第四章

 八時丁度のあずさ二号というのは、夜の八時だと思っていたら、本当は朝の八時らしい。しかも、上りだから東京からは旅立てない。まあ、二号というくらいだから、早い時間なのは当たり前なのかもしれないし、どこかに旅立とうというのだから、早い時間に出た方が良いに決まっているのだが。


 俺は時計を見ながら、そんなことをぼんやりと考えた。


 裏ネットに流した広野メソッドシステムは、予想外に好評を博してしまい、感想やら改良案やら感謝のメールやらが大量に舞い込んで来ていた。それはそれで今となっては悪くない結果だ。もしかしたらこれで、多少の金にはなるかもしれない。でも違う。メールの中には「広野様は神様みたいです!」とか書かれた妙にテンションの高いものもあったが、そういう神様になりたいんじゃないんだ。


 もう一度時計を見る。


 朝の連続テレビドラマが始まろうとしていて、小中学校の授業は始まろうとしている。少し前まで窓の外を走っていた子供の声が静まったのは、そのせいだろう。大学の授業はもうちょっとしてからだ。


 俺のような人間には、信じられない早朝か、あるいは徹夜明けの深夜の延長。今は後者で、俺の目はスパイダーマンもびっくりの真っ赤な編み目ができている。


 寝れる訳がないだろう。こう見えても、俺は悩む時には徹底的に悩むほうなんだ。正確に言えば、生まれて初めて真剣に悩んでみたら、割とドツボにはまるほうだということが分かってしまったのだが。


 特急の発車時刻はどんどん近づいていく。色々な想像や妄想が頭の中を走り回って、昇天してくれない。


 仕方がない。半分は自分にだって責任はあるんだ。男として責任はとらないといけないだろう。とかなんとか、自分に理由を無理矢理押しつけて、俺は携帯端末と携帯電話をバッグにつめて部屋を出た。




 やっぱりいた。


 馬鹿みたいにデカいスポーツバッグを持って、馬鹿みたいな顔をして改札口の前に突っ立っていた。


 明美に渡したチケットは、午前九時を少し過ぎた時間に発車する特急のものだ。俺が駅に到着したのは八時四十五分で、普通ならそろそろホームに向かっていようかという時間だ。


 しかし明美は立っていた。おそらく同行者を待って。


 俺は改札口の反対側の柱に身体を隠すようにして、明美の様子を盗み見る。


 明美が龍見さんにどういう話をしたのかは、俺は知らないし、知る気もない。しかし、彼女が一人で発車二十分前に立っているということは、おそらく交渉は決裂し強行採決を図ろうとしたものの待ったアリなのだろう。


 時計は進む。


 明美の格好は見るからにこれから家出しますと言っているようなもので、出発前に警察に捕まりはしないかと心配だが、次から次へと人が行き交う雑踏の中にあって、また警察もそれなりに忙しいらしく、彼女が職務質問されることはなかった。


 おっと、チャラチャラした変な兄ちゃんが職務質問を試みたようだ。ああいう職業も大変だな。だが、あっさり引き下がったな。明美が何を言ったのかも、兄ちゃんがどう思ったのかも、だいたい想像できる。多分、ラムダラ様のご加護って奴だ。


 九時になった。今からホームに向かっても間に合わないだろうと思うけれど、それでも明美は待ち続ける。


 止めようか。


 ばばっと走って出て行って、「あきらめろ。俺を見ろ。そして俺と生きろ」とでも言いながら肩を抱いたりしてみようか。


 無理だ。いや無駄だ。俺はラムダラ様じゃあないし、明美のラムダラ様は俺じゃあない。


 九時五分を過ぎた。耳には聞こえないけれど、俺の頭の中では、ドアが閉まりアナウンスが流れ、列車がホームを離れる光景がありありと浮かんで消えた。


 明美は待っていた。時間なんか関係ないのかもしれないし、そもそも時計なんか見ていないのかもしれない。


 俺も動けなかった。柱に縛られたように、そこから一歩も動けなかった。


 携帯が鳴った。龍見さんからだ。


「広野」


「ああ、龍見です。メールに返事がないものですから、電話させて貰いましたよ」


「何」


「あなたが流したレポート作成システムを見ましたよ。良いですね。実に良く出来ている。あれをうちの会社で買い取らせて貰えませんでしょうか。いや、会社というところは、実に色々な書類を作成しないといけないところでして、特にお役所関係の仕事だと、体裁や文章がきっちりしていることが求められるのですよ。そこに広野メソッドシステムを導入すれば、大幅な作業効率アップが期待できるのです。応用すれば、提示された入札要件を元に仕様書を半自動生成することも可能かもしれません」


「なあ」


「はい、なんでしょうか」


「ビキニブリーフは履くか?」


「いえ履きませんが」


 なら合格だ。


「明美の件、俺、知ってる」


「……」


「あんた、することがあるんじゃないのか?」


「……。僕には資格がないのですよ。なぜなら僕は、」


「それも知ってる」


 龍見さんの言葉はそれで止まった。


「あんたのこと調べた。だから知ってる。あんたの悩みも、あんたが真面目な奴だってことも、良い奴だってことも、知ってる。あんたに資格がないなら、俺にはもっとない。俺じゃ駄目だ。明美が求めているのは俺様じゃなくて神様なんだ。少しの時間しかなくてもいいから、一緒にいてやるべきなんだ」


 俺は喋り続けた。こんなに立て続けに喋ったのは、何年振りだろう。


「いま俺はデータを持ってきている。これを明美に見せることもできる。俺に本当のことを話す気があるなら、明美にも話せ。俺からバラすか、自分でバラすか、選べ」


 無言。


 電話の先では、携帯電話のコーデックに歪められた呼吸の音だけが続く。


 そしておもむろに切れた。


 龍見さんが駅に到着したのは、十五分後だった。


 予想通りネクタイを絞めた龍見さんが、荒い息で明美に走り寄る。顔を上げた明美の表情は、これ以上もない幸せそうな顔をしている。


 分かるぞ。その顔は「見つけた」って顔だ。空から降ってくる代わりに、ネクタイをして走ってきた神様を見つけた顔だ。


 たとえその神様が腹に爆弾を抱えていたとしても、だ。


 俺は携帯端末を取り出して、カルテのファイルと、自分の記憶も同時に消した。龍見さんの身体に出来ている悪性腫瘍がどこの臓器になのかも、綺麗さっぱり忘れてしまった。


 柱から立ち去ろうとしたら、大理石モドキの壁面に、マジックで書いたポスターが見えた。


『神は皆をみています』


 俺はそれをひっぺがして、クシャクシャに丸めて捨てた。


 神様は誰の上にも平等にいるんだとか言うけれど、本当は誰もが、みんなの神様なんかじゃなくって自分だけの神様にいて欲しいって思っているんだ。


 神様が現れてくれた奴はハッピーってことで、いいじゃないか。


 いいじゃないか、なあ。




 その後の俺は、真面目にレポートを書いて大学に戻った。明美とも龍見さんとも一度も会っていないから、二人がどうなったのかは知らない。


 二人で力を合わせて、何だか分からない強大な敵と戦ったのかもしれないし、手を取り合ってどこかに逃げたのかもしれない。逃げるついでに母親の身体もラムダラ様のところに追いやるべく、包丁を持って病院に忍び込む光景とか、恐ろしいことも想像はしたけど、頭から追い払った。


 分からないし、知ったことでもない。


 俺にはやっぱり、神様なんか似合わないんだろうから。

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ラムダラムダ 木本雅彦 @kmtmshk

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