第3話 漁師の妻だった

わたしは漁師の妻だ。とにかく美人だけど幸の薄そうな美人だ。

夫はいい人だけれど、濃い体毛や汗臭い体はどうにも好きになれない。

行倒れのところを助けてもらったとか何かの理由で好きでもない彼に嫁いだらしい。


夫は留守がちだし、結婚してしばらく経った今でも子供は授からない。夫は漁から帰ってくると毎晩わたしを抱いたけれど、全然気持ちよくない。そんなことおかまいなしに夫は自分だけですませてしまう。だから子供ができないの?


わたしは暇をもてあましていた。

漁のために夫が何日も帰らないことはざらにあるし、友達や家族もいない。子供がいればなぁと思う。

そんなとき、村のはずれで物乞いを見かけた。都ではよくいるそうだけれど近所で見るのは初めてだった。わたしは興味を持って恵んでみた。何も面白いことは起きずにただお辞儀をするだけ。

次の日もまた次の日もわたしは物乞いに恵んでやった。

いつもそいつは黙ってお辞儀をするだけ。わたしは口が利けないのだろうと思った。


だけどある日、そいつがいきなり口を利いた。


「奥さん、そろそろ家に帰ったほうがいい。雨になるぞ」


初めて顔を上げたけれど、毛むくじゃらで歳はわからなかった。おじいさんだと思っていたけれど、それよりは若いようだ。


「あんた、口が利けたのね」

「大雨になる」


言っているそばから雨が激しく降り始めたので、わたしは慌ててかけだした。

まるで易者みたいな物言いだ。やはりおじいさんなのかもしれない。

わたしは振り返って彼を見た。そして、言葉を失った。

彼には左足がなかった。杖を突いて、のろのろと歩いていた。

わたしは濡れるのもかまわずに、彼の後をつけた。

彼は高台にある、ぼろ屋に住んでいた。家なんてものじゃない。

壁は崩れ、天井は抜け落ち、今にも崩れそうだ。それでも彼は上がってむしろに包まってしまった。


家に帰ると数日ぶりに夫が帰ってきていた。わたしは買い物に行こうとして降られてしまったといった。夫はそんなわたしの話など興味がないらしく、汗臭い体でまたもわたしを抱いた。


「寂しかっただろう?」


寂しかったといえば、そうに違いない。けれど、夫が帰ってきてその寂しさがいえたかといえばそうじゃない。けれどわたしは幸せだ。食べるものも温かい蒲団も雨風を防げる家もある。


