第10話

 私は、ベッドの上で目を覚ました。

 時間は未だ夜、月が窓から覗いている。

 辺りに誰かがいる気配はない。窓も割れていないし、リンゴもなくなっていないし、何も変わっていなかった。何も、本当に何も変化はなかった。見当たらないナイフはきっと棚にしまってあるんだろう。

 全てが、あの瞬間の以前のままだった。

「……はい、QQLで『万能ガールは恋をする』でした」

 ラジオの声が曲の終わりを告げた。

 彼がヘッドフォンで聞いていた曲に近い。 あれ、私が彼に会ったときに、この曲が流れ始めたんじゃなかっただろうか。

 じゃあ、あれだけのことが、たった一曲流れている間にしか起こらなかったっていうの? それとも、ただ私が短い夢を見ていただけ? いいや、そんなはずはない。今でも、彼の体温も思い出すことができるくらいだ。夢であるはずがない。夢であって欲しくない。

「それじゃハガキをナルさんに読んでもらいましょう。どれにするか、もう決めました?」

「はい」

 夢なのだろうか。

 もしかしたら、そうかもしれない。

 私は、少しだけ不安になる。

「では、ラジオネーム、案内人さん」

 ラジオの女性はハガキを読み始めた。

「またの名を、FA119233さんより」

 その番号は、彼を示すものだった。

「ふふ、なるほど、素敵な名前ですね」

 ラジオの彼女は一拍置いて軽やかな声で笑った。どういうことだろう。ただその羅列が面白い、というのとは何か違いそうだ。

「あ、今は使わなくなったね。そういうの」

 男の人も何かを理解したようだった。

 と、いうことは、その数字列に名前を含んだ意味がある、ということになる。

「今日初めて出会ったあなたへ。今日のドライブはどうでしたか。少しでも、あなたの気が晴れたのなら、幸いだと思っています」

 どういうルートか、私が聞いていたラジオに彼はハガキを送っていたのだ。ハガキに文字を書く彼を想像して、私はニヤつく顔を抑えながら、内容に聞き入ることにした。

「結局、あなたを連れ出してしまったことで、大分絞られてしまいました。しばらくは監視役が置かれることになるようです。減給された分は、次に会ったときに何かしらの形で返してもらおうと思っていますので、その準備をお願いします」

 多分、そうなるだろうな、と私が思っていた通りの結果だったようだ。それくらいは彼も、そしてタケさんも予想していたのだろう。彼が笑いながら、タケさんに始末書を押し付けている様子が目に浮かぶようだ。

 どうやら、向こうとこちらでは時間の流れに差があるらしい。

「こちらはまたいつもの日常に戻ると思います。しばらく会うことはないけれど、それまで元気で暮らしてください。もちろん、いつかは会えるから、決して無茶はしないように。合言葉は、もちろん」

 ラジオの声と私の声が同調して、

「『ケ・セラ・セラ』」

 と、彼のポリシーを口にした。

「ああ、これも懐かしいなぁ、僕は『鳥』が一番かな」

「そうですね、私はやっぱり……」

「『ダイヤルM』」

 彼らの会話にもう一つ声が割り込む。

「やあ、『サイコ』の好きなユーリ君」

「何か、嫌な枕詞だ」

「もう、まず謝ってください」

 女性が、あからさまに、むくれる、という演技をした。

「すみません皆さん、遅れました」

 ぶつぶつと、落ち着いているというよりは、はっきりとしないぼんやりとした喋り方の人だ。

「意味深なハガキだ、政府の暗号文かな」

 新しく加わった男性が合いの手を打つ。

 それはそうだ。こんなハガキの内容を、知らない人が読んでも、理解できるはずもない。それなのに、彼女がこのハガキを採用した理由は何だろうか。特例措置のおまけみたいなものかもしれない。

「随分と不思議な方とドライブをしていらしたようですね、行く先は不思議の国かしら」

 彼女は、そこでハガキを締めくくった。

 彼女の言う通り、不思議の国に迷い込んだような、淡い夢のようなドライブだった。

「じゃ、リクエスト、お願いできるかな」

 ん、待てよ。

「はい、わかりました」

 タケさんの本名がタケト、MA412445、番号が六つで文字数が三つ。

「それでは、もう一曲お聞き下さい」

 音楽が流れ出す。

 最初はピアノのイントロ。

 静かに音を探して、繋がりをどこかで期待させながら。

 文字数で割れば、数字二つで文字が一つ。タとトの二桁目が同じ。

 続いて低いベースの短いリフ。

 軽いタッチの三連符を組み込んで、音が階段状に上がる。

「案内人さんのリクエスト」

 ああ、そういうことか。それなら、彼の番号である119233を名前に直せば。

 にわかに軽妙に、跳ねるドラム。

 それを合図に、先行する楽器もリズムを揺らせて動きを早める。

 導き出された答え。何て彼に似合う可愛らしい名前なのだろうか。次に会ったときは、是非とも大声で呼んであげることにしよう。

 キラキラとしたポップな電子音が単発的に混じる。

 その音の中に溶け込む彼女の声。

 バックの音に埋もれず、余計な自己主張もせずに、ただ一つの楽器として、スタッカートにメロディをハミングする。

 まだイントロ。

 そう、まだ何もかも始まったばかり。

「QQLで、『天使の夜間飛行』です。どうぞお聞きください」

 そして私はベッドにうずくまり、一人でニヒヒ、と笑った。


---END

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天使の夜間飛行 吉野茉莉 @stalemate

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