第9話
「たーすけてー!」
ただいまそれほど高くない位置からスカイダイビングを実行中です。ただし、パラシュートは装備していません。
自重に従い落下をする物体、この高さを一千メートルとして、何秒で地面に到達するのか。加速度は9.8とし、空気抵抗は考慮しない。考慮しない、っていうか、何を考えているんだ私は、そんなことを考える余裕はどこにも誰にもないはずだ。
すみません、真横にいました。
横には自転車に乗って、腕組みをしながら落ちる私の元案内人。天国を追放された気分なので、案内人は元になりました。ついでに天使も、元天使にしたい気分です。
「タケト結構格好良かったなー」
「感心してないで、は・や・く!」
空気圧を思い切り受けて、呼吸が乱れる。
「おうおう」
自転車を捻って私の体を掴む。右腕だけで私を抱きとめると、そのままお姫様抱っこをして急ブレーキをかけた。停止と同時に加速された分の反動が胃の辺りを押し上げる。そして私を抱きかかえたまま、彼は自転車でゆっくりと空を旋回し始めた。
「すまない、大分予定が狂っちまった」
申し訳なさそうに、彼が言った。下から覗く彼の顔は、目鼻立ちがはっきりとしていて、今更だが意外と整っている。待て待て、こう見えても相手は女性だぞ、赤くなるな私。
「何をするつもりだったの? 私、死んでいないんでしょう?」
「あー、ばれてたか」
「タケさんが、まだ生きている人間でも、って。それに私をあそこまで連れて行ったから、課長が怒ったり、ムチの人が出てきたりしたんでしょ?」
生きている人間を間違えて運ぶほどのおっちょこちょいなのか。いや、そんなことをするような天使ではないことを、私は知ってしまっている。
「本当はこっそりと、お前を天国に連れて行こうと思ってな」
照れているのか、はにかんだ顔で彼が言う。
「どうしてそんなこと?」
「特例第七項」
「それ、タケさんも言ってた」
彼は私と目を合わせ、二秒だけ間を置いて、諦めたように口を開いた。
「お前の家族、全員運んだのが俺だ」
「え?」
「そもそも、全ての魂を運ぶのに、天使が出てくるわけじゃない。それだったら天使の数が何万人も必要になっちまう。普通は入り口を光らせておくだけで、勝手に行けるもんなんだ、天国っていうのは。俺達天使が運ぶのは、死に切れなかったヤツとか、死んだことに気が付かなかったヤツとか、そういう光の視えない迷い中のヤツらだ」
知っている人知らない人、新聞に載るような有名人から誰にも気が付かれずにひっそりと、今もどこかで誰かが亡くなっている。だとすれば、私の代わりに死んでしまった、私だけが助かってしまったあの事故の中、彼らは自力で天国に行くことができずに、天使という迎えがやってきたのだ。
「私の……」
「自分が死んだことは理解していたし、天国に行くことも了承していた」
「なのに」
言いにくそうに、彼は頭を掻いている。
「ただな、お前が心配でどうしても行けない、っていうんだ」
そんなのは、ズルイ。
私がどんなにどんなに心配をしたのか。私が心配をしたから、彼らが心配をしたのだろうか。心配しなくてもいいよ、と。それじゃあ、何だか言い逃げのようだ。
「だから、俺と契約をした。特別裁量、っていうやつで、天使が直接特例を与えることができる。これはどんなに優秀な天使でも第五項まで、俺の階級だと七項がせいぜいだ」
「第七項って?」
「一度だけに限り、特定者の生命の危険を回避する」
さらりと、条文を読み上げる。
「じゃあ、あのときの?」
私の質問に頷く代わりにニヤっと彼が笑った。つまり、私がナイフを腕に当てたとき彼がやって来たのは、単なる間違いでもなく、偶然なんかですらなく、全部、『特例』という名の下にやってきた必然だったのだ。
「で、だ。ついでだから、皆に会わせてやろうと思ってな。お前は死んでいないから、中に入れば見つけられるんだ。生命の危険を回避、っていうニュアンスをどこまで適応するかっていう解釈で、できるかなーと思ったわけだ。ま、結果はこうなっちまったけど」
会いたくない、と言ったら嘘になるだろう。会ってはいけない、とも思わない。ナイフを当てたとき、ほんの少しだけ、死んだら会えるかも、と思ったのも事実だ。
でも、多分、きっと、今の私はそんなことは考えていない。
