第9話
「だっ、誰っ!?」
太った母が父の腕を引きながら立ち上がる。麻璃は土足のままリビングに踏み込み、俺の家族を見回してゆっくり頭を下げた。
「初めまして。響志郎くんとお付き合いをさせていただいております、叉神麻璃と申します」
「……マジかよ。お前、こんな美人が彼女なの?」
兄が薄ら笑いをして麻璃を見上げた。
汚い目で見るんじゃない。くそったれ。
麻璃は呆然とする俺に微笑み、腕をとって立ち上がらせた。女神に導かれるように、すがりつくように足が動き、悲しみと嬉しさがマーブルに入り混じったまま、麻璃の隣に立った。
「極めて質の悪いみなさまの思いやりで、響志郎くんが独り立ちすることになりましたので、お迎えに上がりました。今後、彼は我が叉神家の婿となり、立派な殿方として生きていくことになります」
辛辣な皮肉が込められた言葉に腹を立てたのか、父が目元を曇らせた。
「失礼なやつだ。土足で家に上がって、勝手な――」
「黙れ」
麻璃の瞳が赤く瞬く。瞬間、父が自分から吹き飛んだように背後にあったソファーへ勢いよく激突した。ソファーは父の身体を受け止めきれず、大きな音を立てながら父と一緒に床へひっくり返ってしまった。
「きゃあ! あなた!」
倒れた父へ母が駆け寄る。
吹き飛ばされた父を見て、兄が麻璃をにらんで立ち上がった。
「な、何だ、お前がやったのか!?」
両手を広げて飛び掛かろうとする兄へ、麻璃が瞳を向ける。今度は兄が吹き飛ばされて、強烈な振動と共に壁へ身体を打ちつけた。白い壁にかかっていた時計が兄の身体と一緒に床へ落ちて割れた。
筋肉質で大きな身体をしている兄が、俺の恐れていた兄が、いともたやすく吹き飛ばされ、床を舐めている。麻璃は痛みにうめく兄へ歩み寄り、その頭を右足で踏みつけた。ローファーが右へ左へ傾いて、文字通り、兄の頭を踏みにじっていた。
「響志郎くんをいじめておきながら記憶にないとおっしゃいましたね。この嘘つき」
踏みつけていた足をゆっくり振り上げて、サッカーボールを蹴り飛ばすように思い切り顔面へ叩きつけた。鈍い音がして、大声を上げて兄が顔を押さえた。鼻があらぬ方向へ曲がって、血が流れ出ているのが見えた。蹴り飛ばしただけでは飽き足らず、足を上げて、二度、三度、うめく頭を何度も上から踏みつける。愛しい恋人の瞳は大きく見開かれて真っ赤に輝き、満面の笑みを浮かべながら兄の頭を蹂躙していた。
「隠したって無駄です。幼い響志郎くんに理不尽な暴力を振るっていたことはすべて知っています。ほら、まだ嘘をつきますか? ほら、ほら」
ほら、ほら、と心底嬉しそうに頭を踏みつける。
床が揺れて、振動のたびに起き上がれない兄が情けない声を漏らした。
愛しい悪魔の所業はこの上なく快感で、俺の口元は、緩んでいた。
「よくも、よくも、私の旦那様を辱めてくださいましたね。彼が感じていた恐怖と苦痛はこの比ではないのです。その身を持って知りなさい」
血の繋がった兄弟に暴力を振るわれ、弄ばれたこと。まだ麻璃に話していない過去だというのに、本当に、何でもお見通しなんだな。
愛する人に情けない過去を知られて、わずかに胸が痛んだ。
「ご両親がそのいじめを必死に隠そうとしたことも知っています。いじめられた事実を響志郎くんが周囲に話せば、満月一家は笑いものになる。お兄様、ちょっとあちらへどいていてくださいね」
踏みつけていた足を離して、もう一度兄の顔面を勢いよく蹴り上げる。
ローファーの先が兄の片目に突き刺さり、野太い叫び声が室内をビリビリと振動させた。兄は顔面を押さえたまま、麻璃から逃げるように窓際へ転がっていった。
「失礼しました。……笑いものになるのを恐れたご両親は、息子を束縛し続けることを選択されました。ご自分の体裁ばかり考えて、息子のことは微塵も思わない。お二人にも少しばかりお仕置きが必要ですね」
母に支えられて抱き起される父。両親は目を見開いて麻璃を見上げ、蒼白になって震えていた。麻璃が両親へ再び真っ赤な瞳を向ける。二人は短いうめき声を漏らすと、見えない糸で首を吊り上げられたように宙へ浮いた。
両親の顔がゆで上がるように見る見る紅潮していく。
必死になって足をばたつかせ、首にある見えない何かを取ろうともがいていた。どうやら麻璃の力で首を絞められているようだ。彼らが漏らす声が大根役者の演技みたいにおかしくて、小さく笑ってしまった。
「子を守り、導く責任から逃げた代償は、巡り巡って親に返る。親不孝というものは、親自身も原因になり得ることを知りなさい」
「響志郎、てめぇは家族を見殺しにする気か! 止めさせろよ、バカ野郎!」
顔を押さえながら兄が裏返った声で叫んだ。俺の心を殺して苦しめたやつが、何を偉そうに言うのか。麻璃も同じことを思ったのか、兄を見下ろして首を傾げた。
「響志郎くんの心を殺してきたくせに、よく言えたものですね」
首を傾げたまま、瞬きせずに地を這う大男を見下ろす。麻璃の赤い瞳が大男の顔を捉えて数秒後、彼は両手で頭を押さえながら絶叫した。腹の底から出したような大声が、リビングの中にビリビリと響き渡る。頭を床や壁に自ら打ちつけながら、涙と血とよだれで顔を汚してのたうち回った。
「ああああああああああああ!」
