第8話

 しばらくして、私の視界にお爺さんを連れて行った天使が入った。向こうも気が付いたようで、少しだけ手を振って向かってきた。

「さて、と」

 座りながら、誰かを探しているのか、きょろきょろと周りを見渡していた。私の相手を探していたのかもしれない。

「今日のノルマはこれで終わりなんだ」

 軽く手を挙げ、ウェイトレスを呼ぶ。何か飲み物を注文しているようだ。その動きがあまりに優雅で手馴れているようで、逆におかしくみえた。副業はホストだろうか。

「ええ、と」

 淡いオレンジのカクテルが届いて、彼は静かに飲み始めた。

「ああ、僕の名前ね、フルだとMA412445。長いから皆はタケって呼ぶけど」

「タケ?」

 穏やかな笑みで、彼は肯定した。

「あの、私、どれくらいここにいれば?」

「ああ、そうだね、色々てこずっているみたいだから。もうしばらく待たないといけないだろうね」

 やっぱりてこずっているのか。非常に予想通りなので、もはや溜息をつく気力も起こらなくなってしまった。人間というのは、死んだあとも学習をするものらしい。

「本当あなたみたいに優秀な人が良かった」

「僕が優秀?」

 彼は、心底疑問そうに、首を軽く傾けながらその瞳をこちらへ向けた。髪が邪魔をしていて良く見えなかったけど、顔が日本人っぽいわりには透明で青い瞳をしていた。

「だって、あの人、格好は変だし、言い方は適当だし」

 おまけに乗り物は自転車だし、と私は言いたかったが、いないところでこれ以上彼を虐めても仕方がない。誰だって、送り迎えを頼むなら、自転車の取ってつけたようなシートよりは、高級車の後部座席を選ぶだろう。

「天使になるには、ある条件があるんだ。何だと思う?」

 カクテルを口に運んで、彼は私に聞いた。

「変態?」

 率直に言ってみた。

 言われた当の天使は、良い感じに目の前に置かれたピスタチオを皿ごとひっくり返した。リアクションが大きいことが天使の条件かもしれない。

「これ」

 胸から、彼が持っていたものと同じ黒いプレートを取り出して、そこからペラペラとした紙を私に渡してみせた。

 ニコっと、これ以上ないくらいの笑顔で、笑っている男が写っている写真だった。もちろん写真の人物が目の前にいる天使で、つまり自分の写真を自分で持っているということになる。しかも、歯からまばゆいばかりの光が溢れている。

「やっぱり変態?」

「ああノーカウント! こっち!」

 大急ぎで私の手から写真をもぎ取って、代わりに別な写真を渡した。どうやら、今のは見てはいけなかったものらしい。

 代わりに渡された写真は、ピンボケでしかも日焼けしてしまって、見るからに時間が経ってしまっていることがわかる。そのセピア色の世界で、褐色の制服を着た男性が立っていた。虚ろというか、どことなく、覇気が感じられない写真だった。その男性は短髪だったけど、目の前のこの天使と同じ顔だ。

「これは、あなた……?」

「そう、それは僕が『生きていた』頃の写真。本当は持って来ちゃダメなんだけどね」

 照れくさそうに笑って、彼は人差し指を口に当てて、秘密、のポーズをした。

「僕らは元死人。僕ら天使だけじゃない、ここで働いている店員も、中でこちら側の世界を動かしているのも、全部、地上の死人で構成されている。第二の人生って感じかな、死んだときの年齢と違っていたりするからね」

 何となく、それは初めからわかっていたような気がした。出会う人は妙に人間臭くて、おまけに原理は違えど、地上にある車や自転車を使っている。天国、という全く別世界の住人にしては、接している態度に違和感がなさすぎるのだ。

