一生のお願い
浅原 俊
一生のお願い
「いつ死んでも一緒」
「今死んでも構わんのか」
「苦しくなければなんだっていい」
初夏。夜でも動けば汗ばむ程度の気温になるこの頃だが、今日は日中特に日が照っていて、そのせいかアスファルトは熱気を溜め込んでいたように地面から熱を放射している。
「俺はいつ死んでもいいように生きてるつもりだよ」
宮平が下を向いたまま、はっきりと取れる声で物を言う。膝元から神経を遡上してくるように頭を茹だらせる蒸し暑さを、宮平も感じているはずだ。
「暑いな」
「暑い」
家路の最後の上り坂、人気のない公道の真ん中で、風筋を探すようにして黙々と歩く男が二人。ベイスターズのレプリカユニホームを身に纏っていること以外で特に共通点は見当たらず、むしろ身に着けているものといえば、斜め掛けの鞄にリュックサックと殆ど対になるような格好である。
「俺はさ、死ぬのが怖いから生きてる。怖くなくなった時が死ぬときな気がして、そういう日が来るのも怖い。」
「ごめん、さっきの訂正。俺が死ぬときは、その死に意味がないと嫌だな」
「なんで」
「ごめんそれも訂正。できれば死ぬことが何らかへのアクションになると嬉しい」
「どんな」
「でも贅沢だな、それは。なんとなしに死んで、誰も知らないうちになかったことになるのが、一番高潔で美しいんだ」
街灯の切れ間だったので宮平の顔を窺い知ることはできなかったが、こういう話をするときは、大抵こいつはニヤついている人間なので、おそらく今もそうなのだろう。
「死ぬとさ、迷惑じゃん。俺が今死んで、ハイおしまい、とはならないじゃんこの国は。手続き踏んで、国に『コイツは死んだ』と認めてもらわないと、死んだことにはならないわけで」
「国が迷惑なの? 俺が迷惑なの?」
「んー、両方だね」
「俺は迷惑と思わないから気兼ねなく失踪しなさい」
「迷惑じゃんそれ」
「俺さ、童貞だし彼女いたことないし、当然風俗とか行ったことないし、綺麗なまま死にたかったら、今死ぬしかないかもしれないって、最近思うんだよね」
「やりたいことをやってから死なないと、あの世で後悔するとでも」
「その迷いを断ち切りたい」
リビングの電球は、2/3が切れていた。薄明かりを傘で絞って、小さな木机に白湯の入ったマグカップがふたつ。
「死ぬと、なくなる。脳が活動をやめ、そのうち灰になるか、土に還るか。」
「構成してた原子がバラバラになって、また新しい生き物になるか、植物になるか。」
「植物も生き物だろうて」
「せやな」
開け放った窓の外からは、時折米軍機の通過する音が聞こえて消える。低音のサイン波にLFOをかけたような音が、近づいては離れ、また近づいてを長い周期で繰り返している。
「音とか光とかに生まれたかったな」
「絶対楽しい」
「よな。一瞬パアッと咲いて、あとは落ちるだけ」
「ワンチャンスに期待しなくていいから、ウィークポイントで出し切ればいい。手加減は要らない」
「将来にモヤモヤしないでスパッと死ねる」
「でも録音されたり撮られたりしたら敵わん」
「文明の憎いトコ」
宮平が白湯を啜る音が、離れた軍機に代わって低音域を担当する。その辺の草むらから虫が鳴き始める頃合なので、数日もすればここも賑やかになるだろう。
「原子でバラバラになるならさ」
「ん?」
「俺の体を作っていた原子が、土に還り、そこから植物が生え、誰かが収穫して」
「どこも誰ともわからないけど、きっとその中にいるであろうS級にかわいい女の子が食べて」
「そうそう、それで消化されて女の子の体に取り込まれて、あわよくば女の子の体を構成する一部になったら」
「もう身体をひとつにするとかそういう次元じゃないな。一緒なんだもんな」
「興奮しない?」
「お前はウンコになって出てきて一からやり直しになる役だろうよ」
「ならお前はオッサンに食われる運命だ」
「でもどんな女の子も体の半分はオッサンの遺伝子だぞ」
「どう転んでも勝ってしまう」
出かけているあいだにあった地震で、不安定な場所に立てていたローションのボトルが倒れたらしい。床に転がっているそれを、手に取ってまじまじと見る。
「こいつにはなりたくねえな」
「こいつを構成してる元素の一部も、数百年前はどこかのオッサンかもしれない」
「とびきりの美人かもよ」
「だといいが」
蓋をあけて逆さにして、出てきたローションを左手で受け止める。昨日よりも少しだけ多めに取って、そのままボトルを足に挟んで右手で蓋を閉める。
「楽しいか?」
「しょうがないだろう、これはもう」
「わかってる。言ってみただけ」
宮平がうつ伏せになると、肛門から数本の縮れ毛が覗く。ボトルを所定の位置に戻している間に、普段何をしていたかが急に思い出せなくなった。
「どうした」
「俺って何してんだろうなって思って」
「俺も知りてえなあ、俺ら何してんだろ」
「馬鹿みたいだよな」
「そうだな」
「なあ」
「ん?」
「俺たちって何で生きてるんだっけ」
「生まれたくて生まれてきたやつなんかおらんし、生きようって意識を持って生きてるやつだっているかどうかも怪しい」
「俺が今何考えてるか分かるか」
「死にたいんだろ」
「正解」
俺はわざと乱暴な手つきで、ローションを右手で掬っては宮平の体に塗った。
「どうした」
「風が温い」
「寝てればいいのに」
「寝れないからこうしてんの」
「かわいそ、お湯沸かす?」
「氷でも舐めればいいだろう」
「砂糖でもまぶして」
「それは贅沢だ」
月が出ていない上に、今日は空気が澄んでいた。上空にはまばらに星が光っていて、都会ながらも一定の数が視認できた。
「そのうち死ぬかもしれない」
「止めないぞ」
「知ってる。いつになるか分からんから明日中に遺書を書いてしまおう」
「司法書士かどっかにでもいくのか」
「それはともかくとして、明日書いてまとめるところに一緒にいてほしい」
「どうしてまた」
「俺の遺言、お前が知ってなきゃ意味がないからよ」
「俺にかかわることって、そりゃなんだい」
冷蔵庫から氷を掬いだしてコップに落とす時になるコロンとした音が、いっとき無音の中にいたこの部屋に刺さった。
「俺さ、多分死んだ後に後悔するから、変に悪霊にならんように見てて欲しいんだよね」
「どのくらい」
「ずっと」
「そりゃまた穏やかじゃない」
「書くだけよ。いつ死ぬか分からんし。でも俺より先に死なれたら意味がないんで、俺が死ぬまで死ぬなよ」
「身勝手なやつだな」
「ごめんな、これが俺の一生のお願いだからさ。」
朝起きて机に目を遣ると、コップの中で完全に氷が解け切って水になっていた。時間が経ったせいで少しだけ埃が浮いている。グラスを傾けて少しだけ舐めてみると、仄かに甘みを感じた。
せわしなくシャツのボタンを閉じて、腕時計を嵌めながら時間を確認する。そろそろ出ないと電車に間に合わない。俺は鍵を閉めてポストに入れ、駆け足で家を出た。太陽は夏の坂を駆け上がっている。
一生のお願い 浅原 俊 @tasahara
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