酔わずとも抱きしめて

 失敗した。

 やらかした。


 ホテルで独り、枕を濡らす。


 一人暮らしをする彼の部屋で、ひとつ屋根の下。

 美味しいご飯を食べて、お酒も飲んで。

 ほろ酔い気分の勢いを借りて「抱きしめて」と彼に伝えた。

 けれど、返ってきた言葉は「NO」だった。


「絶対、嫌われた」


 自分で呟いた言葉に自分が傷ついてまた涙がぼろぼろと溢れる。


 触れ合いたいって思うことがそんなに駄目か。

 抱き締めてくれるくらい、付き合っているんだからいいじゃないか。

 遠距離恋愛だし。いつもできるわけじゃないし。

 私がおかしいんじゃない。奥手すぎる彼がおかしいんだ。


 怒りに変えたかったが、それよりも断られたショックが強くてどうしようもできない。


 彼と一緒に夜を過ごせた最終日に、最悪だ。

「終わり」の言葉だけがでかでかと頭の中を侵食している。

 このまま酒の勢いで、記憶もなくなってしまわないだろうか。

 そう思いながら眠りについたものの、翌日になってもちゃんと覚えていた。本当に最悪だ。


 翌朝、駅まで送ってくれるはずだったのに、時間になっても彼は来ない。連絡をしても、返事はない。


 これは、本当に終わったな――。


 空を見上げる。朝から目許を滲ませたくない。

 一度、大きく深呼吸をしてから駅へ向かう。

 駅まであと半分といったところだろうか。バッグの外ポケットが震えた。

〈ごめん!寝坊した!今向かってるから!!〉

 駅に着くと同時に彼の姿を見つけた。

 本当に走ってきたのだろう。首筋には汗が伝っていた。

 彼の姿を見て、安心している自分もいる。

 でも、昨晩に生まれた靄は晴れてはいない。

 改札前で足を止める。もうそろそろ行かないといけない。

「……短い間だったけど、ありがとうね。楽しかった」

 きっとぎこちないのだろうけど、彼には笑った顔を見せる。

 彼の顔はどことなく強張っていて、私の言葉に頷いた。

「……忘れ物はないですか?」

 彼は一歩、私に近づく。

「――ハグとか」

「……え?」

 訊き返した時には、彼は私に向かって腕を広げていた。

 気付いた時には、彼の胸の中にいた。顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 背中に回る彼の腕の力強さに耳が熱くなり、目許が熱くなり、ぼろぼろと頬を伝っていく。

「そんなに泣かないでください。もうずっと会えないわけじゃないんだから。また、会うでしょう?」

 彼は振り返らずに、さよならしようと背中を押した。

 もっと名残惜しくなってしまうからと。

 改札を通る。

 人混みに飲み込まれる。

 堪らず振り返ってしまった。

 人混みの奥で佇む彼は、目許を拭っていた。


 同じ一つのソファで肩を並べて、珈琲に口をつける。

 もう何年も前のあの日のことを今でも思い出しては、2人でくすくすと笑い合う。

「どうしてあのとき、抱き締めてって言ったの断ったの?」

 もう時効だ、と思い切って隣の彼を見る。彼は少しの間、私から目を逸らさずにいたが、赤くなった耳を私に向けた。

「そりゃあ……ねえ、僕も男ですから。でも、あの状態でっていうのも……ほら、分かるでしょう!」

 マグカップを口許に運び、眼鏡を曇らせる。

「じゃあ、今はもう大丈夫だね」

 マグカップをテーブルに置き、彼に向って腕を広げる。

 彼は、曇りが未だに残る眼鏡とマグカップをテーブルに置き、手を伸ばした。

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ボトルの名は「少年少女」 屈橋 毬花 @no_look_girl

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