その5
洞窟の奥に作られたヨーグルト培養施設。
その洞窟は岩山にできた裂け目らしかった。苔でぬめる入り口を抜けると、ステンレスで作られた階段があり、工事現場用のライトが設置されていた。ひんやりとしていたが、湿度は高い。手すりが水滴で濡れていた。
それほど深くないところに、温室のようなフィルムで区切られた区画があった、そこをくぐり、殺菌灯の光をあびながら奥に行く。大きなポリタンクの前にドクターはいた。
さいわい、彼は正気を保っていた。
おれたちは事情を説明した。彼はおおむね起こったことを現実と認めたようだった。
「モンゴリアン・ケフィアがモンゴリアン・デス・ケフィアに進化したといったところだろうかな……」
ドクターは言った。やはり狂っているのかもしれなかった。
「君たちの言う『ゾンビ化』の原因はまちがいなくヨーグルトだ」
彼は額の汗を白衣でぬぐう。
「ヨーグルトの副作用だ……ヨーグルト菌に操作されてるんだ」
「菌が人間を操作するだって?」
「便宜的な言い方だ。菌には意志はない……」
ドクターはおれたちに座るようにすすめた。
「人間の体内に住んでいる菌たちは、当然ながら人間の行動によってその環境が変化するわけだ。たとえば宿主がヨーグルトを食べると、腸内が乳酸菌に有利な状況になる。野菜を食べてもおおむねそうだ」
「そこまではわかるが」
「だから、もし菌が何らかの化学物質を出すことで、宿主に野菜やヨーグルトを好むように仕向けることができれば、その菌は生存に有利になる」
「つまり、人間が野菜やヨーグルトを好むように仕向ける菌って事か?」
「とっぴな考えではない」
ドクターは首を振る。
「そのような事例はある。詳細なメカニズムは不明だが、人間の腸には、脳内に存在するのと同じ神経伝達物質が豊富に存在するし、腸の活動の精神状態への影響も、思ったよりも大きいように思う」
「つまり、モンゴリアン・ケフィアが人間を菜食主義にさせるのか?」
「わたしはそう思っている。動物実験ではそうだ。そう言ったやり方で、このモンゴリアン・ケフィアは繁殖してきたんだ。だが、モンゴルの部族と違って、ここの環境は少々このケフィアにとって栄養過多だったのかも知れない。あるいは馬乳と牛乳の違いかも……とにかく、このケフィアは少しずつ変異していったのだろう」
「人間を狂わせるように?」
「くり返すが、菌には意志はない。ただ人間をそのように刺激する傾向をたまたま持ったと言うだけだな」
「つまり、異常に野菜好きにさせる?」
「狂ったようにな。モンゴリアンケフィアは体内でますます繁殖し、その精神的な影響はますます強まる。おそらく、精神に影響を与える化合物を作るのだろう」
「ゾンビ同然だ。菜食主義ゾンビだ」
「そしてわたしたちもヨーグルトを食べた!」
フォレストは叫ぶ。
「わたしたちも感染している!」
「おちつけ。おれたちはなぜかまだ正気だ! その原因を考えてみるんだ!」
「うむ。それについては仮説がある。私の症状の進みが遅かったのは、おそらく私がもとのモンゴリアンケフィアを最初に持ってきた人間だからだ。無害なタイプのケフィアがわたしの中で充分に繁殖していたから。だから、置きかわるのが遅かった。そのせいだろう」
ドクターは自分なりに状況を分析していたらしい。彼は起こったことの悲惨さより、むしろこの現象に心を惹かれているように見えた。もっと早く言えばみんな助かったのかも知れないのに。
「だが、君たちはちがう……」
おれは必死で考えた。症状を抑えるかも知れないなにかをおれは持っている……。
「そうか! ソーセージだ!」
おれは叫んだ。
「おれはソーセージをこっそり食っていた!」
「ソーセージですって! それが一体なんの関係が!」
「そうか! 悪玉菌だ!」
ドクターは言った。
「それだよ! 肉を食べると、腸内で悪玉菌と呼ばれているような微生物が増える! 通常は悪いものとされているものだが、それが邪悪なヨーグルト菌を押さえつけたんだ!」
「そ、そうか! 悪玉菌を増やせば、ゾンビ化せずに済むんだ!」
「なるほど……わたしも!」
フォレストはそう言ってから、息を飲んだ。
「やっぱりお前もこっそり肉を食ってたんだな!」
おれはフォレストを指さした。
「菜食主義者の体型じゃないと思ったぜ! この動物性オイルでぶが!」
「くっ……あなたに言われたくない! どうせわたしは裏切り者だ!」
フォレストは涙ぐんで反論する。
「肉を食わないと気分が落ち込むんです! しょうがないでしょう!」
「落ち着きたまえ!」
ドクターが一喝する。
「とにかく肉を探して食うんだ。そうして腸内の悪玉菌を増やせ! そうすれば助かる! そして……はやく私から離れるんだ!」
ドクターはそう言っておれたちを突き飛ばし、激しくせきこんだ。
「どうしたドクター?」
「さ、さっき、バケツ一杯分の……」
ドクターは震えながら言う。
「血を吐いたのか?」
「いや、ヨーグルトを飲んだ」
ドクターは白衣をごそごそと脱ぎはじめた。
「抗生物質を飲めばいいが、ここにはおそらくない……」
「なぜ脱ぐ、ドクター!」
「自然に帰りたくて仕方がないんだ! 心が叫びたがってるんだ!」
ドクターは全裸になった。
彼はカベのスイッチを押す。
「なんだそのスイッチは、ドクター!」
機械音声がカウントダウンをはじめた。10、9、8……。
「ヨーグルトタンクを自爆させる装置だ! 早く逃げろ! 肉だ、肉しかない!」
「ドクター! 止めてください!」
「逃げるぞ!」
おれはフォレストを引きずるようにして逃げ出した。
最後に見たのは、ヨーグルトに沈む研究室。聞こえてきたのは、博士の高笑い。
「さあ食え! 行くぞ!」
おれは残っていたソーセージをカバンからとりだし、フォレストに半分食わせた。自分も食った。
「はあはあ……おかしい。ソーセージってこんな味だったっけ」
フォレストはソーセージをむちゃむちゃ食いながらつぶやく。
「くそ、味覚がおかしくなってるんだな」
おれの食べているソーセージは普通の味だ。おれのほうが進みが遅いようだ。
「おまえの隠しているソーセージを食いにいくぞ!」
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