第20話 初夢。
タカヤマを発ってほどなく雨が落ちて来た。降り出しは予報よりかなり早い。徐々に強まる雨音が床下部屋の扉を通してもはっきり聞こえる。心なしかバスの速度が緩んでいる。時折停車しては対向車をやり過ごす。ここは道幅が狭い割に大型車の交通量が多いようだ。
「下にヒダ川が流れているんですが、この雨ではちょっと見づらいでしょうか――」
女性のナレーションが雨音の合間を縫ってボクの耳に入ってきた。そうか――今、あのヒダ川の所を走っているのか。この雨では水かさが増していつもと違った顔を見せているのだろうな。……
「ドスン――」
何?地震?――飛行機が着陸した時のような地響きがした。あの三月の再来かと思わせるくらい、バスがひどく揺れた。ずるずると滑るようにして車体がガードレールを擦った。どうやら、対向車の荷台から材木の束が雪崩れ落ちてバスに当たったようだ。それを避けようとした車体はボクのいる左側に傾いている。にわかに頭上がざわつき始めた。アキは、窓際のカイと席を入れ替わるよう、サラに耳打ちしたようだ。
「そのまま動かないでください!」
相変わらず激しい雨音の中、ナレーションの声がこれまでとは違う。確かに今バタバタと動いては車体のバランスが余計に悪くなるかもしれない。
ん?――今度はちょうど何かが折れたような鈍い音がした。次いで工事現場に響くけたたましい金属音が鳴ったかと思うと、雨音が急に大きくなった。――床下部屋の扉が口を開けてしまったのだ。
吹き込む雨風に逆らうように中の荷物が転がり始めた。いちばん外側にあったいくつかのバッグが車外に放り出されると、次から次へと後を追った。ガードレールの当たっているのは、ちょうど扉の手前までだから、外へ出たバッグはそのまま路肩を越えて崖下へ勢いを増して行った。
ボクの番がやって来るのも時間の問題か――そう思った時、車体の傾きがいくらか右に戻るのを感じた。崖下では先陣を切ったバッグの一つが激流にのみ込まれて行った。部屋の中の荷物が減るにつれ、傾きは徐々に解消されてきたものの、崖下に向かって開いた口は荷物を吐き出すのをやめなかった。
ボクの前が空いた。いよいよか――自分が少しずつ動いているのが分かる。ボクは覚悟を決めた。そして心の中で想った。アキ……
すると、ボクのバッグは動きを止めた。出口はもうすぐそこだった。言ってみれば、棺に片足を踏み入れているような状態だ。昨日、アキがバッグの手提げにぶら下げた、顔のない赤い人形が引っ掛かっているのだ。
車体の傾きはほぼ水平に戻っている。けれども、この雨と路上の様子では何らの身動きも取れない。
それから何時間かが過ぎた。
「もうすぐ救援車が参りますので、このままの状態でお待ちください」
久しぶりのナレーションの声は、前よりかなり落ち着いたように聞こえる。
車中ではサラが思い出したようにカイに声をかけている。席を入れ替わろうと二人が中腰になった。
夢で見た瞬間だ。――
顔のない赤い人形のストラップがぷつんと切れた。雨水で増したバッグの重さに耐えられなくなったのだ。
今朝見た夢は正夢だった。
ボクを引き留めていた運命の糸もここまでだ。決められた寿命に逆らうことはできない。ボクはもちろんこれを快く受け容れる。
しかし、それにしても目が回るなあ。……
アキ、今までありがとう。ボクはアキと一緒にいて、数え切れないくらいのしあわせをもらった。ずっと一緒にいたかったけれど、いつまでもボクがそばにいると、アキの寿命が狂ってしまう。これからはその命をサラとカイのために、そして何よりアキ自身のためにつかって。それにボクは、一度見てみたかったヒダ川を、アキが子供の頃に描いたという激流を、今から体験することができる。ボクは知っていたよ、アキの中で激流が絶えず谷底から突き上げては心の内壁を険しく削っていたのを。
ボクは本当に満足さ。でも、欲をいえば――もう一度だけ、あのゴザの上で、寝てみたかったな。……
*
最後の荷物が落ちるのと同時に車体は完全に水平を取り戻しました。――
その後、救援車に続いて二台のマイクロバスが到着すると、乗客は新宿駅行きと東京駅行きとの二手に分かれて乗り換え、帰途につきました。床下の荷物が全て川に流されてしまったことは、明け方、バスがそれぞれの目的地に近づくのを見計らってガイドの女性と旅行会社の添乗員からアナウンスがありました。
なお、現場に残された観光バスのトランクルームの搬入出口には、濡れ鼠になった顔のない暗赤色の人形(さるぼぼ)が首を吊るようにしてぶら下がっていたということです。勿論、無念の表情など窺えるはずもなかったことでしょう。(了)
ディア・パラサイツ one minute life @enorofaet
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