「死んだ人が、暮らしているの」

「そうなるかな。あっちの生活に慣れてしまうと、こっちに来たのが『生まれた』って感じもするしね」

 その声は、どこか投げやりな、自嘲するような言い方にも聞こえた。

 言われれば、彼の言うことももっともに聞こえた。死んだあとでも生活をしているのなら、死人というのは間違いかもしれない。

「あなたはこっちのことを覚えているの?」

「こっちで転換される年齢にもよるんだけど、大体の人はね」

 さっきよりもはっきりと彼の表情が曇った。その記憶が、彼の中の痛みを引き起こしているようだった。

「あいつから聞いたかもしれないけど、唯一誰もが忘れるのは、地上にいた頃に関係があった人の『顔』と『名前』さ。大切な人がいたこと、どうしても許せなかった人、そういう、自分に影響を与えていた人がいたこと、そのことは覚えている。でも、顔と名前が思い出せないから、すれ違ってもお互い認識できない。記憶が一致して再び出会うなんてのは、本当に奇跡でしかない」

 ああ、だから、私の案内人は、彼らに会うことはない、と言ったのだろう。システムとしてどんな意味があるのかは理解できないが、天国で生きていくためにリセットする意味合いが強いのかもしれない。要するに、地上で死なれたからといって追いかけても、何の意味もない、ということだけは確かだ。

「中がどうなっているのか、これ以上は教えられない。そういうルールだし、そんなに変わりないから聞いても面白くないと思うよ」

 彼はそういってやんわりと拒絶をした。それ以上は中に行かないと教えてはいけない、というような決まりがあるのだろう。

「僕らもこっちで生活しているわけだし、食事に住居に娯楽があって、それらを補うためには、働かないといけない」

 天国にしては『高く』はないけどね、と彼は付け加えた。

「で、さっきの話。天使には誰でもなれるわけじゃない。天使になるためには、地上にいる間に条件を満たす必要があるんだ」

 天使以外の職業を知らないから、比較がしようがない。才能か、もしくは知識か、生活態度だろうか。

「それは『贖罪』だよ」

「しょく、ざい?」

 彼の言葉を単純に繰り返す。

 財物や代償で自分の罪を償う、とかそういう意味だったはずだ。

「僕は、人殺しさ」

「ひと、ごろし?」

 よく写真を見れば、彼の脇に置いてあるのは、テレビなどで見る銃器の一種だ。つまり、写真の中の彼は兵士だったのだ。

「ああ、敵も味方も殺したよ、一杯一杯ね」

 自分自身に皮肉を込めたような声で、彼は言った。それに嘘はない、と私ではなく、彼に言い聞かせているようだった。

「それが僕の仕事だったし、それが正義だと思っていた。沢山の人を助けるために、一部の人間を見殺しにする。それは当たり前のことだと思っていた。そうしなければいけないことが沢山あったんだ」

「でも、それは仕方のないことなんじゃ」

 見てみない振りをしていたって、見てみない振りをしているからこそ、自然と誰かは誰かを傷つけてしまうし、誰かを救うことで、誰かを見捨てることになってしまう。私だけがあのとき助かって、私以外が誰も助からなかったように、それは何が良いとか何が正しいとかを考えるよりも、もっともっと早く起こってしまうものなのだ。起こったことの善悪を決めるのは、公平な目を持っている、という理由だけの全然関係のない『第三者』しかいない。

「かもね、かもしれない。でもね、やっぱり、そうじゃないかもしれない、と思ったんだ。それは理屈とか常識とか、そういうものじゃなくて、僕の単なる感情」

「それで、どうしたの?」

「次に、全員を救おうとした。そして、僕以外の全員が死んだ。最後に、僕自身を見殺しにして、全員を救った。それだけの話さ」

 彼は優しい顔だったけど、その目からは悔やんでいるような、切なげな表情しか読み取ることができなかった。

「助かった人は、僕のことを英雄だと褒め称えたかもしれない。大切な人を亡くした人は、自業自得だと言ったかもしれない。僕にとってはどちらでも変わりはないし、もうどうでもいいんだ」

 彼が行ったのは、『誰かのための誰かを殺すこと』であって、『誰かのために自分を殺すこと』でもあった。誰かを殺すことでしか、誰かを救うための手段を思いつけなかった。その被害に合う人数と関係を計りにかけて、実行したに過ぎない。それを彼は淡々と、どうでもいい、と言い放ったのだ。

