第3話 無垢色の雨は晴れにこそ伝う

 昼ご飯さえも忘れて。私は葉書を何度も見ては憶測を巡らせていた。そもそも、アチキの名前はなんというのだろう。


 子供の頃に「あちきが~」と言う口癖から『あちき』と言う名前なのだと思い込んでいたのだが、『あちき』と言う言葉が示す意味を知った今からすれば、名前が気になって仕方がない。


「むぅ」 


 私は頭を掻きむしった。


 思い出せないのである。夏と言えばアチキと遊んだ記憶しかなかったはずなのに、なのに、アチキの顔も声もはっきりと思い出せないのだ。鬼ごっこも追いかけっこもした事は覚えている。そして、おにぎりを、桃を一緒に並んで食べたのも忘れることなどできない。だと言うのに!アチキの顔も声も朧気ではっきりとした像を結ばないのであった……


 宵の口を前に、晩飯と鮭フレークの瓶を買い込んだ私は、そんな風に煩悶としながら家路を歩いていたのだが、家に到着する頃には、どうせ明日会えるのだから、いまさら思い出す必要もあるまい。そのように当然の帰結でもって思い出すことをやめてしまった。


 次の日は、懐かしみながら大きなおにぎりを二つ作った。三角形にならず不格好な米俵のようになってしまったのはご愛敬である。


 正午よりも早く神社の境内に到着した私はてっきり、アチキが先に来て待っているものだと思っていたので、誰もいない境内を見て、幾ばくか肩を落とした。


 腕時計を見ながら、佇むこと数分。正午きっかりに突然雨が降って来た。空を見上げれば見渡す限り蒼天であるからして、奇妙な天気である。


 私は眉を顰めながら、社の下に避難すると賽銭箱の上に腰を降ろして、この通り雨だろうにわか雨がやむのを待つことにしたのである。


「こんな雨は……えっと……」


 遠い昔にも同じような台詞を吐いたような……そんな面持ちとなっていると、やがて雨は台風のごとく豪雨となり、雷こそ鳴っていなかったが、季節はずれの豪雨であることは間違いない。


 そして、時間にして5分ほどバケツをひっくり返したような豪雨の後、雨足は次第に弱まり、やがては霧雨となった。


「霧かよ……」


 雨の次は霧である、私は帰ろうかと思った。こんな奇妙奇天烈な天気あったならば、アチキだって来たくてもこられないだろうと思ったからだ。


 しかし、私が腰を上げたその時に聞こえた『シャン』と言う鈴の音で、私の深淵に眠っていた記憶の全てが解き放たれたのである。一定の間隔で鳴る鈴の音に私の体は鳥肌が駆け抜け、冷や汗がしたたり落ちていた。

 生唾を何度も飲んで、霧の向こうから聞こえ、そして近づいて来る鈴の音を聞きながら私は現れるだろう人影に霧を穴が開くほど凝視した。


 すると。いつかと同じ、手に手に獲物を携えた女性達が姿を現した。


 鈍く光るそれらの切っ先を私に向ける着物の女達。私は狼狽するどころかいたく冷静であった……「そうか」……私は全てを理解した。いいや、ようやく理解できたのだ。晴れに降る雨もアチキが『神社に来るな』と言った意味も。


「おつぎ物です」


 私は聞こえるようにそう言うと、おにぎりを見せてから、数歩歩み、これを足元に置いてから再び賽銭箱の前まで後ずさった。


 女性の1人がそれを拾い上げると。女性達は獲物の先を天に向け、道をつくるように腰を低くして左右に別れて行く。私はさらに生唾を大量に飲み込んだ。記憶が正しければ…………いいや。私の憶測が正しければ……きっと……


 やがて、恭しく、白無垢を身に纏った花嫁がお付きの女性と共に私の前に歩み寄る。


 私の少し手前で人払いをするかのように、お付きの女性の足を止めさせた花嫁は、単身でさらに私に歩み寄ると。


「ありがとう」


 透き通るような声でそう言い、赤い酸漿を私に差し出した。


「あの時は、助けてくれてありがとう」


 私がそう言った。すると、花嫁は徐に首をもたげたのである。


 花嫁は美しかった。この世のものと思えないほどに純白であり、唯一に紅がのせられた唇は小さく、まるで熟れの時季を迎えた桃のようだった…………

 

 真実とは、事の誠とは本当にあの夏に戻れないのだろうかと後悔するほどに、そうして1年に1度のこの暑い季節にだけでもこの場所に帰ることができなかったのだろうか。私は酷く後悔した。後悔せずにはいられなかった………………

  

 口許を綻ばせて、優しくした鳶色の眼は語らずも、私の心に全てを教えてくれるようだった。


 名残惜しいように笑った花嫁は、

「さようなら」今一度透き通るような声でそう言うと、私の手の上に大玉の桃を置いた。


 そして、静かに振り向いてお付きの女性と共に霧の彼方へ歩いて行く。


 時間とはこんなに残酷なのだろうか、もう戻れない……あの夏にはもう戻ることはできない。そんなことはわかっている。私だけが知る彼女はもういないのだ。


 それでも!それでも、私は呼び止めて今まさに駆け出したかった。


 一昨年のことも去年の事も、もっともっと前の年の夏の事も、私は謝ってもいない。


 感謝の言葉だって伝えたりない……


 今、駆けだして、彼女の手を取ってどこまでも逃げたならば……それも叶うだろうか……いいや。


 叶えられるならばそうするしかあるまい。


「おめでとう!おめでとう!」


 私は「行かないでくれ」と「もう一度だけ逢いたい」と、叫びたい言葉を全て振り払ってそう叫んだ。


 アチキは「さようなら」と言ったのだ。私がするべきことは、出来ることは……最後にしてあげられることは……彼女の手をって逃げることでも、悲しきを叫ぶでも名残惜しいを泣くことではない。ただ、涙を呑んで祝いの言葉を天に向かって叫ぶことだけなのだ。


 アチキは私の言葉を聞いて涙してくれただろうか……寂しいと、切ないと想ってくれただろうか……


 どこまでも白く無垢を纏った花嫁は一度だけその歩みを止めた。二度と振り向くことはなかったが……一度だけ、歩みを止めて空を仰ぎ見たのであった。


  ◇


 昔から私が田舎から帰る日は朝から雨が降っていた。


 冷たい雨ではなく、今、私の手の中の酸漿を濡らす大粒に温かい滴であった。きっとアチキが雨を降らせたのだろうと思う。


 遣らずの雨……アチキは口にこそ出さなかったけれど、ずっと毎年……毎年……私を引き留めてくれていたに違いない。


 私は幸せ者であった。気が付かないからこそ幸せ者であった。


 アチキは何度、1人で涙を流していたのだろうか。


 だから、今日は……今日だけは一生分の涙を、私の涙を、アチキにこそ贈りたいと思う。


                 

                  おわり



           

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無垢色の雨は晴れにこそ伝う 畑々 端子 @hasiko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