それは死んでも会えないから、じゃなくて、そう、そんなことに意味はないのだ。否定的な意味ではなくて、会わなくても、私はもう大丈夫なのだ、ということだ。
「どうするの?」
「どうするって言われてもな。課長が怖いから今帰るわけには行かないし、結局何もないままお前を送らないといけないし」
あれだけ騒動を起こしたのだ、課長は当然胃痛薬を飲んでいるだろう。タケさんも今はどうなっているのかわからない。ムチの人に痛い目をあわされていなければいいけど。
一瞬、喜んでいるタケさんの顔が浮かんだけど、彼の名誉のために記憶から消しておこう。
「帰ろうよ、でも、その前に」
お姫様抱っこをされながら、久しぶりに可愛らしく微笑んでみせた。彼が笑顔で返してくれたので、成功したといっていいだろう。
「寄り道、していい?」
「どこに?」
「あそこ!」
抱かれながら、私が指を伸ばす。
「了解しました、お姫様」
その先を彼が眺めて、タケさんがするような優しい笑みを浮かべた。ハンドルも握らず、彼は方向転換をする。
数分後、二人は、私が指定した場所に立っていた。
行きに見下ろした東京タワーの頂点、そこに私達が自転車とともに立っている。もちろん展望台よりも高い、街の全てを眺める場所で、何も言わず、地上を見ていた。
自分が生きているとわかった今でも、ここからの眺めを怖いとは思わなかった。それは、あまりにこの光景が素敵だったからだし、それに、彼がいてくれるから、だった。
地面よりも強く冷たい風は、彼の背中が防いでくれている。
「ねえ、どうして天使になったの?」
聞こうかどうか悩んでいたけど、やっぱり気になったので、聞いてみることにした。
「ああ、そりゃ給料がいいからだ」
しれっと、あっけらかんと彼が言った。
「でも、あの人は『贖罪』だって」
「贖罪、ね。どっちかって言えば『未練』じゃないのかって思うけどな。天使になるようなヤツは、死んだときに天使に連れていかれているヤツが多いからな」
「あなたの、『贖罪』は何?」
「タケトみたいなことをしたわけじゃない」
曖昧に言葉を濁して、彼は私に背を向けた。彼の影響か、私も浮いているので、タワーの先端に気をつける必要は実はない。
「言いたくない?」
「言いたくない」
「聞きたい」
「聞かれたくない」
「言いなさい」
「なんつーわがまま娘だ」
「それくらい知ってるじゃない」
「まーな」
ニヒヒと彼が笑う。
少しの沈黙があって、彼が私に少しだけ体重を預けた。
「昔、好きなヤツがいたんだ」
私と背中を合わせて、彼は呟いた。かすかに彼の体温を感じる。天使でも、元死人でも、体温は人と同じ、ということだ。
「むやみやたらに前向きで、人のためになると思ったら、自分のことを忘れて飛び込むようなヤツで、いっつも見えるもの全部を救おうとしてた」
彼が話しているのは、彼が死ぬよりも前の、私と同じ世界にいたときの話だ。
「最初は良かった。だけど、歳を取れば、世界は勝手に広がっていく。アイツにとって、救わなければいけない、救いたい人間も、どんどん増えていく。救ったって、いつも褒められて、感謝されるわけじゃない。勝手に次も期待されて、良いように利用されて、騙されるなんてこともしょっちゅうだった。それでもアイツは笑ってた。それで誰かが救えるなら、なんてありもしない夢物語を信じてな。皆を救う、なんて子供みたいな夢を持って、自分が見えなくなった馬鹿な男さ」
馬鹿だ、と彼はそう言ったけど、真実そうは思っていないことは、彼の口ぶりで十分に伝わっている。懐かしい友人を紹介するような、自分の片割れを見せるような、そんな親しみが込められていた。それが、その人が彼にどれだけ近かったのか、物語っていた。
「その人は?」
「そのうち病気で死んだよ。心も体もボロボロのまま、皆に謝って、最後まで、皆に謝りやがって」
楽しそうに、悲しそうに、彼は、きっと名前も顔も思い出せない人物を思い出している。
「それで、あなたはどうしたの?」
「どうもこうもない。適当に働いて、適当に結婚して、適当に死んだ」
事も無げに、彼が言う。
「アイツのこと、本当に馬鹿だと思っていた。それでもって、同じくらい、アイツみたいになりたかった。だけど何もできなかった。ソイツ一人でさえ救えなかったのに、何をどうすればいいんだ、って思ってた。そんな気持ちが最後までどっかにあったんだろう、天使も迎えに来ない、特例もつかない、最低ランクの『贖罪』で、俺は天使になった」