次の日から、彼は街頭に座っていなかった。咳をしていたことを思い出す。

あのあばら家で、食べ物もなく病んでいるのだとしたら、死んでしまうかもしれない。

わたしには関係のないことだ。忘れようとしたが、どうにも気になる。

わたしは無意識に作りすぎてしまったひるげを包んで、あのあばら家に向かった。

案の定、彼は寝込んでいた。

わたしは迷ったが、重い咳を聞いて、血でも吐いているのではないかと思ったとたん、いたたまれなくなってつい声をかけた。


「もぅし、」

「夜鷹なんか買う金はない。商売ならよそでしな」

「失礼ね、あたし、夜鷹なんかじゃないわ」


むしろを無理矢理はがすと、彼は驚いて声をなくした。


「いつものところにいなかったから、咳をしていたし、心配で……」


彼はそれでも目を丸くしていた。


「ごめんなさい、昨日、あんたのあとをつけたの、これ」


食べて、という前に彼は椀に直接口をつけて豚のように食べ始めた。

わたしはおそろしくなって、逃げ出そうとしたが、食べ終わった彼は笑顔で


「こんなに腹いっぱいにうまいものを食ったのは一年ぶりだなぁ」


と言って倒れこんでしまった。

彼のおでこに触ると、かなりの高温がでていた。

わたしは井戸から水を汲んできて、自分の手ぬぐいをおでこに乗せてやった。

ずいぶんと臭う。夫のにおいの何倍も。

いても経ってもいられずに、わたしはあたりを掃除し始めた。

汚いし、臭いし、何もないけれどゴミを片付けたり床を掃いたりするのは楽しかった。

それでも彼は目覚めなかったが、大きいいびきが安心感を与えてくれた。

あたりは少し小綺麗になったが、臭いの原因はやはり彼自身のようだ。

わたしは仕方なく、手ぬぐいで彼を拭くことにした。

彼の着物の懐を開くと、意外なほどたくましい体つきをしていた。

わたしはなるべく意識しないように事務的に彼の体を拭き始めた。

息をとめて帯に手をかけようとすると、その手を急につかまれた。


「俺には脱がされる趣味はない。脱がすことは好きだけどな」


男の手は力強く、抵抗できなかった。臭いからだ、汚い着物、床もところどころ抜けていて、固い。

わたしは力づくで犯された。

しかし、男のそれは夫の自分本位の行為とはまったく違っていた。

わたしの体をもみしだき、舌で愛撫しつくす。


「女を抱くのは……いつぶりだ? あんたほど綺麗な女は初めてかもしれないな」


わたしも初めてだった。女の快楽というものを感じたのは。

それでもわたしの心は夫への罪悪感と自分の浅はかさへの後悔と目の前の男への敵意に満ちていた。

コトが終わるとわたしは泣きながら走った。走って家に帰った。


わたしはその日から彼のことは考えないようにしたし、彼がいた道は通らないようにした。

沈んだわたしに夫は懐妊の兆しかと期待しているようだった。あの男と関係を持った日から夫のことも拒んでいたから。

しかし、わたしがそれを否定すると夫はまた毎晩のように体を求めてきた。

毎晩、毎晩、毎晩。

時化が続いて漁ができないために夫はずっと家にいるのだ。

わたしは気がめいった。何もすることのない夫とその妻。朝から体を求められる毎日。

夫はけして冷たいわけじゃない。けれどわたしを喜ばせる気はないようだ。

嫌でもあの男とのことを思い出す。あの男は執拗に撫でまわし、舌を這わせ、わたしの体に初めて快楽を味わわせた。


「嵐がひどくなってきやがった。そろそろここをでて実家に避難するか」


家はかなり海に近いところにあったので、嵐が来ると少し離れたところにある夫の実家に避難させてもらう。

荷造りしながらも外からの吹き込む風の音はかなり大きく、わたしはあばら家のことを思い出した。

あの家がつぶれてしまったら……。


夫の目を盗んで、わたしは家を抜け出した。

あばら家にいくと、男は驚いた顔でわたしを見た。


「なんで来たんだ?」

「わからない」

「こんなところにきたら、下敷きになって死んでしまうぞ」

「だから!」

「助けにきたのか?」

「わからない。わからないけど、あんたが死んでしまうなら、もう一度逢ってから死んでほしかったの」


男は、わたしを抱きしめた。抱きしめて、激しく口づけした。


「もう一度、抱かれたかったのか」

「多分、……そうね」


男は乱暴にわたしの着物を脱がし、激しく抱いた。

このまま、このあばら家は崩れるかもしれない。そう思いながらも激しく求めあった。

この男とこうして激しくお互いを求めあい、快楽の波に飲まれながら死んでしまうのも悪くない。


一夜明けるとあばら家はどうにか持ちこたえたようで、それでも戸や壁板の一部はどこかに行ってしまった。

わたしはどうやら気をやったまま寝てしまったらしい。柱の陰にわたしを寝かせて、男は寝ずに見張ってくれていたようだ。


「起きたか」


わたしは答えずに居住まいをただした。

その時、わたしは初めてはっきりと男の顔を見た。抱かれている間も顔を見ていたはずなのにまるで初めてあった人のように思えた。

男はいつの間にかひげも月代も剃って、浪人然としていたのだ。


「お前に話したいことがある」

「はい」

「わたしの名は○○という」


男はある大名の子息だという。

嫡男である異母兄との間に確執があり、謀反を企てたという言いがかりをつけられ、家を追われた。

命を狙われ、一緒に逃げた家臣たちもある者は殺され、ある者は裏切り、とうとう誰もいなくなった。片足を失ったのも家臣の裏切りが元で、命からがら逃げ続け、この漁村にたどり着いたのだという。

しかし先日、信頼できる大名の重臣が自分を見つけ、異母兄との間を取り持ってくれたので、ついに帰参が許された。

そして、わたしについてこないかと言うのだ。

わたしは即答した。


「それはできないわ」

「なぜだ。かような寂れた漁村を出て、城で暮らせるんだぞ? うまいものを食い、綺麗な着物を着て、たくさんの家臣たちにかしずかれて暮らせるのだ」

「あんなイノシシみたいな男だけど、この腹の中の、ややの父親だから」

「お前、身ごもっているのか? まさか俺の……」


わたしは首を振る。

彼は小さくため息をついて、「わかった」とだけ言った。


それからは一度も会っていない。


数日後に河原でなんとかという大名の次男が謀反の咎でさらし首になっていると聞いたけど、見には行かなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こんな夢を見た。 銀河ひろ @satohiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