第10話
麻璃に手を引かれ、穏やかな足取りで我が家を出る。二人で家を出た瞬間、手を触れていないのに玄関扉が勝手に閉まり、ガチャリ、と鍵のかかる音がした。扉の向こうから兄の叫び声が聞こえてきて、玄関扉が何度も内側から叩かれる。俺たちを追って扉を開けようとしているようだが、扉はまるで壁にでもなったようにびくともしなかった。
揺れる扉を見て、麻璃が鼻で笑った。
手を繋いだまま、ご機嫌な麻璃と道路を渡る。幹線道路にも近いせいか、相変わらず車の往来が激しい。家からどれだけ離れただろうか、百メートル以上歩いたくらいで、麻璃が楽しそうに口を開いた。
「急ブレーキにご注意ください」
彼女の声に合わせて甲高いスキール音が鳴り響いた。振り返ると、大型トラックが他の乗用車数台を巻き込みながら、火花を散らして寸胴の満月家に猛進しているところだった。辺りに響く金属音、飛び散るガラスや何かの破片と、割れる音。コントロールを失ったトラックが道路で踊り、潰された乗用車と絡み合う。そして。
トラックが玄関を突き破って家に突き刺さった。
全身を揺らす爆発音を聞いた。化学室の事故とは比べ物にならないほどの轟音が辺りを震わせ、爆発と共に紅蓮の猛火が夕闇の空に舞い上がった。炎は俺を十五年間育てた木造の家をたちまち包み込んでいく。トラックは乗用車を潰しながら家の玄関から斜めに突っ込んでいた。ちょうど、トラックが玄関とリビングに突き刺さる形だ。
「死ね。死んでしまえ」
燃え上がる炎に狂った笑顔を輝かせる恋人。かつて恐怖していたその笑顔を、少しずつ、俺自身が望み始めていた。この笑顔を見せるとき、麻璃は喜んでいて、喜ぶ麻璃の姿を見ることは俺も幸せだからだ。
彼女は俺の父や兄を、手を触れることなく吹き飛ばした。移動教室で席が隣同士になったこと、化学室で女子二人を焼き殺したこと、そして今回、俺の目の前で家族を家ごと消し去ったこと。自分の恋人が本当に悪魔の子で、人知を超えた力を持っていることを確信していた。
騒ぎを聞きつけて、近くに住む人たちが外に出てくる。これだけ大きな事故になれば誰かが通報してくれることだろう。しばらくすれば消防や警察が駆けつけて、消火作業も始めてくれそうだ。
「みんな、死んだんだな」
分かってくれなかった両親と、どこまでも俺を苦しめ続けた兄。
殺したいほど憎んだ家族の死。望んだことなのに、なぜか胸が苦しい。たとえるなら、嘘をついた後のような感覚だった。選択する直前までは渇望していたことなのに、いざ選択してみたり、渇望していたことが叶ったりすると、後悔や罪悪感がやってきて、自分をかき乱して葛藤させる。一番極端な表現をすれば、仮病を使って学校を休んだときの不快感だ。もっとも、この感覚を理解できるのは、仮病を使うことに罪悪感を覚える人間に限定されるだろうが。
「麻璃」
胸の苦しみを紛らわせるように、麻璃へ向き直る。
一つだけ、渇望して叶ったことに喜べることがあった。
それは麻璃の存在だ。
ずっと燃やしていた赤い瞳は美しく潤む黒い瞳へ戻っている。俺が最も愛する恋人の姿だった。付き合い始めてからもっと、もっと麻璃が愛しくなっていく。そしてそんな麻璃も、俺に気持ちを向けてくれる。家族がくれなかった思いやりと、焼けただれてしまいそうなほどの熱い、熱い愛情を。
終わらない、尽きない愛情の応酬。
それが、心地よかった。
「見捨てないでくれ。ずっと一緒にいてくれ。お前がいないと、俺はダメなんだ」
「響志郎くん……」
両手で胸を押さえて、麻璃が赤面する。
家族を憎み、殺したいと望んだ。麻璃は、恋人である俺の望みを叶えてくれたのだ。家族という重圧を取り除いてくれたのは麻璃の愛情なのだ。もし、この胸の痛みが未練や後悔だというのなら、悪魔の子を愛して、悪魔の子に俺のすべてを捧げて消し去ってやる。麻璃が狂ったように笑うなら、俺も同じように笑ってやるんだ。
「ねぇ、響志郎くん。私が今日の帰りに『ちょうどいい日かもしれない』と言ったのを覚えていますか?」