人を犠牲にすることで『実行者』になるしかなかったタケさんと違って、彼は見ているだけの『傍観者』でしかいられなかった。
「その人みたいになりたくて?」
憧れだった人のように、誰かを救うために。男の人のような話し方をしているのも、笑顔を崩そうとしないのも、いつかのその人のようになりたいという気持ちからなのだろうか。どちらにしても、私にとっての彼は、今の笑っている彼で、その彼がそうしたいと思っているのなら、私はそれで良かった。
私の質問には何も答えず、振り返った彼は私の頭をグシグシとかき回した。顔は見えなかったけど、優しい笑顔だったに違いない。
それから、私達は風に吹かれていた。時々、空を飛ぶ飛行機や天使とか、何かを見つけては互いに面白おかしく言うくらいで、それ以上のことはお互い聞かなかったし、自分から言おうともしなかった。
それから月が傾いて、
「ねえ、皆は、もう私の名前も顔も覚えていないの?」
足りない身長の分、顔を上げて彼を見る。
「……ああ、もう門をくぐったからな」
冷静そうに、でも、彼の顔は曇っていなかった。それが、私に対する態度なのだろう。
「そう」
「でもな」
だから、私も泣き言を言うわけにはいかない。『なるようにならない』のなら、なれる範囲で何とかするだけだ。
「うん、思い出が全部消えたわけじゃないんだよね」
「ああ、こんな可愛いお姫様のこと、誰が忘れるってんだ」
言う方にも言われる方にも似合わないお世辞を言って、彼はまた私の頭を犬でも扱うように、かき回した。
私も彼も、少し照れているようだった。
「向こうに行ったあと、あなたは皆に会えるの?」
「ああ、もう一度くらいだったら。特例報告の義務もあるしな」
「じゃあ、伝言をお願い」
「何て?」
一呼吸して、私が胸を張る。
「私は大丈夫だって。それから、しばらくそっちには行かないよ、って」
これが、私が彼らに言える全てだった。
弱音も言いたい。
思い切り泣きたい。
それでも、彼らに言葉を向けるとき、私は笑っていたかった。それが顔もわからない人物からのメッセージであっても、彼らの記憶に少しでも残るのなら、それで充分だった。
「オーケー、任せておけ」
私と同じように明るく、背中ごしに彼が了解した。
「それじゃ、行こうか」
「うん、ありがと。帰ろう」
彼が言って、それに私が返す。何度も繰り返された、終わりの言葉。天国の門までの往復旅行は、ここが終点で、あとは明日から始まる日々に備えて、ぐっすりと睡眠を取るしかない。彼の自転車の後部カートに座り、そして、ゆっくりと発進していく。ためらいなく、私は彼の腰に腕を回していた。この柔らかさを忘れないように。
「ねえ」
吹き付ける風に髪をはためかせて私が言った。彼が踏むペダルは軽く、時々蛇行運転で寄り道をしながら、病院に戻っていく。
「何だよ」
「また、会える?」
「そりゃ、また死ぬってことか?」
「いつかね! そのときの話!」
彼が質問をする声は、決して怒っているようではない。むしろ楽しそうだ。それに私も楽しそうに返す。風の音のために、自然と二人の声が大きくなっているのだ。
「迷うつもりか?」
「違う、もう、迷わない。でも、私が死んだら、一番に迎えに来て!」
「そうだな、俺はあと百年くらい天使だから、その間なら特別に迎えに来てやってもいい」
「約束!」
「ああ、約束だ!」
「きっと!」
「ああ、きっと!」
指切りもしない、口だけの約束。だけど、必ず守ってくれるだろう。そのとき叱られないように、しっかり生きなくてはいけない。
病院が見えてきたところで、私は最後まで残り続けた疑問を口にした。
「それから」
先々、私が死ぬまでの長い間、考え込んでしまって夜も寝られない。
「まだ何か?」
「私、あなたの名前、まだ聞いていないの!」
「あーそれはな。秘密だ」
間延びした返答のあと、ニヒヒといつものように笑って、彼が言った。
「どうして?」
「それも、秘密だ」
「そんなに自分の名前がいやなの?」
「質問受付時間は終了しましたー」
「ケチ!」
笑いながら私が言う。
「ケチだよーだ」
最後まで、彼はニヒヒと笑った顔を崩さなかった。それが私の会った彼で、彼は私の天使だった。
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