 なるべくそちらを見ないようにして、カナミは教室の外に出た。



 外の空気は、むわっとしていた。熱帯夜だ。

 まだ夏本番でもないのにこの感じでは、今年はかなり暑くなりそうだ。


 自転車を取りに駐輪場までやって来ると、誰かがカナミに向かって手を振っていた。


 背の高い男子。遠目でもすぐに判る。バレーボール部の元スター選手。


 タイキだ。

 携帯を片手に、誰かの自転車のサドルの上に座っている。


 カナミが携帯の画面を確認すると、タイキから何件かメッセージが入っていた。

 講義中にマナーモードに切り替えたままで、気が付いていなかった。

 カナミは気を取り直して、表情を笑顔に切り替えた。


「タイキ、待っていてくれたの?」


 タイキはカナミと同じ高校に通う三年生。カナミの彼氏だ。

 付き合い始めてから大体半年、というところか。


 受験勉強もあるし、他にも色々なことがあって。

 最近は一緒にいること自体が少なかった。

 それでも、こうしてわざわざ会いに来てくれるというのは、悪い気はしない。


 しかし。


「最近、あんまり話す時間無かったからさ」


 タイキとは、メールやメッセージのやり取りはしていたが。

 二人きりでいることに関しては、カナミは意図的に避けていた。


 タイキも、そのことには気が付いているだろう。判らないはずがない。

 その証拠に、タイキのカナミを見る目には、複雑な感情が込められていた。


「・・・ヒサシのこと、まだ気にしてるのか?」


 ヒサシの名前が出されて、カナミはぴくん、と肩を震わせた。


「ごめん。もう少しだけ時間をちょうだい」


 笑顔の仮面は、あまりにももろかった。


 顔を伏せて、留めておいた自転車を引っ張り出す。

 今の自分がどんな表情をしているのか、カナミは自分でも良く判らなかった。

 ただ、少なくともタイキには見られたくない。

 そんな顔であることだけは、間違いが無かった。


「送って行こうか?」


 タイキの声が背中にかかる。

 カナミにも判っている。タイキは悪くない。


 これは、カナミの中の問題だ。


「ううん、自転車だし、すぐだから大丈夫。ありがとう」


 それだけ言って、カナミはペダルを漕ぐ足に力を入れた。

 ぎこぎこという音と共に、タイキが遠ざかって行く。

 タイキは今、どんな顔をしているだろうか。


 本当に、何もかも忘れてしまいたい。


 カナミの胸の奥が、ずきずきと痛んだ。




 名前なんて無かった。必要無かった。


 みんな、「かわいい」って言ってくれた。

 だから、「かわいい」が名前みたいなものだった。


 朝起きて、遊んで。

 ご飯を食べて。

 いっぱいお昼寝して。


 毎日が楽しかった。


 優しく撫でてもらえて。

 綺麗にしてもらえて。


 笑顔を向けてもらえるのが、嬉しくて仕方が無かった。


 大好きだよ。


 いつもそうやって、じゃれついて。

 また「かわいい」って、言ってほしかった。


 ふと、気が付いたとき。

 昨日いたはずの仲間が、いなくなってしまっていることがあったけど。


 それはよくあることだった。


 きっと何処かで、「かわいい」って言われているんだ。


 ああ、でもそのときには。

 素敵な名前で、呼ばれるんだろうな。


 それは、ちょっとだけうらやましい。


 でも今は。


 まだここで、うとうととまどろんでいたいんだ。




 塾からカナミの家までは、自転車で二十分というところだ。決して近いとは言えない。

 早い時間ならバスも通っているが。

 塾が終わる時間ではもうとっくに終バスの時刻は過ぎている。

 中途半端な田舎は、そういうところが面倒だ。


 ライトの光で照らされた夜道を、カナミは複雑な気分で眺めていた。


 タイキが会いに来てくれたことは嬉しい。カナミは、タイキのことが好きだ。

 バレー部のスタープレイヤーで、話が面白くて、見た目だって格好いい。