「ただ僕は子供みたいに思っていただけさ。どうして、僕はこんなに非力で、誰も彼も助けることができなかったんだろう、って」

「そんな……」

 そんな考えは可哀想すぎる、と私は思った。思った、けど、言えなかった。彼はそんなことを言って欲しいと思ってはいないだろうし、彼自身、自分を可哀想だとか、欠片も思っていないのだ。私が、ここで可哀想と言うのは、他の人が私に向かって、勝手に可哀想だと言うのと同じことだ。その言葉が、どんなに人を傷つけるのか、私は知っている。

「そういう、変えられなかった過去をいつまでも引きずったまま死んだ人間に、天国での役職の選択肢として『天使』が与えられるのさ。地上で払えなかった分をこちらの仕事で払え、なんて皮肉かもしれないけどね。もちろん、試験もあるし、事情や『贖罪』の重さは人それぞれだけど」

『導く役』という意味を持つ天使の存在。確かに、私の案内人は、生前の行い次第で、天国での扱いが変わると言っていた。そして向こう側も天国という社会が存在しているとすれば、わかりやすい扱いの差は、『職業選択の自由』というものではないだろうか。

 だとしたら、

「ちょ、ちょっと待って! それじゃ、あの人も、一度死んだってこと? それで、『贖罪』を求めてるって」

 酷く簡単なことだ。

 あの能天気そうに見える私の案内人も天使である以上、この殺人者にしかなれなかった彼と同じように、『贖罪』をどこかで求めている。それがどんなものであっても、彼にとって、『罪』を犯したと自分を責める気持ちがあるからだ。少なくとも、天使という条件を満たすだけの。

 それなのに、それを言って同情を買おうともしなかった。

「ああ、あいつは、自分のそういう弱いところが嫌いなだけだよ。僕みたいにお喋りでもないしね」

 タケさんは、優しげに言った。

 だけど、それを言えば、私は大人しく従っただろう。いや、だからこそ、彼は何も言わなかったのだ。

「あの人は、何を……?」

「それを僕に言う権利はないさ。もし、本当に君がそれを知りたいのであれば、面と向かって聞くべきだ」

 そう言う限り、タケさんは、彼のことを知っているのだろう。それでも、聞きたいのであれば、本人に聞くしかない。

「ある一定以上の功績を残した人や、その生き方が実直であるとこちらが判断した人には、『特例』が認められる」

「特例?」

「干渉法と連絡法を用いて、地上界に定められた範囲内で影響力を及ぼせる、っていうこと。簡単に言うと、特定の人に夢枕でメッセージを送ったり、ね」

「そんなことができるの?」

「そう。特例は第一項から第十項まで。まあ特例一項は天変地異クラスだから、滅多に発動することはないと思う。僕が死んだとき、特例は四項だったかな」

 第四項、それは特例というものが認められたときでも、半分よりも上のクラス、ということだ。それがどれほどの率で生じるのか、当然ながら私には見当がつかない。

「それで、あなたは何をしたの?」

「何も」

「何も?」

 彼は、簡単にそれだけを言った。

「そう、強いて言えば、全ての人に等しく幸運が降り注ぐように、かな。そんなことをして、何の意味もないことは知っていたけれど、もう、誰かを幸せにして誰かを不幸にするのはうんざりなんだ」

 彼らしい、といえば彼らしい願い事のようだ。彼はきっと、私以上に、幸福が相対的であることを知っているのだろう。知っていても、彼はそうする以上の願いが存在しなかったわけだ。

「だから、君もこんなところまで連れてこられたんだろう?」

「え?」

 一体、その特例と私にどんな関係があるっていうの? 私自身、特例を与えられるようなことをしていたつもりはないし、それだとしても、連れてくる、という言葉の意味がわからない。