麻璃は赤面したまま、照れくさそうに後ろ手を組んだ。渇望した『家族の死』に引かれ続けるわけにはいかない。麻璃が話題が変えてくれたのはありがたいことだった。これもよき伴侶がなせる気遣いか。うなずいて、笑顔を返した。
「ああ、覚えてるよ。この事故のことだったのか?」
「いいえ。実は今日、私の誕生日なのです」
「えっ! 誕生日だったのか!」
驚いた。そういえば、お互いの誕生日はまだ伝えていなかった。付き合い始めたときに聞いておくべきだったか。愛する彼女の誕生日もチェックせず、家族の醜態をさらして、おまけにこんな危険な事故までプロデュースしてもらうとは。まったくもって気の利かない彼氏だ。
「……ご、ごめん。大切な日なのに、こんなことさせちまって」
「謝らないでください。誕生日だからこそ、ちょうどいい日、なのです。私、響志郎くんから最高のプレゼントをもらったのですよ?」
笑いながら、麻璃が胸の中に飛び込んできた。初めて知ったときから変わらない、甘いベリーの香りが弾ける。ここにはもう、俺を縛りつけるものや、恐怖させるものは存在しない。あるのは、心から愛する恋人の存在だけ。悩み続けた過去も、家族の死も、麻璃はすべてを霞ませてくれる。のしかかる重圧から解放されたようなすがすがしさを感じながら、温かくて柔らかい麻璃の感触を受け止めた。
「今年の誕生日プレゼントは響志郎くん、あなたです。これからあなたとずっと一緒に過ごせるなんて、麻璃は本当に、幸せです」
俺自身が誕生日プレゼント。そう語る麻璃の笑顔は、燃え上がる炎に照らされて煌びやかに輝いていた。この笑顔を向けられれば、俺だって幸せだ。麻璃が望むのなら、命だって喜んで差し出そう。
麻璃を受け止めながら焼ける我が家を見ていたら、サイレンの音が聞こえてきた。
「……そろそろ来るみたいだな」
「放っておきましょう。みなさん、事故に夢中で私たちに気づいていませんから、今のうちに帰って、消火活動が終わるまで我が家で休んでください」
ありがたい気遣いだった。どうせ安否確認のために俺のところへ連絡が来る。それまで麻璃に甘えて休むことにしよう。麻璃の不思議な力を見た両親と兄は全員死んでいるし、そもそもトラックが勝手に突っ込んできたのだから、罪悪感を覚える必要もない。しかし、学校の化学室で起きた事故も、俺と麻璃が揃って遭遇していた。今回の事故を含め、俺たちの近くでもう五人が死んでいることになる。
今後、周囲から多少なり奇異の目で見られることにはなりそうだ。
「事故の処理が終わって落ち着いたら、少しずつ麻璃のことを教えてくれないか。麻璃の力、麻璃の家族、麻璃の好きなこと……。受け止められるように、頑張るから」
「嬉しい……。私からもお願いします。こんな私ですけれど、どうか、ずっと愛してくださいね……」
けたたましいサイレンの音が近づき、消防車とパトカーが何台か道路に停まった。炎の勢いは衰えることなく、苦々しい過去と共に俺の家を焼き尽くしていく。しばらく麻璃を抱きしめた後、焼け落ちていく過去を背にして新しい帰路についた。
かつてヒーローに憧れていた俺は、そのヒーローが行使するような不思議な力を持つ少女と結ばれた。彼女は俺を愛し、俺のためにと力を振るい、迷うことなく苦しめる存在をねじ伏せ、摘み取っていく。容赦なく邪魔な存在を排していく彼女の意志は、恐怖するほど冷酷で、愛しいほど純粋だった。
麻璃は俺を苦しめる存在が現れれば、これからも自分の正義を信じて抹殺していくだろう。そして俺は、そんな彼女の殺戮を愛情だと信じて、ますます彼女へ依存していくことになるだろう。
そう。
これが、俺たちの青春。
これが俺と麻璃の愛の形なんだ。
「お誕生日おめでとう、麻璃」
隣を歩く俺を見上げて微笑む麻璃。
悪魔の子は、炎に焼かれた家族より、ずっと温かい愛情を注いでくれる気がした。
マリ 松山みきら @mickeylla
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