 一緒にいて楽しいと思うし。

 付き合っているという事実を考えれば、それだけで嬉しくなってくる。


 それなのに、なんでこんな気持ちにならなければいけないのだろう。


 分かれ道に差し掛かった。

 近道するなら、雑木林沿いの古い国道。明るいコンビニがある方の道は、少し遠回りになる。

 今日は気分がすぐれない。

 さっさと帰って、シャワーを浴びて眠ってしまいたい。

 カナミは、薄暗い旧国道に向かってハンドルを切った。


 雑木林の辺りにはあまり良い噂が無い。

 産廃業者が違法投棄をしているという話だ。

 痴漢や変質者などと比べると、どちらの方がマシだろうか。


 相手が何であれ、前も見ずに猛スピードで走り抜けてしまえば問題ないだろう。

 そう考えて、カナミは力いっぱい自転車を走らせた。


 まばらな街灯の明かりを辿るように、誰もいない舗装された道を飛ばしていく。

 そのとき、不意に小さな黒い影が前輪に激突した。


「きゃ!」


 激しい衝撃と共に、前輪が固まる。

 後輪が持ち上がり、カナミは自分の身体が宙に舞うのを感じた。


 ふわっ、と持ちあがった後で。

 カナミは背中から、力いっぱい道路に叩きつけられた。


 ぐっ、と喉の奥で悲鳴が漏れる。腰に強い痛みが走った。


 何が何だか判らない。

 とにかく起き上がろうとして、カナミは顔を上げた。



 そこに、何かがいた。



 自転車にぶつかってきたのは、何か動物だと思われた。

 大きさから、猫か、小さめの犬か。

 雑木林の中にはタヌキもいると聞いていた。

 そういった類のものだろうと、カナミは勝手に想像していた。


 違う。そうではない。

 確かに、シルエットは四足の動物だ。見た感じは小型犬といったところか。


 だが、そこにあるのは、黒い影だけ。

 黒毛の動物、ではない。

 まるで、そこにぽっかりと穴が開いているみたいに。


 真っ黒な影が、犬の形をして存在していた。


「な、なに、これ?」


 カナミは思わず声を漏らした。


 途端に、影の犬が姿勢を低くし、唸り声を上げ始めた。

 威嚇している。

 目の位置など判らなかったが、その視線の先にいる対象は。

 紛れもない、カナミだ。


 ごくり、と唾を飲んで。

 カナミは、ゆっくりと身体を持ち上げようとした。


 刺激するのは得策ではない。

 正体はともかく、こいつはカナミを敵だと見なしている。

 すぐにこの場を離れなければ。


 膝に力を入れて、立ち上がろうとしたところで

 強い抵抗を感じた。


 何かが、引っ掛かっている。

 どういうことかと、カナミは自分の体を見下ろして。


「え、これ、何なの?」


 ぎょっとした。

 カナミの手足から、黒い帯状のものが地面まで伸びている。


 影だ。

 真っ黒い影が、トリモチのようにカナミの身体を絡め取っていた。


 訳がわからず、混乱した頭で顔を上げると。


 影の犬が、じりじりと間合いを詰めてきていた。


 唸り声と、息遣い。

 それは本物の犬と区別が無い。

 目に見えるのは影だけなのに。

 は確実にその場に存在して、カナミに襲い掛かろうとしている。


 自分の身に起きていることが理解出来ず。

 ただ、呆然とするカナミの目の前で。



「やれやれ、ごめんなさいね」



 唐突に、影の犬は切り裂かれた。


 鋭利な刃物で一撃され、身体を真っ二つにされ。

 吹き飛んで。

 そのまま、街灯の明かりの中から消えた。


 カナミの背後に、ゆらり、と人影が姿を現した。

 黒髪が、まるで独立した生き物のように揺らめく。

 その陰で、ペンダントに付いた青い宝石がきらり、と光を放った。


 作り物かと思うほどに、整った顔立ちの少女。

 横に立った少女の美貌に、息を飲んだカナミに向かって。


「大丈夫?」


 小島ユウは、優しく微笑んだ。

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