「ひょっとして、何も聞いていないの?」

「何のこと?」

「だって、君はまだ……いてっ!」

 真後ろから、ぬるりと現れた人影が、ぽかんとタケさんの頭を殴りつけた。

「タケトの馬鹿野郎!」

「本名で呼ぶな!」

 叫びながら、タケさんは頭を抑える。ちょっとだけ嬉しそうな顔をしているのは、この際大目にみておこう。やっぱり天使の条件には、変態が追加されるべきだ。

「よう、待たせたな」

 愛車とともに、私の案内人が帰ってきた。

 右手に肉まんを持っているが、これには突っ込んだ方が良いのだろうか。ジョークならジョークとわかるようにしてもらわないと。

 それにタケさんの話を聞いてしまって、私は、彼とどう会話をしていいのか、少し戸惑ってしまっていた。

「それより、これからどうするの?」

 タケさんが、彼に聞く。

「何だかんだごまかしてみたんだが、どうにもガードがなー」

「やっぱり特七程度じゃね」

「全部お見通しってわけか」

「まあね。今回は『なるようにはならない』」

「一班特権でできないか?」

「逆はできるけど、さすがに補佐クラスでないと。まあ、うん、それでも個人でやるとなると、天警に許可を取らないといけないし」

 雑談でもするかのように、軽い感じで話をしているが、私には全く何を言っているのかわからない。

「だとすると、強行突破しかないのか」

「言っておくけど、それは無理だよ。管理課が総動員で飛んでくる」

「ぬかったか」

 悪代官のような、随分と古い、そして微妙な言葉使いだ。

 それからあれでもない、これでもない、と彼らは話していたが、結論は出そうになった。どうやら、彼が何かをするために方法を提案しているが、それをタケさんがことごとく否定しているようだ。

「ねえ、何のはな……」

「FA119233!」

 はあはあと息を切らした、一人の男性が立っていた。

「げ、課長!」

 驚いて案内人が飛び跳ねる。タケさんも同様に、驚きながら少し身を引いていた。

 そこにいたのは、私をここまで連れてくるときに連絡をしていた、彼の課長だった。走ってきたのか、白髪が乱れている。

「お前、何をやらかしたか」

「動くな!」

 課長が彼に続きを言おうとしたのも数秒、背後の声に動きを全て止められてしまった。

「ち、天警か!」

 周りを取り囲んでいるのは、天使が着ている服と同じ黒で、左腕にプラスチックの篭手をつけて、サングラスをかけている、私の横にいる人と変わらないほど奇妙な人物達だった。全員がオレンジの腕章を左の二の腕につけている。ワックスをいいだけつけた、ぴっちりとしたオールバックだ。それよりも、奇妙なのは、他のお客が、全くこちらを気にしている様子がないことだ。ここではこの程度は、日常茶飯事なのだろうか。それとも、全く、見えていない、ということだろうか。

「随分と優秀な部下をお持ちのようですね」

 その一風変わった集団の後ろから、一人の女性が歩み寄ってきた。タイトなスーツに、後ろでまとめた長い髪、そして彼らと同じサングラス。その瞳の奥はうかがいしれないが、見るからに神経質そうだ。

「それとも、知りながらにしてこの事態を放置していたのですか、使者課は?」

「ううむ、そういうわけでは」

 中年の男性に反論ができる様子はない。

「まさか、内々に処理しようとしていたわけではありませんよね? それが一体どういう意味であるのかわからないほど愚鈍な課ではないと思っていましたが、今後見方を改めましょう」

 うわ、凄いトゲのある言い方だ。

「さて、ここからは全て我々に任せてもらえますね?」

 彼女が胸から、透明なムチを取り出した。

 ムチって? ムチで何を任せるつもり?

「では、そこの『二人』、動かないように」

 彼女は、明らかに、彼と、そして『私』に向かって微笑とともにムチを向けた。

「動くと余計に痛みますから」

 絶対、そのままでも痛むのだろう。歯医者と同じだ。動いたら痛むと言うが、動かなくたって痛いものは痛い。それに、私が何をしたっていうのか。どうせ何かをやらかしたのなら、彼だけにしてはくれないものか。