目を血走らせて叫び続けるみじめな大男。やつは一体何に苦しんでいるのか。麻璃がやつに与えた苦痛は何なのだろうか。麻璃の口が弓なりに持ち上がった。
「愚かな男。あなたみたいな痴れ者をひざまずかせるのは格別です。しばらくそのままにしておきましょう。あぁ、ご両親はもう結構です」
脇で浮いていた両親の身体が床へ強く叩きつけられ、二人は大きく息を吸って咳き込んだ。一応、両親は解放されたようだ。床に置いておいた俺の通学鞄を拾い上げて、もう一度家族を見回す。
「さて。響志郎くんを連れ帰る前に一つ、チャンスを差し上げましょうか」
麻璃が俺を手を取る。愛しくて頼もしい、俺の愛する悪魔の温もりだった。
「彼に謝りなさい。そうすれば、あなた方の命は保証しましょう」
麻璃の親指が俺の手をゆっくりと撫でる。指先の動きから麻璃の意図が伝わった。
返答次第では、家族は殺さない。
凶悪な力を用いて苦痛を与えたのは間違いない。俺の苦悩を理解してもらうために、麻璃が俺の代わりに暴力を振るったのだと思った。両親と兄が俺に対して罪の意識を持ち、謝れば、俺を叉神家に連れ帰るだけで済ますつもりだ。
恋人によって蹂躙された家族たちを見やる。
不思議なほど、俺の心は落ち着いていた。
「だ、誰が謝るか! 俺は一つも悪くない。絶対に許さねぇからな、響志郎! 女に頼ることしかできないくせに!」
最初に罵詈雑言を放ったのは、絶叫に声を枯らしている兄だった。顔は涙と血とよだれに塗れたまま、肩で息をして、忌々しく俺を見上げてくる。過去にした仕打ちと今回の件を鑑みれば、この男が素直に謝るとは思えない。俺自身も期待していなかったのか、やっぱりな、とうなずいていた。
俺の手を撫でていた麻璃の指が止まる。
「……ご両親はいかがですか?」
声が低い。兄の返答は麻璃の怒りに火をつけてしまったらしい。兄に続いて問いかけに応じたのは小太りな母。震えながら吐き出した返答は一言で簡潔だった。
「人殺し!」
「こんなことをするやつに誰が謝るものか! ワシは許さんぞ」
父も母に続く。予想できたこととはいえ、愕然とした。
両親や兄にされた苦痛を恋人に相談したこと。自らの苦悩を恋人に打ち明けたことが、彼らにとっては満月家の名を貶める行為であり、血の繋がった息子を勘当するほどに屈辱的なことだったらしい。麻璃に相談する原因を作ったのは両親や兄にあるというのに、結局、彼ら自身のことは棚に上げたままか。
「聖書に有名な言葉があります」
家族全員の返答を聞いてから少しおいて、麻璃が口を開いた。目を閉じて、一言一言を聞き取りやすく暗唱してみせた。
「目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。……この言葉は、過大な報復や復讐を戒めるものだと聞きます」
やられたらやり返せ、というわけではなく、加えられた危害と同等の罰を与え、それ以上の報復や復讐は行ってはいけないという戒めの言葉であるという。俺は聖書を読んだことがないから分からないが、世界史か何かの授業で似たような言葉は聞いたことがあった。
「響志郎くんが十数年受けていた苦痛と同等のものをみなさんに処し、同じように苦しんでいただいた後に謝罪をさせ、それで済ませようと思っていました。十数年の苦痛に比べれば、この数分で感じたあなたたちの苦痛など刹那のもの。まだ気楽な方なのに」
顔を持ち上げて目を見開く。
真っ赤に燃える瞳が怒りと共に家族たちを侮蔑していた。
「あくまでも罪の意識を持たないというのですね。くだらない驕りを優先し続けた痴れ者め。響志郎くんが語らずとも、満月家の名は、もう堕ちていた」
もう、ダメだ。
麻璃は俺の家族を許さない。
学校の事故でも、麻璃は殺しをする前に一度だけチャンスを与えていた。竹井や田中は麻璃の与えたチャンスを拒否したことで、火に焼かれ、二階から突き落されることになった。両親も兄も生きるチャンスを与えられたのに、自らのプライドを優先して拒否してしまった。
麻璃の慈悲を拒否した者には、死しかない。
「何が同等の苦痛よ! あなたたちは人殺しよ! 悪魔よ!」
母が震えながら裏返った声を飛ばし続ける。狂った叫び声を聞き流しながら、俺は首を横に振った。
「……見て見ぬふりをし続けたあんたたちは、その悪魔以下だ」
「響志郎くんと同じ意見です。あなたたちは愚かで醜く、薄汚いドブネズミ以下の存在でしかない。おっしゃる通り私は悪魔ですから、聖書の言葉には従いません。神があなたたちを守ることもないでしょう」
麻璃が俺の通学鞄を差し出してきた。
瞳は赤いまま、俺を見上げて微笑む。
「帰りましょう、素敵な旦那様」
俺も笑顔でうなずいて、通学鞄を受け取る。仕事に出かける夫を見送る妻のようで、可愛らしかった。家族たちには目をくれず、麻璃と優しく手を取り合って踵を返した。リビングの入り口で、ふと、麻璃が足を止めて振り返った。
「響志郎くんという素敵な殿方を産んでくださったことだけ、感謝しておきます。それ以外では邪魔者でしかない。だから――」
死ね
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