「タケト、逃げるからアレやれ」

 ぼそ、っと彼が言った。

「いや、それはさすがに危険だし」

 こちらも小声でタケさん。

「いいからやれよ」

 ちょっとだけ、強めの声で。

「マズイでしょう」

 躊躇をする。

「今度、家に来てもいい」

 何だ、その交換条件は。

「う、それは」

 心揺らいでいるし。

「それでもって……」

 彼がタケさんの耳を引っ張って、耳元で何かを囁いている。大人の事情、というヤツだろうか、内容は何となく想像がつくが、聞かない方が私のためだろう。

 タケさんは観念したような、それでいてご機嫌な様子で、自分のプレートを取り出した。それは、彼が持っているのと大差はなかったけど、表面に書いてある文字が、白い色をしていた。

「何をしているのです? あなたに関係はないでしょう?」

 ヒュンヒュンとムチを揺らしながら、彼女がタケさんに目を向けた。

「仕方がないなあ。デート一回、ついでに始末書はそっちで書いてよね」

 彼がしたのと同じように、プレートの正面を前に出して、上端にそっと下唇をつけた。

「特殊免許所持、実行者MA412445の名において連絡法第十一条第一項の限定解除を命じる」

「馬鹿者! お前まで何を!」

 課長が叫んだ。

「課長、特例七項には執行者による対象者への緊急措置っていうのがありましたよね」

「戯言を。貴方は自分の行為の重罪さを理解しているのか?」

 しかし、それに答えたのは、もう片方の課長、と呼ばれた無表情の女性だった。そして、彼のプレートから合成音が聞こえる。

「音声情報認識、第一項の限定解除にはパスが必要です。解除コードを述べてください」

「何となくわかっているつもりですが」

 割りとぼんやりと、タケさんが答える。横に立っている彼は、自転車のハンドルを握って、ニヒヒと笑っていた。

「わかっているのであれば、そのような愚行は止めるのが賢明だ」

 説得を試みる警官、というよりは、威圧感を持った冷徹な声で、詰め寄ろうとした。

「遠慮しておきましょう」

「パスを入力してください」

「何だと?」

「こういうことです」

 タケさんは、プレートを私と彼のいる場所の中心に向けた。

「開錠、開錠、水満ちるは涸れた土、されど我が眼は空を仰ぎ」

「解除コードを認証しました。対象目標点の半径五メートルにいる人員は、空挺装備の確認をし、それ以外の者は緊急に避難してください。繰り返します、空間転移半径は五メートルです」

 プレートがアナウンスを告げる。その声に、二人の課長も一歩引いた。黒服の集団の何人かは、自分のプレートを取り出して、何やら命令をしようとしていた。

「僕らの仕事は誰かを導くことでしょう? それがたとえまだ生きている人間でもね。それができないのであれば、こんな仕事、クソクラエ、だ」

 え、今なんて?

 まだ生きている人間?

 それって。

「開錠開始」

 プレートから一筋の光が伸びて、私達の周りに円を描き始めた。

「何、これ?」

「ここと地上を繋ぐ穴を強制的に空ける、第三班以上だけにできる命令法則。ちょっとぐらっとくるから気を引き締めろよ」

 穴を空ける? それに、ぐらっとくる?

 何だかとっても嫌な予感がする。何が起こるのか、急いで考えないと。

「開錠します」

 目の前の景色が少しずつ、ゆらんと歪み始めた。私達を取り囲んでいた人達が、半分が慌てて駆け寄ろうとして、もう半分は異常事態に驚いたのか後ろに下がろうとした。何人かは穴を空けたタケさんを取り押さえようとしていたが、反抗する意思も見当たらないようだったので、彼は手を後ろで回されて、プレートを取り上げられていた。

 その瞬間、スポンッという効果音が似合うくらい、私と彼を中心とした真下に円形の穴が空いた。何となく予想はしていた展開だったけど、本当にこんなことになるとは、と思う間もなく、私と彼はみるみる落ちていく。一緒にテーブルと自転車も落ちているが、そんなことは小事だ。

「道中気をつけてー」

 怒声が飛び交う穴の向こうで、やけにのんびりとした声が聞こえた。

 そして、私は、声を失ったまま、地上まで自由落下を始めたのである。

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